『新しい思想』

 「信じる」ということは、コミュニケーションの根幹として大切なものです。いまさらそのようなことを言っても始まりませんが、相手の言い分を信じても嘘だったりすれば、対話は成立しません。「対話が成立しない世界」では科学も文明も発達しない。どんなに原始的な表現形式(たとえば先史時代の文字や言語など)であっても、お互いの意思が信じられる世界なら、高度なコミュニケーションを保つことが出来ます。
 しかし信じるということが集団的になってくると宗教のような形態になってきます。多くの人が「動かしがたい唯一の考え」を信じる。考えを固定することと、その人が住んでいる世界を固定的に見ることは、相補的な関係にあります。よって宗教は世界を一つの視点で固定してみるという作用がある。立体的な世界をいろいろな宗教観が、いろいろな側面から固定的にみる。よってすべての側面(宗教)を総合すると、実体としての世界が現れるという考え方もあります。
 そもそも宇宙の誕生から地球の形成、そして今現在に至っても、世界は変化し続けています。つねに過去にはなかった状態が生成されている。そういった変化する世界を、写真のように固定して捉えてもズレが生じてしまう。そのズレは世界の変化とともに修正していく必要があります。もし修正を拒めは、世界のほうを自分たちに合うよう歪めるしかなくなる。これは心理学が明らかにした「妄想性の障害」が発生する原理でもあります。

古賀ヤスノリ イラスト

 常に世界の変化に合わせて自己を修正し、モデルチェンジしていく。そのような世界観が望ましいことは確かです。さらに三次元から四次元への移行が暗示さてきた時代、世界を一点の視点で見ることがナンセンスとなってきています。世界をより包括的に全体として捉える。これは宗教よりも物理学が得意と知る認識方法です。その意味では、これから物理学の視点がすべての「新しい認識」の前提になると考えられます。
 自己修正機能によるモデルチェンジ。そして世界全体を包括的に認識する物理学の視点。これを仏教に還元してみる人もいるでしょう。しかし、物理学は仏教(あるいは他の宗教)すら一つの視点として世界を構成化する自由を持っています。さらにただ「客観的な立場」にいればよく、信仰する必要もありません。もちろん物理学もカール・ポパーが言うように、「修正すべき時がくれば修正する」という本来の科学モデルであることが大切です。このような「有機的な科学」が肯定的な「信仰の必要ない世界」を作るのかもしれません。
 何かを絶対視するためには、必ず対象とする世界を固定(限定)しなければなりません。政治も経済も学問や宗教も、資本主義とて例外ではありません。しかし必ず固定化した内部は飽和に達します。物事の形骸化によって噴出する問題を解決するには、前提となる世界観を現実に合わせて「修正」するしかありません。しかしそれを拒む「現状維持的な反動」は必ず発生するものです。それを超えるには、「新しい思想」が必要でしょう。その思想は「自己修正機能」と「包括的視点」を基礎とした「有機的な科学」とでも呼べるものになると予想されます。つまりそれは、固定化したものを信じるという立場ではなく、「変化を信じる」という立場への移行なのです。

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『目的論で進む』

 先に答えを見てしまう。物語でも結末をすぐ知りたくなる。問題も参考書の解き方を先に見る。どうなるか知りたい。先回りしたい。現代は物事を「決定論」的に見て安心する時代になっています。しかし「分かり切ったこと」に関心が向かないのは当然です。そもそも全てが決まっていたら、それに参加する意味もありません。私たちが何かに挑戦しようとしたり、ワクワクしたりするのは、結果が分からないからです。
 ならばワクワク感を出すには「結果がわららない方を選んでみる」という事です。どうなるか分からないけれど、なんとなくこっちに行きたい。これは「決定論」に対する「目的論」的な選択です。もちろん先が分からないから不安もある。しかし「面白い」や「ワクワク感」は、不安という基盤に支えられた感覚なのです。安心して弛緩した精神では「ワクワク感」は生まれません。  結果が分からないからこそ面白い。たとえば推理小説は結果が分かっていては面白くありません。スポーツでもゲームでもそれは同じことです。だから人生もそうでしょう。結果を知っていて録画した試合を見る面白さもあるかもしれません。しかし結果を知らない面白さとは質がまったく違います。つまり安心を得るために「決定論」を採用すると、やることがつまらなくなる。どんどん無気力になっていくという事です。

 パソコンで検索すれば大抵の答えが出てきます。つまり知りたい結果が既にネットにある。自分で考えることなく、誰かが出した答えを知るだけになる。「経験的理解」というプロセスがない。つまり発見がない。当然、新しい発明など出来なくなる。天才が生まれない。無駄を省き、効率化を優先し、さらに不安も回避する。人に選んでもらい、アプリにまかせ、権力の言いなりになる。これでは生物として生きてはいても、精神的には停止していることになります。行き場(未決定の領域)を失った人が、暴走して事件を起こしたとしても不思議ではありません。
 どうなるか分からない方を選んでみる。今までと違う路線で行ってみる。抵抗を感じていた人と対話してみる。分からないことを大事にする。本当は世界のことは、まだまだ分からないことだらけです。それを分かった気で安心していると、すべてがつまらなくなる。「決定論」と同じレベルで「目的論」を採用すれば、そこに適切なバランスが生まれ、いろんなことが面白くなってくるのではないでしょうか。

AUTOPOIESIS 0036/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『絶対なき世界』

 料理は同じレシピでも、調理の手順を変えれば味が変ってしまいます。料理はパソコンの中と違い「A=BはB=A」といった結合法則が成り立たちません。実際の世界は、結果が出たときだけ原因を辿ることができます。しかし「原因と結果」、「目的と手段」といった「過去と未来の結合」を前提とする世界では、「A=BはB=A」という決定論が成り立つことになります。本当は成り立たないのですが、成り立つことにして安心を得る。やるべきこともハッキリする。しかし現実的ではないので実際は問題が起こってきます。
 ある人が東大を卒業して幸福に暮らしている。だから私も東大に行けば幸福になれる。あるいは大金持ちになれば幸福である。こういった論理は少し考えると、安易な決めつけであることがすぐに分かります。しかしコップが100回落ちたから「引力」というものがあると考える。これはいまでは万有引力として法則化されています。しかしこれも決定論です。カール・ポパーという哲学者は、次はコップが落ちないかもしれない、という姿勢を解かないことが「本当の科学」であるというような事を述べています。どんなことであれ絶対ということは無いとうことです。
 絶対とは人間が安心したい時に作りだす精神安定剤のようなものかもしれません。自分がやっていることに確証がほしいということです。しかし絶対が人間を支配すると、「絶対われわれが正しい、だからなにをやってもよい」などということにもなりかねません。以前アメリカは、大量破壊兵器がイラクにあると「確信」して攻め入りましたが、そんなものはありませんでした。つまり絶対などありえず「そうでないかもしれない」という可能性を残すことが科学的な立場だとうことです。

古賀ヤスノリ 人物画

 とてつもなく確率が高いと、人は絶対だと思い込もうとする。多数がそう信じているならそうである、というように。しかし絶対の根拠などないということです。「確率とは蓋然の意味である」と数学者のアンリ・ポアンカレがどこかに書いていましたが、やはりありありと見えていても「無条件に信じない」という立場が科学であり、客観的な理解というものなのでしょう。
 もしそうであるならば、「自分がこの世に生きている」ことも絶対でなくなります。「あなたはこの世に生きていますか?」と問われれば、「多分ね」としか言いようがないでしょう。デカルトはどんどん疑ってきいき、最後に「われ思うゆえに我あり」に突き当たりました。しかしそう考えるようにプログラムされているだけかもしれません。映画『ブレードランナー』のアンドロイドのように。絶対などない。確実なものなどない。これは不安を呼ぶ反面、だから「確かなもの」を創出しよう、という動機を作るきっかけにもなります。主体とは「絶対というものに依存しない」ところに生まれるのではないでしょうか。

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「しあわせの形」

「しあわせの形」とは、もう「何もいらない」という状況のことです。この場合の「いらない」とは、物質や概念を「所有しない」ということです。概念を所有しないとは、信仰や権力といった精神的な所有を指します。所有欲が満たされたときの満足感は一時的なもので、永続的な「しあわせの形」ではありません。そもそも「何もいらない」という定義自体に反しているので、所有(消費)を手段としてだけでは「しあわせの形」を作ることはできません。
 何かを所有するということは、何かに自我を投影しているということです。その意味では自我が分裂している。それに対して「しあわせの形」とは、自我が統一的に安定している状態です。中心があって安定してブレることがない。このブレることがない状態が「しあわせの形」です。

古賀ヤスノリ いラスト

 もし「しあわせの形」が、他人に依存したり、利用したりすることで成立するものだとすればどうでしょうか。その場合は依存対象の喪失を恐れたり、次を探したりと安定することがありません。「しあわせの形」とは、自分自身だだ一人の「内面」に中心があり、他を経由することなく安定することです。それは何かの歯車で動くこではなく、惑星のように自らの軸をもって自転する状態です。
 つまり「しあわせの形」とは自己自身がそれだけで「過不足なき存在」として安定している状態のことです。違う言い方をすれば、自己自身で安定できれば、「何も必要なくなる」ということでしょう。「得たい」という気持ちが、「喪失」によって生み出されることを考えれば、自己自身を獲得していることが、欲望から解放された状態だと言えます。
 自己自身の中心軸を分裂させることなく、統一して安定させる。そのためには「自己肯定感」を大切にする。他人との比較で自分を測ることなく、自分自身の「個性」を一つの「完成形」だと理解できた時、そこに「しあわせの形」が現れます。この意味において、幸福とは個々人でその形が違い、人類共通の「しあわせの形」というものはありません。幸福の地平から見える世界は、過去の障害物が「除去するもの」ではなく、岩肌のように「ただそこにあるもの」に変わる。私たちはそこを自由に踏み越えることができるのです。

AUTOPOIESIS 0034/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『環境と進化』

 生物は環境に規定されている。つまり環境の許す範囲でしか生きられません。水棲の生き物は水という環境を離れては生きられない。逆に陸上の生物は水中では生きられない。もし適正な環境を無視して無理に生きようとすれば、生物としての組織が破壊されて死んでしまいます。これは物理的な環境の話しですが、精神的な環境にも同じことが言えます。
 考え方の違う人々が集まる場所で生きようとすると、その人の精神的な組織が破壊されていく。家庭であろうと、会社であろうと、また地域であろと国であろうと、その人の考えと違った社会があるのだとすれば、そこで無理を重ねて生きることは、究極的には死を意味します。そうでなくても精神的に荒廃していく。そう考えると、精神病などはやはり環境を大きく変えることが一つの手だということもできます。
 哲学者のバートランド・ラッセルは不幸の原因についていろいろと述べています。もちろん環境についても明確な判断を示しています。「環境が愚かであったり、偏見にみちていたり、残酷である場合は、それと同調しないことこそ美徳のしるしである」(『幸福論』)。この考え方は、日本ではなじみのないものです。日本では世間や空気がたとえ愚かで偏見にみち残酷であっても、それに従うことが暗黙の美徳になっているからです。

古賀ヤスノリ イラスト

 そもそもラッセルの意見は「個人」が幸福になる方法としての基本姿勢です。それに対し日本の美徳は、個人がなく「集団」だけを維持するための基本姿勢です。「個人は泣くが集団は生きる」という形態です。この基本姿勢は、親の表情や義務教育の行間、地域のリズム、マスコミの情報選択、広告の強調部分にまで行き渡っています。日本という国全体にわたって「個人を滅し集団を生かせ」という見えない情報の渦が形成されている。
 それが最も顕著に現れているのが、若者が年寄りのために利用されているという事実です。政治では、人生経験の浅い若者が、メディアで洗脳されて年寄りに票を入れるという仕組みになっています。これを絵画的に表現するならば「年寄りが若者を喰らい延命欲望を満たしている」という図が浮かびます。それはまさにゴヤが描いた『我が子を食らうサトゥルヌス』のようなおぞましさ。「年寄りのための若者」とい環に個人など認められません。
 ラッセルは「若い人が年寄りの希望を尊重するのは望ましいことではない」「問題なのは若い人の生き方であって、年寄りの生き方ではない」ときっぱり表現しています。これは当然のことですが、個人を尊重しない日本ではなぜかこれが転倒してしまう。年寄りが若者を支配したがり、さらに若者も支配されたがっているとすら感じます。アイデンティティを喪失した若者は、どのように振る舞ってよいか分からず、命令されることを常に欲している。そこに欲深い年寄りが漬け込むという構造。
 このような環境に依存するか、劣悪だと判断して環境を変えるか。その選択は主体性が確保された個人にだけ許された権利です。もし、個人として主体性を持つことを禁止されているならば、環境を変えることなど許されない。陸上動物が水中で苦しむように、あるいは水棲動物が陸上で干上がるように、人々は既成の環境(権力内)で生きらされる。もしそこが「棄てるべき環境」であることに気づき、離れる(あるいは変える)「意思」が芽生えたとするならば、それがその人にとっての「個人の発見」であり「進化」というものなのでしょう。

AUTOPOIESIS 0033/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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