『ゆらぎについて』

ラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 機械でリズムを奏でる。正確無比で永遠に同じリズムを刻める。人間がやるとそうはいかない。たとえばドラムだといくら正確な技術の持ち主でも、ドラムマシーンと比べたら不正確な「ゆらぎ」がでてくる。しかし人間が奏でる音楽に、機械で作った音楽にはない良さがあるとすれば、そういった「ゆらぎ」にこそ秘密が隠されています。
 不正確さが禁じられた場所(たとえばある種の仕事など)では「ゆらぎ」は排除される。あるいは強迫観念的に「ねばならない」に支配された人の周囲も揺らぎは排除される。しかしそこにあるのは機械が作り上げる正確な結果と、失敗や汚れを一切受け入れないという神経症的なありだけ方です。
 そのような機械的な世界観に対し、自然な世界観は多様な「ゆらぎ」に満ちています。枯れ葉の落ち方から滝のしぶきまで、正確さとは無縁の動きに満ちている。しかしそれらのランダムな動きも「自然」という超法則的な原理によって動いています。そして自然の一部である人間もその原理の一部であり、であるがゆえに「ゆらぎ」にたいする根本的な親和性がある。美的感受性もそこに発動する。私たちは揺らぎを受け入れることで、初めて調和が保たれる存在なのです。

AUTOPOIESIS 212/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『比較優位性について』

イラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 ビジネス書などを開くと「比較優位性」という言葉がよくでてきます。読んで字の如く、他との比較において優位性を保つことです。この発想の根底にはあきらかに競争があります。ゆえに、この比較優位性への固執を放置すると、強烈な競争志向、他を押し退けて自分だけが優位に立つことを常とする殺伐とした生き方にも繋がってきます。心理学者のアドラーが優位性への固執が病理であることを示したように、この比較優位性という基準は、資本主義経済が生み出した負の遺産と考えることもできます。
 そもそも比較することには何ら問題はなく、比較なくして多様性の社会は成立しません。問題は比較したあとに優劣をつけようとすることです。つまり物事を上下でしか考えられない状態です。例えばインスタグラムなどで他人の充実ぶりと、自分を比較してコンプレックスを抱く。上手く行っている人との比較で自己否定する。こう言ったことは比較の後に優劣の判断を加えている。しかしそもそも前提も環境も違う事柄同士を単純に比較できるかと言えば出来ないのです。国語と算数の点数を比較できないのと同じレベルで、実際は他人と自分の生活状況は比較できない。
 比較できないものを比較してしまえるのは、そこに同じ基準を設けているからです。例えばノートと花は本来は比較できませんが、そこに値段という基準を設けることで比較できてしまう。他人の生活と自分の生活という本来比較できないものを比較する基準はなんでしようか。それは世間体という基準でしょう。この世間体への固執が強いと全てが比較対象になり優劣もついてしまう。ここにアドラー的な心の病を生んでしまう原理があります。心の健康を保つためには、世間体という基準を知りつつも支配されない「距離感」と、比較優位性など意に介さないという「独立した個人」を意識することが最大の処方箋になるのです。

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『ムダを許容する』

イラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 機械に油をさすと円滑に稼働するという現象があります。たとえば自転車のチェーンに油をさすと急に進みが早くなり運転もらくになる。これは部品と部品の間の摩擦を軽減することで全体が円滑に稼働する現象です。つまり各要素の間に隙間を作るということ。この隙間を設けておかないと複数の要素からなるシステムは必ず問題が発生してくる。
 隙間とは空白であり、重要な役割を担っている格パーツからすると無意味な存在です。それ自体では価値がなく無駄なものと判断される。もちろん数値化もできず重要視することも難しい。しかしその無意味で価値がないものが存在することで、すべてが健全に機能しだす。つまり必要だと思われているものだけで構成されたシステムは、非効率な構造であり未来の破堤を示しているということです。
 これは機械に限らず、人間関係や考え方に至るまで原理は同じです。必要な要素だけで構成された系は非効率と破堤へと向かう。たとえば強固な村社会(似たもの同士)のシステムだと、異質な存在(無駄)は排除されてしまう。しかしこの同質維持の傾向が非効率と未来の破堤をつくる。思考も新しいものを取り込まないと同じことになる。つまり部品として役に立たないからこそ、空白の存在は“全体にとって”不可欠な要素となる。この無駄を許容できるシステムこそが健全なシステムなのです。

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『二つの形について』

イラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 ものの形には一瞬で作り出すことが出来る形と、時間をかけることで作り出される形の二つがあります。たとえば池に石を投げ入れると水が跳ねる。その一瞬を写真に収めると、いわゆるミルククラウンが出来る。これは一瞬で出来る形の代表です。それに対し、たとえば木の年輪は何十年、何百年もかけて出来る形です。前者はその形づくられる動きが見る側に知覚できる。後者はその動きが緩やか過ぎて知覚できない、という特徴があります。
 短時間で出来る形は動きが把握できるので、作り出すことも容易です。それに対して長い時間をかけて作り出される形は、生成のプロセスを知覚できないので、作り出すことが難しい。例えば顔を整形して変える。これは簡単にできます。しかし長い時間とともに出来る「人相」を作り出すことはできない。整形で作られる形と「人相」は別に次元にある形であり、この二つを混同すると「長期的な変化」を無視した世界観、つまり「短期的な世界」だけに生きることになります。
 人相の「相」とは時間をかけて作り出される形であり、パターンの分布によって出来上がる結果を表す言葉です。この「相」は手相や人相のように長年の蓄積(ものの考え方など)によって刻印されるもので、一瞬の表情とは別種の形です。つまり時間をかけて出来上がるものにはこの「相」がある。例えば絵にも「相」がある。私は「絵相」と読んでいますが、これは瞬間的な技術で作られるものではなく、時間をかけて出来あがってくるものです。その「絵相」をよくする(人相が悪くならないように生きる事と同じく)事も大切で、絵の教室ではそういった点も大事にしています。この変化が知覚できない「相」というレベルの形をいかに良くするか。これは「長期的な安定」にもつながる重要な視点なのです。

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『技法について』

イラスト こがやすのり 古賀ヤスノリ

 絵には沢山の「技法」というものがあります。「技法」とはある規則性のもとに描けば必ずそのようイメージになるという、手順を示した設計図のようなものです。よって誰が描いてもだいたい同じ結果が得られます。そういった「技法」が沢山あり、すべて誰かが作ったものです。よって何かの「技法」に従って描くときは、誰かの指示に従って描くことになります。つまり自分で描いているようで、自分で描いていない、という奇妙な状態で描いていることになる。
 自分で描いているようで描いていない。この矛盾した状態は、描くという「運動」(身体)と、誰の描き方かという「主体」(精神)の、二つの区別が曖昧なときに起こります。つまり他人の技法であるのに自分で描いていると考える時、そこには「運動」と「主体」の未分化な状態がある。あるいは、主体性を放棄しようとするとき、人は他人の何かを全面的に採用して運動だけになろうとする。ここに「技法への埋没」という自己逃避の形式が浮き彫りとなります。
 何かを始めるときに「技法」が確立されている場合は、それを入り口とすることは有効です。しかしそれに依存すると主体性は消滅してしまう。主体性が消滅すると、以後は他人の技法を採用し続けないと立っていられられなくなる。そのような状態は不安定であり誰も望まないでしょう。これは絵の技法に限らず、既成に存在するあらゆる基準(例えば世間体からネットの一般論まで)に依存すると主体性は消滅する。この危険性を回避するには「『自分の技法』の作り方」を自ら習得する必要があります。これは模倣の次元にはなく、創造の次元にしなかい。そしてこの「創造する能力」は誰もが潜在的にもっているものなのです。

AUTOPOIESIS 208/ illustration and text by : Yasunori Koga
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