『龍を退治する』

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 誰かの言いなり。これは自分の意思で行動せず、行動規範を他人からもらい、それにそってのみ行動する状態です。言われるがままに従う。外からみるとその人は操られている。しかし本人としては「自分で選んでいる」と思っている状態です。
 たとえば権力の言いなりになる。逆らうと怖いから従う。いやでも抵抗できない。しかし心のなかで、本当はいやで、この状態を何とかしたいと思っているとします。もしそうであるならば、その人は心まで言いなりになってはいない。もし心も折れてしまい、完全に諦めてしまえば、本当の意味での言いなりの状態と言えます。
 心で抵抗しているとき、そこにはその人の主体がある。自分を守っている。しかし完全に諦めた状態は、その人の主体が権力によって制圧されてしまっています。抵抗をやめるとそうなってしまう。そして服従することが普通の状態となる。
 実は服従することはラクなのです。抵抗という努力も、主体という責任も放棄してしまえばラクです。しかし本人はラクでも、外からみるとその状態は、何かに制圧された、見るに堪えない状態です。たとえばイジメられる人が、イジメられることを受け入れてしまった状態です。

 権力の言いなり状態は、究極のところ、自身の中にある「怖れ」に服従している状態です。西洋的なイメージを借りると、個々人の中に龍がいて、それを恐れている。それを自ら克服することで、人は自立へと向かう。これは神話学で有名なジョゼフ・キャンベルの指摘です。フロイトに精通していた彼は、このプロセスこそが精神的な病を治すプロセスそのものだといいます。
 西欧型の心理学の視点を借りると、権力への服従は、自己の中にある龍(怖れ)に服従してしまっているということ。そしてその状態に甘んじることで、ある種の「気楽な状態に留まっている」ということです。つまり自立以前の「幼児的な状態」へ固着している。「権力への服従」と「幼児性」、そして「精神的な病」は明確なつながりがあるのです。
 ヤル気が起こらず、根本的な諦めが自身を支配している時、そこには「権力への服従」がある。誰かの言いなりになっていて、そうなっている事すら意識に上らなくなっている。従っていればいい。しかしその状態は、自分の中にある龍(怖れ)から逃れるための言い訳です。龍と対決するにはそれなりの武器と知恵、そしてなにより勇気が必要です。それは世界中の神話やファンタジーの中に、象徴的に描かれています。
 自分自身を守れるのは自分だけです。もし自分が諦めれば世界は制圧されてしまう。龍と戦うためにはあらゆる作戦が必要です。自らが英雄となり、自己の中に潜む龍と戦わなければならない。ファンタジーという虚構に頼ることなく、真実の戦いのみが自らを解放する。その第一歩は、「権力への服従」を認識することであり、龍を発見することから始まるのです。

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『安定と不安定』

 安定とは停止ではない。安定とは船が絶妙な舵取りで、不安定さを打ち消すことで維持された状態。それに対して停止は、舵取りを放棄して、不安定さに飲み込まれた状態。前者は努力を続けることによって、得られるものであり、後者はすべてを諦めた結末です。
 安定とはそもそも不安定の対立概念です。つまり不安定がないと安定もない。それに対して停止は、安定や不安定といった「揺れ動き」自体が止まってしまった状態です。動きが一切なく、生物でいえば死んだ状態です。
 海で魚が泳ぐ。安定して泳ぐには流れの方向に、もう一つ「別の方向」へ力を加えることで、自分が行きたい方向へ進む。海の流れは変わるので、そのつど加える力を変えながら泳ぐ。そうすることで安定が得られる。安定のために変化を続ける。ここには「安定の逆説」があります。

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 もし、変化を放棄すれば、流れにさらわれる。もしかするとその魚は、ラクで何の抵抗もない「安定」状態だと錯覚するかもしれません。しかしそれは狭い主観であり、外からみると死んだ物体のように、ただ流されているだけです。この「停止を安定と錯覚する」のは、諦めの境地という苦痛を覆い隠すための「痛み止め」のようなものです。
 安定とは「変化が維持できている」ということ。諦めて変化への努力を停止すると、不安定さの流れに飲まれてしまう。その事実が辛いので、停止を安定だと思うことで難を逃れる。このように自分を欺くことを「自己欺瞞」と言います。停止(諦め)を選ぶと「自己欺瞞」が必要になる。この「自己欺瞞」がさらに停止を強固にする。この出口のない迷宮から脱出するには、「変化を許容した安定」すなわち「安定の逆説」を作り出すことです。
 「安定の逆説」を利用したシステム。自己が変わることで安定した舵取りを続けること。時には失望もある。しかし生物が動きを止めた時点で死に至るように、人間の心もその動きを止めた瞬間から死に至る。停止を正当化すれば、すぐに自己欺瞞の迷路が出来る。精神はそのなかで健全に生きることができません。「変化による安定」という逆説。その逆噴射によってのみ、複雑化した迷路は、平面的な地図として消え去るでしょう。

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『無限の進化』

 変化とはなにか。それは以前の状態から別の状態へ移行すること。言い換えれば、前と今との間に「区切り」があること。さらには前には戻れないこと。つまり「戻れる領域内」は「無変化な領域」と言い換えてもいい。変化とはそういった「戻れる領域」から「戻れない領域」へと引っ越すことです。
 たとえば魚が進化して陸へと上がり哺乳類になる。哺乳類は魚へ戻れない。しかし前の状態を棄てることによって、そのデメリットをはるかに超えるメリットを得ることができる。変化できない魚は、いつまでも海のなかで過ごすことになります。
 魚にとってのデメリットは、水中で呼吸するために発達させた「エラ呼吸」の機能を失うことです。それは今まで自分の命を守ってくれた「絶対不可欠なもの」を棄てること。いわば自死を意味します。そこに変化することの「究極の怖さ」がある。それを超えたものだけが陸へと進化します。進化のメリットは、現在の魚と人間との違いにまで広がります。
 変化とはこれまでの状態を棄てること。その瞬間から「新しい形式」を採用すること。この変化は徐々にではなく、一瞬で変わります。同じ形式が長くつづき、ある瞬間からパッと変化する。捨てる時は一瞬で、徐々に捨てていくのではない。その意味で「待っていても何も起こらない」ということです。

無限の進化

 ヘルマン・ヘッセの『デミアン』という小説には、自分を長らく守っていた卵の殻を、自ら破って鳥が顔を出すというイメージが語られます。これは「死と再生」の象徴です。これまでの自分を自ら殺すことで、新しく生まれ変わる。このような「死と再生」のイメージは世界中の神話のモチーフでもあり、あらゆる進化、発展にとって普遍的なプロセスだと考えられます。
 このことから、過剰に現状維持に固執すれば、進化や発展を阻害することになります。実は現状維持を目的としたシステムは、必ず破堤するという逆説がある。新陳代謝できない人体はすぐに死に至る。考え方も硬直化し、すべてを拒めばすぐに精神的な病となります。現状維持への固執は、新しいものを取り入れて、古いものを棄てる、という変化のプロセスを阻害してしまうからです。
 人が現状維持に固執する時、そこにはいきいきとした変化への「諦め」があります。その「諦め」は失望の連続によってもたらされた「絶望感」です。それを哲学者のキルケゴールは「死に至る病」と呼びました。その「諦め」の原因は、自分を守ってきた「卵の殻への過剰依存」にあります。自分を助けてきたものが、ある時点から、自分の成長を妨げ苦しめるものになる。しかしそこから出られない。殻を自ら破り捨てる勇気が、絶望の世界に光を当て、「無限の進化」への可能性をもたらすのです。

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『比較できない価値』

 カボチャが二つあるとします。どちらが重いか。それは量りにのせれば比較できます。どちらが大きいか。これも物差しで測ればいい。数字にすれば比較可能です。ならばどちらが美味しいか。これは個人の主観に頼らざるをえないので、明確な基準はありません。世界には比較できるものと、出来ないものがあります。
 例えばケーキなら美味しいほうが売れる。どちらが美味しいかは主観で変わる。しかし評判で間接的に測ることが出来る。でも評判が外れることもある。これは自分の主観が評判とずれているときです。世間とずれていても美味しくないものは美味しくない。それが主観です。
 ケーキの味を主観で比較することは可能です。ではカボチャとケーキの味の比較はどうか。そもそも種類が違うものを比較できるのかどうか。別種のものを比較するには共通の物差しが必要です。しかしなにもかも量化して数字にできるわけではありません。そこで値段をつけることで、比較できなものを比較してしまうことになる。

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 値段がついているものは、種類が違っていても比較が可能となっています。つまり高いほうが高価である、ということです。しかし、実際の内容と値段が正確に伴っていることは、そう多くはありません。適当に値段をつけられているものだってあります。確かなことは、値段によって金額が決まっているということだけです。
 ものの値段が本質的な価値を表していないとするならば、その価値を知るには「自分で判断する」しかありません。これまでの経験や知識、さらには感性や直観なども総合して、本質的な価値を判断します。そうすることで値段ほどのものではない、と見切ることもできる。もしそのような「自分の判断」がなければ、値段に従うしかありません。
 自分で判断する力がなければ、必然的にお金による判断に頼るしかありません。あるいは世間の評判に頼るしかない。値段、ブランド、モード、世間の評判、これらに従うのは、自分で判断する力がないからでしょう。つまり「比較できない価値」を認識できない。なぜなら、「自分」(自我)という「比較できない価値」を見失っているからです。「自分」が他人と比較できない存在であることを、実感していれば、自分の感性は発動し、「比較できない価値」を自分で判断できるようになるのです。

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『自我という機能』

 「人間は生物である」。その意味では、アメーバーなどの単細胞生物と変わりません。「人間は動物である」。その意味では、犬や猫と変わらない。「人間は高度な知能をもった動物である」。程度差はあれど、その意味で人間は、サルやチンパンジーと変わらない存在です。「人間は自我を持った存在である」。これは今もって並ぶものがありません。
 人は自我を持つがゆえに、他の動物との違いが明確になる。この自我とは何か。簡単に言えば「自分が『自分』と思っているもの」でしょう。言い換えると、「他と自分を“区別”している機能」、とでも言えばよいでしょうか。よって「みんなと一緒」になろうとすると、自我は喪失へと向かいます。
 もし「みんなと一緒」へ向かうことが、自我喪失の原因だとすると、それは「自我をもたない動物へ降格する」ことではないか。こう言うと、「人は社会的な動物なので“みんなと一緒”でなければ人間ではない」という人もいるかもしれません。しかし群れになる動物は「みんなと一緒」ですが、自我は持ち合わせていません。かれらは「本能」によって群れを成しているだけです。
 人間が集まって、「みんなと一緒」という気持ちになった時、自我はなくなります。硬い言い方をすると「責任」がなくなる。だから集まりたいと無意識で思っている人もいるでしょう。つまりここに「集団になると自我は消滅する」という定理が現れます。多数への帰属意識は、自我からの逃走である、というわけです。

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 集団になることで自我を失う。それが「群れ化した動物たち」であるとするならば、多数への帰属意識に支配された集団は「羊の群れ」なのかもしれません。そして多数決の原理である「民主主義」の社会も、「羊の群れ」の社会であるかもしれない。「民主主義」を推し進めることで、人々は自我を喪失し「羊の群れ」となる。これが「民主主義」の矛盾であり限界にある問題です。
 もし人々に「集団になれない状態」が発生すれば、個々の自我は守られます。つまり「羊の群れ」にはなれない。言い換えると責任は自分で背負うしかない。これまで「羊の群れ」で安心してきた人々にとっては、幾分か辛い状況かもしれません。しかし「自我喪失の病」と「集団への帰属」の関係を考えたとき、その「安心」こそが病理の入り口であることを、理解する必要があります。
 私たちが良かれと思い進めてきた「民主主義」が、逆に人々を「羊の群れ」に退化させてしまう。どのようなシステムであれ、時と共に形骸化していきます。自我という高度な機能を持った人間が、その機能を退化させるような「多数への帰属意識」をどう回避していくのか。これから必要となる社会の形態は、「民主主義」と「集団心理」を揚棄した場所に構築されるのです。

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『名前と虚構』

 これはリンゴである。川である。或いは人間である。ものには名前が付けられています。そうでなければ他人と共通に会話が出来ません。しかし、目の前にある「赤くて丸い物体」は「リンゴ」などというものではなく、「見たまま」の物質です。あるいは「あるがまま」の存在と言ってもよいでしょう。
 人によって「見え方」は違います。微妙な赤をオレンジと感じる人もいる。形にしても人それぞれ印象が違います。つまり、それぞれが感じている「まるくて赤い物体」に便宜的に「リンゴ」と名付けて、会話が成立するようにしている。名前がなければ、みなバラバラで、会話が成立しません。

古賀ヤスノリ イラスト
 ここで妙なことに気づきます。みなそれぞれに「見え方」が違うのなら、それらを「共通に認識する基準」をどのように発見たのかということです。もし「見え方」がバラバラなら、共通項を抜き出すことは不可能です。しかし「リンゴ」にはリンゴに共通する“何か”がある。だからみなリンゴを思い浮かべることができる。
 みなそれぞれに認識しているリンゴは別々のリンゴです。会話でリンゴの話しをしていても、まったく同じリンゴのイメージを持つことはあり得ないでしょう。しかしリンゴの「リンゴたる所以」は、みな同じイメージとして持っている。つまりリンゴの「定義」をイメージとして理解しているということです。

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 このイメージによる「定義」さえ共通であれば、あとは少し欠けたリンゴであろうが、赤くないリンゴであろうが、共通に会話が成り立ちます。この定義は言葉による定義ではありません。むしろ言葉に出来ない定義であるからこそ、無限の差異を統一できる。ここに「言語の終焉」というテーマも発生してきます。
 「言語の終焉」の話しは別の機会に譲るとして、リンゴの共通項であるイメージ定義を、紀元前にすでに発見した人がいます。古代ギリシャの哲学者プラトンです。彼が発見した概念で一番有名な「イデア」がそれにあたります。プラトンはイヌならイヌの、シカならシカの、イスならイスのイデアがあると言います。それぞれの違いを超えて共通にあるもの。そのイデアは言語的な差異ではなく「直観されるもの」です。
 丸くて赤い果物に「リンゴ」と名付けたときから、人々は目の前の「あるがまま」を見なくなる。個別的な差異は見なくなります。そうして私たちは、「言葉だけの世界」に入り込み、そこから出られなくなる。名前とは本来イデアに付けられたものであり、本物は一つとして同じものはありません。しかし言葉に支配されると、名前が実質となる。このような形骸化が「人を虚構に住まわせる」のです。

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『新しいとは』

 「新しいこと」を取り入れる。これは良いこととされています。なぜなら放っておくと古くなるからです。身体は水や食料といった「新しいもの」を摂取し、古くなったものを排出することで維持されます。つまり新陳代謝です。それは「もの」だけでなく、知識や文化といった「こと」にも言えます。
 新しい知識や情報を取り入れる。これは現代人のなかば至上命令として作用しています。学校で学習しネットで検索し、会話で情報を得る。出来るだけ多くの「新しいこと」を知ることが有利である。そのような観念をみな無意識に持っています。それによって自分はより新しく強化されると。しかし本当にそうでしょうか。
 そもそも「新しいこととは何か」という問題があります。例えば、芸術の世界では、新しい表現に価値があります。亜流は無価値だと判断される。しかし現代の芸術には、一見すると古典的な表現もなかにはあります。しかし最新の芸術として評価される。つまり表面的な新しさが「新しいこと」ではないということです。
 水や食べ物のような「新しいもの」は、鮮度として計ることが出来ます。しかし「芸術表現」といった「こと」に関しては、客観的に図ることが出来ません。物理的なものを計る「明確な物差し」がないからです。よって量的に測れないものは、心で感じ、精神によって「判断」するしかありません。
 見た目ではなく、本質的な新しさは、量的には測れない。よって心で「感じ」、精神で「判断」するしかない。ここに「新しいこと」を認識することの難しさがあります。量的に測れないということは、機械には認識できないということです。鮮度や時間にかかわることなら機械で認識可能です。しかしそれが不可能な場合は、人間のような「心を持つ者」でしか判断できないということです。

古賀ヤスノリ コラージュ
 話しが複雑になってきましたが、この論考のテーマは「新しいとは」です。新しさには「こと」と「もの」があり、前者は数量化できるが後者は数量化できない。量的に測れないものは、心で「感じ」精神で「判断」するしかありません。つまり「新しい」には「量的な新しさ」と「意味的な新しさ」の二つがあるということです。
 「量的な新しさ」とはつまり「物理的な新しさ」です。それに対する「意味的な新しさ」とは「精神的な新しさ」です。たとえば「新しいショップがオープンした」という情報は、物理的な新しさです。最新のモード、有名人の振る舞い、企業の広告、すべて「量的な新しさ」です。それに対し、物理学者が新しい発見をしたのなら、それは「精神的な新しさ」です。たとえそれが、過去の論理や数式の組み換えや応用に過ぎなかったとしても。
 人々が「新しい情報」を取り入れる。しかし、ただ溜め込むだけでは新陳代謝は起こらず、阻害の原因にすらなります。真の意味での「新しい情報」とは、それまで蓄積した情報を刷新し、古いものを排出する。そのような作用をもつものが、量的に測れない「新しいこと」です。それは客観的な物差しがないので、自分自身で判断するしかありません。つまり「自分にとっての新しい」ことです。それは心でしか「感じる」ことが出来ないものです。
 「量的なもの」「物理的な新しさ」は誰にでも分かるものです。だからモードを一般として共有できる。しかし「新しいこと」は「新しい発見」であり、それはその人の発見です。芸術や学問のように、それが一見古い見た目であったとしても、そこに新たな発見を見出せれば、最新の情報に昇華する。これは精神的な新しさであり、量的には測定不可能です。この「新しいこと」が、心をもった人間にしか量れないのであれば、ここに個性や自我といった、人間の根本問題が隠されていることは、疑いのないことなのです。

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『社会的な多様性』

 生物多様性なることばをよく見かけます。それとともに「多様性」という言葉が、様々な場面で使われるようになっています。そもそも多様性とは「違いの共存」とでも呼べる状態を示しています。自然界はまさにそのような状態であり、それらの違いが影響し合い、一つの生態系をかたち作っている。つまり個々の違い(差異)は、自然にとって不可欠なものです。
 生態系にとってなくてはならない「多様性」は、自然発生的に生まれる差異です。それはエコシステムにとっての重要な要素。もし個々の差異がなくなり、すべてが一様となれば、エコシステムは停止する。つまり「個々の違いが全体(エコシステム)を機能させる」という意味においてのみ、「多様性」が重要だとうことです。
 しかしこの「多様性」という言葉が、いま自己正当化の方便として使われています。自分(或いは所属する組織)を、周囲が認めないのは多様性に反する、といった具合に。しかしこの論理を突き詰めると、泥棒の多様性を認めよ、暴力をふるう多様性も認めよ、ということにもなります。彼らには「多様性」がエコシステム維持のための「分散機能」であることが理解できていません。ただ言葉の意味が悪用されているだけです。「多様性」を自己正当化と思い違いをすると、逆に人間にとっての生態系である「社会」が腐敗していくことになります。
 社会的なエコシステムが機能するための「多様性」を、どのようにつくりだすか。これが今後の人類のテーマです。生物多様性にできるだけ近い形で、「社会的な多様性」を実現させていく。そのためにはやはり、自然界の多様性を手本にする必要があります。自然界の多様性は、たとえ暴力的に見える捕食者であっても、そのすべての行動と結果が生態系維持のための重要な要素になっています。それに対して社会的な暴力は、ただ社会を破壊するだけです。

古賀ヤスノリ イラスト
 これまでの社会は、自然環境を人工的に整備(制御)することで成立してきました。自然と共存していた先史時代の社会とは違い、現代の社会は自然を制御し利用するだけで、基本的には自然と断絶しています。自然から隔離された環境内(現代社会)での暴力や破壊は、社会の無秩序化と、環境破壊へ向かいます。自然のエコシステムによる再生産機能が、今の社会には存在しないからです。よって「多様性」と自己正当化を混同することは危険なことなのです。
 今後、自然がもつエコシステムを社会が獲得するためには、真の意味での「社会的な多様性」の成立が必要不可欠です。それは個々が「なすがまま」を正当化するのではなく、エコシステムにとっての「多様性」を理解することから始まります。その意味でも、「自然との共存」を高次元で回復した「環境主義的な社会」をイメージすることが大切です。自然を制御するのではなく、環境の変化に対応しながら変化していく社会。「自然との同期」と「社会的な多様性」の確保は、これから同時に行われるのて行くだろうと予想されるのです。

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『現実の受け入れ』

 「現実を受け入れる」。これが全てを正常化させる特効薬である。この考えは方はいつの時代でも正しく、ニーチェからゴダールまで、あらゆる巨匠たちが現実に従うことを肯定しています。この「現実を受け入れる」とは一体どういうことなのか。それは「ただ周囲に従う」(状況に流される)こととはどう違うのでしょうか。
 「現実を受け入れる」とは「積極的な受け入れ」を主体的に決定しています。「現実を受け入れる」ことで改めて出発することができる。それに対し「状況に流される」とは「消極的な受け入れ」であり主体は抑圧されています。さらに次の発展もなく「諦め」によって周囲に流されるままになっている。
 「現実の受け入れ」は「前進のための再認識」であり、それは「積極的な自己修正」です。それに対して、「状況に流される」とは前進を拒むための「服従」であり「消極的な自己正当化」です。つまりこの二つは似ても似つかぬ対局にあるものなのです。しかし似ているがゆえに、しばしば「服従」を主体的な決定と思い、「諦めの肯定」を「前進」と思う。
 「現実の受け入れ」があらゆる時代の最善の方法でるならば、その対極にある「現状への服従」が時代を超えて最悪の方法であることは疑いがありません。最悪の方法をとるのは怖れや弱さからであり、そのような自分の現実を「受け入れられない」がゆえに、自らの選択が「現実の受け入れ」であり「前進」であると「自己偽装」する。「自己偽装」とはパラドクス(出口のない構造)であり、容易には現実に出ることが出来ません。  

古賀ヤスノリ イラスト

 「服従」とは「現実の受け入れ」が困難になる心的状態です。それは親への服従であれ、権力への服従であれ、すべて同じことです。服従者はつねに「自己偽装」によって「自己正当化」を繰り返します。我こそ現実を受け入れて前進するリアリストであると考える。しかしそれこそが、「弱さ」と「諦め」によって生まれた服従者の「自己偽装」なのです。「周囲に流される者=服従者」は権力によって現実(出口)を遮断された「妄想者」と言ってよいでしょう。  
 「現実の受け入れ」を拒絶する服従者は、「弱さ」と「諦め」によって周囲に流される。その事実を受け入れられないがために、主体的に前進していると「自己偽装」する。ここに「現実の受け入れ」による「自己修正」はなく、「永遠に変化なく一歩も進まない」という事態が起こります。個人であれ組織であれ、「権力と服従」によって成立している構造は、必ずこの「非生産性」を露呈する。この「権力と服従」による「非生産性」を正常化させるには、「現実の受け入れ」による「自己修正」しかありません。究極の現実対峙は「死」であり、人類にとってのそれは、天災、戦争、そしてウイルスによって喚起させられると考えられるのです。

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『数による支配』

 民主主義とは民衆(デモ)による支配(クラシ―)です。さらに、日本は間接民主主義なので、民衆の代表が数によって選ばれ、代理として国の意思決定を行う仕組みです。よって多数決という「数の支配」で全てが決まります。このような「数の支配」は資本主義も同じです。数による投票の結果だけが反映されていく。言い換えると「数が少ないものは切り捨てられていく」ということです。
 しかし、現実の世界では「数が多いから重要」ということは返って少ない。むしろ「重要な部分」は全体の一部であることが殆どです。この事実から民衆の「平均値」が国を支配する「ポピュリズム」の危険性が指摘されます。ある集団の最も優秀な人材が、船の舵取りをするのではなく、集団の平均的な人材が、優秀な人材の意見を無視して舵取りする。もちろんこの結果は、平均的な人材が満足することになり、優秀な人材にとっては納得いかないものになる。

ペンギン イラスト 古賀ヤスノリ

 資本主義のような多数決は必ず「格差」を生むと言われています。民衆という平均的な意見が「格差」を生むという逆説。実際は多数決という方法自体が不平等な形式といえます。「数の支配」も結局は支配であって、それは権力を作り出します。格差とは平等に流れないように、権力が力を加え続けることで維持さる。「多数決が平等」という「とりあえず」の取り決めの限界が、真実としての平等を阻害し続けている。そもそも「平等」とは数ではなく究極的には「精神の平等」であり、それらが数によって測られないという前提を喪失した結果の事態なのです。

AUTOPOIESIS 0057/ illustration and text by : Yasunori Koga
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