『出口のない迷路から脱出する方法』⑥

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 出口のない迷路から見えてきた月と、そこから発見した「相関性の原理」。入口と出口が重なり見分けがつかなくなった時、その構造はパラドクスとなり「内側しかない世界」となります。迷路の住人が外の世界と関係が切れたとき、あるいは外を否定し内部だけを肯定したとき、その構造は閉じて出口を失う。つまり外と内の相関性が失われた時、迷路は出入口を失い、脱出が不可能になるということです。
 迷路の外と内の間に相関性が失われた時に、迷路は出口なき構造となる。ならば再び外と内の間に相関性を作り出すことで、出入口が現れるのではないか。相関性は類似点を言葉や数字で括ることで生まれる。逆により小さな違いを分類することで、相関性の原理を免れると書きました。つまりそれまでは迷路の外側が「外」であり世界の「全体」であった。しかし迷路に入り込むうちに、迷路の外側が忘れ去られ、内側だけが世界の全てになってしまったのです。
 「資本主義的な相関性」から免れる方法は、数字や言葉による括りよりも、物事のリアルな「違い」に目を向け、注意深く分類を行うことでした。これとは逆に、出口のない迷路から脱出する方法は、外と内の相関性を取り戻すことです。つまり外と内が相関するレベルまで、内的に細分化した世界観を、大きく俯瞰して「全体を取り戻す」こと。そのためには細部を省略し、より大きな塊を全体として認識する必要があります。顕微鏡のレベルで世界を見ている限り、迷路の外と内が相関することはないのです。
 細部を省略し、より大きな塊を全体として見る。その全体をまた一つの分子として考え、その分子の集合体としての全体を見ていく。つまりマクロ的な視点を導入していく。このように「ミクロ視点からマクロ視点へのターン」を行うことで、迷路の外が見えてきます。この時点で迷路の内と外の相関性も回復される。出入口を探すまでもなく、私たちはすでに迷路の外に脱出したことになります。
 資本主義的な負の相関性は「マクロ視点での記号化」(共通概念による括り)と「貨幣経済」が無謀議に結びつくことで発生しています。この「マクロ視点」と「相関性」という所では「迷路の脱出方法」と重なります。しかし資本主義的な「負の相関性」は言葉や数字による記号化が要です。そのことによって形骸化という大問題を引き起こしています。それに対する迷路の脱出に利用した「マクロ視点」の導入は、「イメージによる相関性の回復」に他なりません。私たちは数字や言葉を超えた「イメージを思い描く力」(想像力)を使うことで「記号的に不可能と思われる構造」を超えていくことが出来るのです。

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『出口のない迷路から脱出する方法』⑤

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  相関し合わないものが言葉によって相関してしまう。それは細部の「違い」を無視して「類似部分」だけで物事を括ることで強固となる。さらにその括り方や共通項の選択は恣意的である。ちょっと複雑な見方ですが、ようは物事の共通部分に注目したもの同士が相関するということです。逆にそれぞれの「違い」に注目すると物事は相関性から免れる。
 相関性から免れるということは、他とは影響せずに独立であるということです。魚の種類分けを細かく行うことで、それぞれは独立していく。それらを一括りとするのは「魚」という言葉である。しかし言葉よりももっと強力な括りがあります。それが「数」です。数はすべてを同列のレベルに還元してしまう。魚も鳥も全て数字に置き換えてしまえば、どんなに違うものでも相関してしまうのです。
 魚と鳥が相関すればそこから奪い合いも起こる。本来は相関せずに争いも起こらないはずの事象が混乱していく。数字は便利である反面、世界に争いをもたらす原因ともなっています。言葉にしても数字にしても、社会を円滑に機能させるためには無くてはらなない概念です。その意味では社会を成立させる条件である「記号化」が、争いの原因であるというパラドクスがここにあります。
 数量化によって成立した社会がそこに「貨幣」という発明を利用することで、現在の資本主義は成立しています。現代ではお金こそが全てを等質な価値に還元してしまう魔法の尺度です。本来は相関するはずのないものたちが、あらゆるものと相関「させられている」という状態です。人々は奪い合い、争い合う。そこから得た利益がさらなる資本主義の原動力として投じられていくのです。

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『出口のない迷路から脱出する方法』④ 

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 「負の相関性」を阻止するには物事を「適切な階層へ分ける」必要があります。しかしそれを邪魔する者がいます。それは言葉です。例えばサバやイワシという種類が「魚」という上位概念でしか認識されなければ、この二つは「同じもの」として扱われます。つまり「魚」という言葉の括りによってサバとイワシは同じ世界に並列されてしまいます。エレベーターで言えば1階2階という「階層の“違い”」が「フロア」という上位概念で認識されることで、階層の違いは同じものとして扱われ、そこにパラドクスが発生することになります。
 言葉は世界を文節化して対象化し、名前をラベル貼りして出来たものです。海に住む生物のある特徴のものを「魚」や「fish」と名付ける。そして共通了解へと至る。この言葉が、細部の違いがある「実体」より先行すると、物事の階層分けの邪魔をすることになる。サバとイワシは同じ魚ですが、より詳しく見ると種類が違います。逆により大きな括りでみると同じものになる。魚であり、生物であり、食料になるものであり、お金になるもの、などです。
 細部の違いがある「実体」を無視して、大きな括りだけで捉えると、別々の階層にあるものが、同じレイヤーへと結合されてしまう。そうすると相関しないはずのものが相関することになってしまう。逆に、相関しているものたちの違いを発見し、分類することで相関を回避することができる。つまり「同じ所」に注目すると相関し、「違う所」に注目すると相関を回避できるということです。より平易に言えば、「仲間の条件」で括れば相関し、「仲間ではない条件」で括れば相関しないのです。
 ここで重要な問題は、それぞれの関係を「仲間の条件」で括ることも「仲間でない条件」で括ることもできるということです。つまりそれぞれの関係を相関させるか相関させないかは、恣意的な次元にあるということ。どちらが正しいとか、決まっているとかいったことはないのです。もちろん物理的な世界の物質は「押せば動く」という相関性がみられ、物理法則として決まっている。恣意的ではありません。しかしそれも物質の「位置」という視点で括っている時の相関性であり、「重さ」の視点ではお互い無関係です。その意味で、相関性は予め決まっていないと考える「相関の恣意性」は、視点や条件、括り方が恣意的(自由)であり、それらは主体的に決定することが出来る、ということなのです。

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『出口のない迷路から脱出する方法』③

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  「相関しない」とはお互いが関係のない世界にあるということです。シーソーや月の例は、「相関するはずのものが相関しない」例でした。これとは逆に「相関しないはずのものが相関する」現象もあります。たとえば漁師Aが魚を海で捕っている。その同じ海で、別の漁師Bが魚を捕る。すると漁師Aが怒る。海の魚が減るので自分の取り分が少なくなるというわけです。つまりAとBは相関しているという判断です。しかしAがサバをBがイワシを捕っているならば「相関しない」ことになります。その場合二つの世界は重なっていない。
 同じ場所で、同じ魚を目的としていても、お互いに相関しない関係が成り立つ。つまりレベル(クラス)が違っていれば、同じ場所で同じ振る舞いをしていても相関しない。綱引き(奪い合いや縄張り争い)にはならないということです。しかし現実社会はレベルが違うものを、相関していると思い違いをしてしまうことがよくあります。その結果、無用な争いが生まれることになる。しかし本当は相関していないので、現実と辻褄が合わない行動を繰り返すことになり、問題は逆に増えていきます。
 別々のレベルのものを同じレベルであると混同すると、そこに「パラドクス」が発生します。たとえばエレベーターを真上から見ると、どの階(レベル)に行っても同じ場所へ出ることになります。階層を無視(混同)すると「無限のループ」から出られなくなる。実際には違うレベルのものを、誤って相関させることは、エレベーターの階層を全て同じ階とみなすことと同じです。このような誤った相関性はパラドクスを発生させる原因であり、問題の解決を不能にする最も典型的なパターンです。
 サバ漁師Aが、誤ってイワシ漁師Bを同じレベルであるとみなす。するとそこに誤った相関性が出来ます。相関していないものを相関しているとみなすので「負の相関性」です。サバ漁師Aはイワシ漁師Bへ文句をいい、最後には言い争いになる。これは無意味な争いです。世界中で起こる争いの多くが、このような無意味な争いである可能性が高い。違うレベルのものを混同して「負の相関性」に支配されて争う。戦争すら「負の相関性」によって引き起こされます。物事を階層に分ける作業を怠ると、無益な争いが起こってしまう。よって、「負の相関性」が出来ないように、物事を「適切な階層へ分ける」作業が必要になります。しかしそれが思った以上に難しい。なぜ難しいのか。それは階層分けを邪魔する者がいるからです。では階層分けの邪魔をする者とは、一体何なのか。

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『出口のない迷路から脱出する方法』②

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 出口のない迷路に迷い込んだ時、どのようにしてそこから脱出すればよいか。その方法を考察していくうちに、いつの間にか迷路のイメージに入り込んでしまいました。出口のない構造とは外部との繋がりが断たれているとう事です。外部との繋がりのない場所へ、人はどのようにして入ることが出来るのでしょうか。夢のように「いつの間にか」閉鎖構造へ入ってしまうのか。
 夢はここからが夢です、という境目が分かりません。いつの間にか入っている。これと同じように出入口が塞がれた迷路(例えば出られない泥沼の状況)にも、いつの間にか入り込んでいる。一見入ることが出来ない所へ入ってしまうという意味では、まさにマジックのような現象です。しかしマジックには必ずトリックがあります。ならば出口のない迷路への侵入にもトリックがあるはず。それを発見していくことが、「出口のない迷路」から脱出する方法へと繋がっていくことになります。
 迷路の考察からいつの間にか入り込んだイメージ。高い壁に囲われた迷路と、夜空に現れた月。そこから認識された「相関性の原理」。閉鎖構造に入るためのトリックを、月の視覚的イメージより導き出した「相関性の原理」の視点から発見していくことにします。そのためには、「相関性」についてもう少し考えてみる必要があります。
 まず「相関している」ということは、お互いが「同じ世界にいる」ということを示しています。たとえば、同じシーソーに乗っていれば、片方が上がり、もう片方が下がる。もし別々のシーソー(別々の世界)に乗っていれば片方が上がっても、もう一人に影響はありません。これは当たり前のようで、かなり重要なことです。月の光と影は同じ世界にある。別の言い方をすると、同じ次元にあるということです。
 では、もし別々の場所にある二つのシーソーが、「同じ位置」に重なっていたらどうでしょうか。その場合は、片方が上がっても、もう片方は動かない。イメージするならば、片方はゴーストのように透けて動かない。実際に物質を同じ位置に重ねて存在させることは、三次元の世界では不可能です。しかし物理学の世界では四次元の世界が認識されていて、同じ位置に物質を重ねることが出来ます。そこでは同じ世界にあるものが、相関しないという現象が起こる。月の光が減っても、影は一向に増えていかないのです。

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『出口のない迷路から脱出する方法』①

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  出口のない迷路に迷い込んだ時、どのようにしてそこから脱出すればよいのか。「出口のない迷路」とは難問に出くわした時、あるいは泥沼の状況に陥った時など、解決不能と思われる状況を示す比喩でもあります。出口のない構造にいつのまにか入り込んでいる。つまり最初は入り口があり、そこから迷路の中へと入っていく。
 迷路には入り口がある。私たちは入り口から入り、巨大な壁で出来た通路を進んでいく。分岐点では直観を頼りに、出口へと続く道を選択していく。そして出口と思われる所まで来る。しかしはたと気付く。そこは初めに入ってきた入り口と同じ風景であることを。出口と入り口が切れ目なく繋がり、出口が消滅している。そして迷路から出られないことを知る。
 出口がないとうことは、入り口もないということ。その事実は永遠にこの構造から出られない事を示してる。そして絶望感が心を覆いつくす。もういくら進んでも意味がない。そしてヤル気もなくなってしまう。全ての行為が無だと感じられる。「ヤル気の喪失」は「出口なき迷路」から生まれる。
 すべてを放棄してしまい、ただ出来ることと言えば空を眺めることだけ。外は既に夜。美しい満月だけが夜空に浮かんでいる。無力な状態でただただ満月だけを眺める。そして永遠に思える時間が過ぎ去っていく。絶望すら感じられなくなったその時、丸い月が少しづつ欠けていき半月へと変化した。そして三日月になり最後には夜の空から姿を消してしまった。夜空には何もなくなり、自分の思考だけが残された。
 月の変化のイメージを何度も再現してみる。そうするうちに恐ろしく単純な原理に思い至る。満月の変化が示す原理。それは太陽に照らされた「明るい領域」が狭くなるほどに「暗い領域」が広くなるということ。つまり光と影は関係し合っている。片方が増えるともう片方が減るという「相関性の原理」がある。さらに「相関しあうもの」と「相関しあわないもの」はどのようにして決まるのだろうか。巨大な壁にもたれかかりながら、なにか出口へのキッカケとなるような曖昧な直観が頭をよぎる。

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『なぜ生きているのか』⑥

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 人間には精神がある。ゆえに人は精神的な問いから逃れることはできない。その問いを深める過程で文明が発達し、数々の発明や発見がなされていきました。資本主義や経済も人類の発見品の一つです。しかしどのようなシステムも必ず終わりがあります。人間が人間のために考え作り出してきたシステムが、ある時を境に、人間に数だけを目的とするよう強いる。そこには人間が精神をもった存在であることが無視されています。一言でいうと「反精神」です。
 「なぜ生きているのか」という問いは、精神的な目的を問う問題です。「私はいかなる精神的な目的のために生きてるのかしら?」という問いを究極的に洗練させると、「私はいかなる精神のために生きているのかしら?」そして最終的には、「私の精神とはなにか」へ行き着きます。つまり「なぜ生きているのか」「なんのためにいきているのか」あるいは「どのように生きるべきか」という問いは「私の精神とはなにか」という問いの多様な現れにすぎないということです。
 「私の精神とはなにか」。これが問いの洗練の終着駅であり、ここに答えがあります。しかしこの答えは駅を降りて外へ出かけ、多様な経験を自らが体感していくことで、少しづつ形成されていく答えです。つまり始めから用意された答えではなく、自分自身で創っていく答えです。よって人によって違った答えが出来ていく。しかし個々の問題の答えは「精神」という普遍的な共通項によって重なっている。答えを自ら作り出すことができる世界。とりあえずその世界の入り口である終着駅まできました。
 答えを自ら作ることができる世界。この世界は数の原理が届かないレベルにあります。もちろん物質にも影響を受けない。「なぜ生きているのか」という問いは「私の精神とはなにか」という問いであり、それは自分の精神を少しづつ認識していくことで明らかとなる。誰に強いられるのでもない、自分自身の経験の積み重ねによって答えが形作られていく。数や物質を目的としない世界。そのレベルでのみ、私たちは「なぜ生きているのか」という答えを創ることが出来るのです。

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『なぜ生きているのか』⑤

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 『私はいかなる精神的な目的のために生きてるのかしら?』という問いは、社会的なものや物質的なものを排除することで成立する「純粋な問い」です。『何のために生きているのか』といった問いは、この「純粋な問い」のレベルでしか答えにたどり着かない。そして私たちが無自覚に受け入れている資本主義や経済といった概念が、「純粋な問い」に対する不純物であることが分かりました。
 資本主義や経済を一言でいうと「数の原理」ということになります。すべては数を基準としている。よって「純粋な問い」を成立させるためには、数の価値観をすべて排除することになります。つまり『数のために』という一切の行為は、本質的な問題から逆行するという前提を持つということです。
 しかし現代の社会では、すべてが驚くほど『数のために』の行為になっています。全ては数に置き換えられ、その数を増やすことが目的となっている。それが習慣化すれば、実質は無視して数だけを目的とするようになる。つまり、数が目的となっている。資本主義や経済の原理は、数の原理であり、それは人々に「数を目的とすることを強いる」システムであるといことです。これは「精神的な目的」とは相容れないものです。
 「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」という問いは、本質的に「精神的な目的」を問う根本問題です。それは物質や数を排除した純粋な問い。この問題の答えが簡単に出てこないのは、現代の社会が人々に「数を目的とすることを強いる」からです。一つの精神をもった人間の本質問題を退けて、ただ社会システムが稼働し続けることを目的とし、そのために人々に「数を目的とするよう強いる」。よって、社会システムに無防備に従うだけでは、『なぜ生きているのか』という問題の答えは見えてこないのです。

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『なぜ生きているのか』④

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 「なんのために生きているのか」という問いの答えを発見するために、問いに答えようとするのではなく、問いを洗練されることで、その中から答えを蒸留していく。そして「私はいかなる個人的目的のために生きているのかしら?」という問いに行き着きました。しかしこの問題は、ただ物質やエネルギーを得て暮らすだけでは解決しない問題です。それは「精神」をもつ存在である人間の宿命。よって問いの中から物質的なものを除外する必要があります。
 物質的なものを除外した問いをたてると、「私はいかなる個人的、非物質的な目的のために生きているのかしら?」という長い問いになります。ひどく分かりにくいので言い換えると、「私はいかなる精神的な目的のために生きてるのかしら?」となります。結果的に個人を精神に置き換えただけですが、これはかなり重要なことです。
 問いから「社会性」と「物質」を差し引いた残りが今の問いです。ここまで問いを絞ると「精神的な目的」を発見すれば良いことが分かってきます。それは「社会的な目的」でも、「物質的な目的」でもないものです。普段その二つにしか関心がない場合は、答えを発見することが困難であることは言うまでもありません。
 「なんのために生きているのか」「なぜ生きているのか」といった問いの答えが出にくいのは、社会的なものや物質的なものに関心が向きすぎていることが原因です。つまり資本主義と経済に支配されると、根本的な問いに答えられなくなるということです。むしろ資本主義や経済は、そのような問いを考えさせないことで、一つの方向へ人々を流し込んでいく。しかし精神をもった人間であれば、この問いは最も重要な問いであり、決して避けられない問いなのです。

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『なぜ生きているのか』③

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 答えは問いのなかにある。そして「綺麗な問い」を創ることが答えとなる。そのために問いを洗練させていく。さらに洗練のために、問いにある「意味のレベル」を確定する。これがこれまでの論考の流れでした。では「なんのために生きているのか」という問いの「意味のレベル」を確定してみましょう。
 「意味のレベル」には生物的、個人的、社会的、という仮の分類を前回示しました。一般的なニュアンスからいって、「なんのために生きているか」という問いは、生物的なレベルではなく、個人的問題に属する問いです。もちろん社会的なことも関わってきますが、社会の最小単位は個人であり、個人の問題抜きに社会が成立することはありえません。よって今回は「個人的な意味のレベル」に確定します。
 すると「なんのために生きているか」とう問いは「私はいかなる個人的目的のために生きているのかしら?」という範囲に限定されます。社会的なものを一端外へ出してしまい、純粋に個人的な世界での問題です。①「私は」②「いかなる個人的目的」③「のために」④「生きているのか」と分解すると、②が分かればこの問題は解けそうです。しかし本当にそうでしょうか。
 そもそも③「のために」とう前提をそのまま受け入れてよいのか。自分が何かのために存在するという暗黙の前提が、この言葉にはあります。言い換えると「ただあるがままで存在する」だけでは不足である、という立ち位置です。もしただ存在しているだけで満足であれば、③「のために」は問う必要がない。人間以外の動物はこの状態にあるように見えます。しかし「問い」という性質自体が「意味」を求めるのであり、「問い」を発する人間という動物は、やはり生きる意味なしには納得できない存在かもしれません。
 人間は何かのために存在することでしか納得できない動物である。それは意味である。さらに個人的な意味である。その意味は②「個人的目的」によって生まれる。「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」、さらに「生きる意味はあるのか」といった問題は、すべて意味と目的を欲する人間に付きまとう問題です。それは「ただ生きているだけ」という、物質をエネルギーにかえて生きている「生物的なレベル」では満足できないという問題。よってこの問いを洗練させていくには、社会的なものだけでなく、物質的なものも全て、一度除外しなければならないのです。

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