『新しい思想』

 「信じる」ということは、コミュニケーションの根幹として大切なものです。いまさらそのようなことを言っても始まりませんが、相手の言い分を信じても嘘だったりすれば、対話は成立しません。「対話が成立しない世界」では科学も文明も発達しない。どんなに原始的な表現形式(たとえば先史時代の文字や言語など)であっても、お互いの意思が信じられる世界なら、高度なコミュニケーションを保つことが出来ます。
 しかし信じるということが集団的になってくると宗教のような形態になってきます。多くの人が「動かしがたい唯一の考え」を信じる。考えを固定することと、その人が住んでいる世界を固定的に見ることは、相補的な関係にあります。よって宗教は世界を一つの視点で固定してみるという作用がある。立体的な世界をいろいろな宗教観が、いろいろな側面から固定的にみる。よってすべての側面(宗教)を総合すると、実体としての世界が現れるという考え方もあります。
 そもそも宇宙の誕生から地球の形成、そして今現在に至っても、世界は変化し続けています。つねに過去にはなかった状態が生成されている。そういった変化する世界を、写真のように固定して捉えてもズレが生じてしまう。そのズレは世界の変化とともに修正していく必要があります。もし修正を拒めは、世界のほうを自分たちに合うよう歪めるしかなくなる。これは心理学が明らかにした「妄想性の障害」が発生する原理でもあります。

古賀ヤスノリ イラスト

 常に世界の変化に合わせて自己を修正し、モデルチェンジしていく。そのような世界観が望ましいことは確かです。さらに三次元から四次元への移行が暗示さてきた時代、世界を一点の視点で見ることがナンセンスとなってきています。世界をより包括的に全体として捉える。これは宗教よりも物理学が得意と知る認識方法です。その意味では、これから物理学の視点がすべての「新しい認識」の前提になると考えられます。
 自己修正機能によるモデルチェンジ。そして世界全体を包括的に認識する物理学の視点。これを仏教に還元してみる人もいるでしょう。しかし、物理学は仏教(あるいは他の宗教)すら一つの視点として世界を構成化する自由を持っています。さらにただ「客観的な立場」にいればよく、信仰する必要もありません。もちろん物理学もカール・ポパーが言うように、「修正すべき時がくれば修正する」という本来の科学モデルであることが大切です。このような「有機的な科学」が肯定的な「信仰の必要ない世界」を作るのかもしれません。
 何かを絶対視するためには、必ず対象とする世界を固定(限定)しなければなりません。政治も経済も学問や宗教も、資本主義とて例外ではありません。しかし必ず固定化した内部は飽和に達します。物事の形骸化によって噴出する問題を解決するには、前提となる世界観を現実に合わせて「修正」するしかありません。しかしそれを拒む「現状維持的な反動」は必ず発生するものです。それを超えるには、「新しい思想」が必要でしょう。その思想は「自己修正機能」と「包括的視点」を基礎とした「有機的な科学」とでも呼べるものになると予想されます。つまりそれは、固定化したものを信じるという立場ではなく、「変化を信じる」という立場への移行なのです。

AUTOPOIESIS 0037/ painting and text by : Yasunori Koga
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『目的論で進む』

 先に答えを見てしまう。物語でも結末をすぐ知りたくなる。問題も参考書の解き方を先に見る。どうなるか知りたい。先回りしたい。現代は物事を「決定論」的に見て安心する時代になっています。しかし「分かり切ったこと」に関心が向かないのは当然です。そもそも全てが決まっていたら、それに参加する意味もありません。私たちが何かに挑戦しようとしたり、ワクワクしたりするのは、結果が分からないからです。
 ならばワクワク感を出すには「結果がわららない方を選んでみる」という事です。どうなるか分からないけれど、なんとなくこっちに行きたい。これは「決定論」に対する「目的論」的な選択です。もちろん先が分からないから不安もある。しかし「面白い」や「ワクワク感」は、不安という基盤に支えられた感覚なのです。安心して弛緩した精神では「ワクワク感」は生まれません。  結果が分からないからこそ面白い。たとえば推理小説は結果が分かっていては面白くありません。スポーツでもゲームでもそれは同じことです。だから人生もそうでしょう。結果を知っていて録画した試合を見る面白さもあるかもしれません。しかし結果を知らない面白さとは質がまったく違います。つまり安心を得るために「決定論」を採用すると、やることがつまらなくなる。どんどん無気力になっていくという事です。

 パソコンで検索すれば大抵の答えが出てきます。つまり知りたい結果が既にネットにある。自分で考えることなく、誰かが出した答えを知るだけになる。「経験的理解」というプロセスがない。つまり発見がない。当然、新しい発明など出来なくなる。天才が生まれない。無駄を省き、効率化を優先し、さらに不安も回避する。人に選んでもらい、アプリにまかせ、権力の言いなりになる。これでは生物として生きてはいても、精神的には停止していることになります。行き場(未決定の領域)を失った人が、暴走して事件を起こしたとしても不思議ではありません。
 どうなるか分からない方を選んでみる。今までと違う路線で行ってみる。抵抗を感じていた人と対話してみる。分からないことを大事にする。本当は世界のことは、まだまだ分からないことだらけです。それを分かった気で安心していると、すべてがつまらなくなる。「決定論」と同じレベルで「目的論」を採用すれば、そこに適切なバランスが生まれ、いろんなことが面白くなってくるのではないでしょうか。

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『絶対なき世界』

 料理は同じレシピでも、調理の手順を変えれば味が変ってしまいます。料理はパソコンの中と違い「A=BはB=A」といった結合法則が成り立たちません。実際の世界は、結果が出たときだけ原因を辿ることができます。しかし「原因と結果」、「目的と手段」といった「過去と未来の結合」を前提とする世界では、「A=BはB=A」という決定論が成り立つことになります。本当は成り立たないのですが、成り立つことにして安心を得る。やるべきこともハッキリする。しかし現実的ではないので実際は問題が起こってきます。
 ある人が東大を卒業して幸福に暮らしている。だから私も東大に行けば幸福になれる。あるいは大金持ちになれば幸福である。こういった論理は少し考えると、安易な決めつけであることがすぐに分かります。しかしコップが100回落ちたから「引力」というものがあると考える。これはいまでは万有引力として法則化されています。しかしこれも決定論です。カール・ポパーという哲学者は、次はコップが落ちないかもしれない、という姿勢を解かないことが「本当の科学」であるというような事を述べています。どんなことであれ絶対ということは無いとうことです。
 絶対とは人間が安心したい時に作りだす精神安定剤のようなものかもしれません。自分がやっていることに確証がほしいということです。しかし絶対が人間を支配すると、「絶対われわれが正しい、だからなにをやってもよい」などということにもなりかねません。以前アメリカは、大量破壊兵器がイラクにあると「確信」して攻め入りましたが、そんなものはありませんでした。つまり絶対などありえず「そうでないかもしれない」という可能性を残すことが科学的な立場だとうことです。

古賀ヤスノリ 人物画

 とてつもなく確率が高いと、人は絶対だと思い込もうとする。多数がそう信じているならそうである、というように。しかし絶対の根拠などないということです。「確率とは蓋然の意味である」と数学者のアンリ・ポアンカレがどこかに書いていましたが、やはりありありと見えていても「無条件に信じない」という立場が科学であり、客観的な理解というものなのでしょう。
 もしそうであるならば、「自分がこの世に生きている」ことも絶対でなくなります。「あなたはこの世に生きていますか?」と問われれば、「多分ね」としか言いようがないでしょう。デカルトはどんどん疑ってきいき、最後に「われ思うゆえに我あり」に突き当たりました。しかしそう考えるようにプログラムされているだけかもしれません。映画『ブレードランナー』のアンドロイドのように。絶対などない。確実なものなどない。これは不安を呼ぶ反面、だから「確かなもの」を創出しよう、という動機を作るきっかけにもなります。主体とは「絶対というものに依存しない」ところに生まれるのではないでしょうか。

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「しあわせの形」

「しあわせの形」とは、もう「何もいらない」という状況のことです。この場合の「いらない」とは、物質や概念を「所有しない」ということです。概念を所有しないとは、信仰や権力といった精神的な所有を指します。所有欲が満たされたときの満足感は一時的なもので、永続的な「しあわせの形」ではありません。そもそも「何もいらない」という定義自体に反しているので、所有(消費)を手段としてだけでは「しあわせの形」を作ることはできません。
 何かを所有するということは、何かに自我を投影しているということです。その意味では自我が分裂している。それに対して「しあわせの形」とは、自我が統一的に安定している状態です。中心があって安定してブレることがない。このブレることがない状態が「しあわせの形」です。

古賀ヤスノリ いラスト

 もし「しあわせの形」が、他人に依存したり、利用したりすることで成立するものだとすればどうでしょうか。その場合は依存対象の喪失を恐れたり、次を探したりと安定することがありません。「しあわせの形」とは、自分自身だだ一人の「内面」に中心があり、他を経由することなく安定することです。それは何かの歯車で動くこではなく、惑星のように自らの軸をもって自転する状態です。
 つまり「しあわせの形」とは自己自身がそれだけで「過不足なき存在」として安定している状態のことです。違う言い方をすれば、自己自身で安定できれば、「何も必要なくなる」ということでしょう。「得たい」という気持ちが、「喪失」によって生み出されることを考えれば、自己自身を獲得していることが、欲望から解放された状態だと言えます。
 自己自身の中心軸を分裂させることなく、統一して安定させる。そのためには「自己肯定感」を大切にする。他人との比較で自分を測ることなく、自分自身の「個性」を一つの「完成形」だと理解できた時、そこに「しあわせの形」が現れます。この意味において、幸福とは個々人でその形が違い、人類共通の「しあわせの形」というものはありません。幸福の地平から見える世界は、過去の障害物が「除去するもの」ではなく、岩肌のように「ただそこにあるもの」に変わる。私たちはそこを自由に踏み越えることができるのです。

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『環境と進化』

 生物は環境に規定されている。つまり環境の許す範囲でしか生きられません。水棲の生き物は水という環境を離れては生きられない。逆に陸上の生物は水中では生きられない。もし適正な環境を無視して無理に生きようとすれば、生物としての組織が破壊されて死んでしまいます。これは物理的な環境の話しですが、精神的な環境にも同じことが言えます。
 考え方の違う人々が集まる場所で生きようとすると、その人の精神的な組織が破壊されていく。家庭であろうと、会社であろうと、また地域であろと国であろうと、その人の考えと違った社会があるのだとすれば、そこで無理を重ねて生きることは、究極的には死を意味します。そうでなくても精神的に荒廃していく。そう考えると、精神病などはやはり環境を大きく変えることが一つの手だということもできます。
 哲学者のバートランド・ラッセルは不幸の原因についていろいろと述べています。もちろん環境についても明確な判断を示しています。「環境が愚かであったり、偏見にみちていたり、残酷である場合は、それと同調しないことこそ美徳のしるしである」(『幸福論』)。この考え方は、日本ではなじみのないものです。日本では世間や空気がたとえ愚かで偏見にみち残酷であっても、それに従うことが暗黙の美徳になっているからです。

古賀ヤスノリ イラスト

 そもそもラッセルの意見は「個人」が幸福になる方法としての基本姿勢です。それに対し日本の美徳は、個人がなく「集団」だけを維持するための基本姿勢です。「個人は泣くが集団は生きる」という形態です。この基本姿勢は、親の表情や義務教育の行間、地域のリズム、マスコミの情報選択、広告の強調部分にまで行き渡っています。日本という国全体にわたって「個人を滅し集団を生かせ」という見えない情報の渦が形成されている。
 それが最も顕著に現れているのが、若者が年寄りのために利用されているという事実です。政治では、人生経験の浅い若者が、メディアで洗脳されて年寄りに票を入れるという仕組みになっています。これを絵画的に表現するならば「年寄りが若者を喰らい延命欲望を満たしている」という図が浮かびます。それはまさにゴヤが描いた『我が子を食らうサトゥルヌス』のようなおぞましさ。「年寄りのための若者」とい環に個人など認められません。
 ラッセルは「若い人が年寄りの希望を尊重するのは望ましいことではない」「問題なのは若い人の生き方であって、年寄りの生き方ではない」ときっぱり表現しています。これは当然のことですが、個人を尊重しない日本ではなぜかこれが転倒してしまう。年寄りが若者を支配したがり、さらに若者も支配されたがっているとすら感じます。アイデンティティを喪失した若者は、どのように振る舞ってよいか分からず、命令されることを常に欲している。そこに欲深い年寄りが漬け込むという構造。
 このような環境に依存するか、劣悪だと判断して環境を変えるか。その選択は主体性が確保された個人にだけ許された権利です。もし、個人として主体性を持つことを禁止されているならば、環境を変えることなど許されない。陸上動物が水中で苦しむように、あるいは水棲動物が陸上で干上がるように、人々は既成の環境(権力内)で生きらされる。もしそこが「棄てるべき環境」であることに気づき、離れる(あるいは変える)「意思」が芽生えたとするならば、それがその人にとっての「個人の発見」であり「進化」というものなのでしょう。

AUTOPOIESIS 0033/ painting and text by : Yasunori Koga
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『フィクション押し付け』

古賀ヤスノリ アクリル画

 哲学者プラトンは『国家』のなかで、国の守護者にふさわしい素質につてい述べています。そこでプラトンは、国にとっての適切な守護者とは、強いられたり、たぶらかされたりすることで、考えを変えてしまわない人だと言っています。「強いられる」とは、痛い目にあったり、苦しい目にあうことで考えを変えさせられること。「たぶらかされる」とは、快楽に魅せられたり、恐怖におびえたりすることによって、考えを変えさせられることだとしています。平たくいえば、恫喝や数による圧力に屈することなく、国のために信念を貫ける者。また、あらゆる欲望を刺激する賄賂などに影響を受けない自立した者、ということです。
 プラトンの視点でいえば、派閥優先であったり裏で利権構造を作ったりしている者は、数に怯え快楽に支配されているので、国の守護者にはふさわしくない事になります。恐怖と欲望によって作られた国家は、やはり恐怖と欲望を基盤とした世界以上のものが出来ません。国を構成する民衆も、同じ心理構造でしかあれなくなります。怖れと原始的な欲求によって操作されてしまう。恐怖と欲望によって「考えかたを変えさせられる」ことがあるのだとすれば、それは不適切な方向へ変えさせられるということです。つまり非現実的な方へ強制されていく。
 外からの圧力によって「強いられ」、「たぶらかされる」ことによって作られる非現実的な世界。それは圧力をかける側にとってのみ都合の良い世界です。これは現実的な視点からみると妄想でしかありません。しかし現実(あるいは人間性)から見ると妄想でしかないものでも、大きな力で強制すれば、独裁国家のように民衆を恐怖で支配することすら出来ます。しかしそれが人間性にとっての妄想(気違いじみた発想)であることは間違いありません。つまりいつも既成化した事実が正しいわけではないのです。むしろ正しくない事のほうが、強制的に事実化されやすい。これを一種の「フィクション(妄想)の押し付け」と考えることができます。
 「妄想の押し付け」という視点を獲得したときに見えてくる構造があります。それを上手く表現しているのがフロイトです。フロイトは『文化への不満』という論考のなかで、宗教を分析してこう述べています。「人々を心的な幼児性に固着させ、集団妄想に引きずり込む」「人生の価値を貶めて、現実の世界のイメージを妄想によって歪めるというものである」。負の国家が使う「妄想の押し付け」と、フロイトが宗教の手法を分析して得られた視点は驚くほど類似しています。フロイトはこれらの手法を反知性としています。フロイトの精神分析の基礎的な考え方を、単純化を恐れず言えば、精神病とは幼児性への固着(原始的な固着)であり、知性的進化の座礁であるというものです。
 プラトンの視点から見える国家の守護者像。それに値しない歪んだ守護者と負の国家は、フロイトの視点からは病的であると診断されます。その内訳は「怖れと欲望の支配」、その結果としての「幼児的固着と反知性」です。未来からすると決して賞賛される時代ではなくとも、放っておくと何百年も続いてしまう。そんな時代を「美しい国」などと言い換えても、その正当化自体が「恥ずかしい時代」だったということになるのでしょう。しかし妄想であることに気づいた瞬間から、わたしたちは真っ当な現実に戻ることができるのです。

AUTOPOIESIS 0032/ painting and text by : Yasunori Koga
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『長いものに巻かれる』

古賀ヤスノリ アクリル画

 「長いものにまかれる」で生き残る。これは日本という島に蔓延した生き方です。しかしこの選択が「消極的な生き方」であることは間違いありません。消極的というのは主体的でないということです。もちろん主体的でなくて構わないという考えもあります。しかし人間が狂う時は、必ず「主体性の喪失」と「自己制御不能」に陥ることが原因です。
 つまり主体性を欠いた生き方を続けていくと、最終的には人間は精神病になるということです。「長いものにまかれる」ことを積極的に選んでいるという人もいるかもしれません。服従を自ら選んだと。しかしこれが「弱さを隠蔽するための自己正当化」でしかないことは明らかです。
 そもそもこの「長いものにまかれる」という言葉は、「倫理を無視して」という前文が省略されているようです。もしそうでなければ、こんな言葉自体が存在しないはずです。つまり「長いものに巻かれる」は「正しさより保身」と言い換えることができます。これを社会がどこかで推奨している。若者は、義務教育の過程で「倫理を大切にせよ」と言われ、社会に出た途端に「長い者にまかれろ」という欺瞞にさらされる。このダブルバインドが原因で、統合失調症になる若者もいるのではないでしょうか。
 もちろん、時と場合により「正しさより保身」でしかあれないこともあるでしょう。しかし、それは「苦肉の策」としての「最終手段」であるほうがいい。基本は保身とのせめぎ合いで倫理をなんとか守る。そうすることで社会は正常に機能していくことになります。エネルギーを正しい方向へ注ぎ、良い構造を安定させていく。「正しさより保身」で安定される構造は、必ず内部のエントロピー(混沌)が上昇します。
 「長いものにまかれろ」あるいは「正しさより保身」という気持ちは、そもそも親との関係でインストールされたプログラムではないかと推測されます。どこまで行っても無自覚に親を投影して怯えながら暮らす。結局「長いもの」とは親のメタファーなのでしょう。
 既成の権力や動かしがたい構造を前にして、本来の自分を押し殺し「セーフモード」で自己防衛をする。選択を迫られた時は付和雷同。その結果がどうなるかを考える「想像力」すら禁止されている。自ら選んだはずのセーフモードは、やがて不可逆的な「アパシー」をつくりだします。そして「何もしないこと=保身」となって無気力になる。
 人間が他の動物と違うところは、文化を持ち得ることです。「低いレベルの欲求」を自ら抑制する自由を持ち、それに代わる「文化」によって人間の種全体を守っていく。個々が自己保身のために足を引っ張り合い、ボス猿に怯えながら暮らす社会は、ただの獣の社会です。私たちが積み上げてきた文化が、新しい次元を示唆しはじめた現代において、「権力」という古い欲望装置だけが、人々を「獣のレベル」にとどめようとします(民衆の家畜化)。「長いものにまかれる」という選択が反文化であり、獣の社会以上のものを生み出せないことは自明です。「長いものにまかれる」という生き方は、結局は「家畜の生き方」なのです。

AUTOPOIESIS 0031/ painting and text by : Yasunori Koga
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『重複なき役割』

古賀ヤスノリ アクリル画

 ある脚本が採用されて登場人物(役割)が決まるとします。そうすると、その脚本内での「役割の重複」が出来なくなります。例えば、誰かがロミオ役になれば他の人はロミオになれない。必然的に別の役になるしかありません。これは脚本内の役割関係の話しですが、普段の生活の中でも役割関係による「重複の禁止」があります。
 例えば先生に対する生徒。これは「教える、教えられる」という関係上、両方が同時に教えることはできません。もちろん教えることが結果的に相手から学ぶことになる事があります。しかしその場合でも、時間的に重なってはいません。役割が転倒するだけです。そもそもこの役割によって結ばれた二つは対立概念です。資本家に対する労働者、親に対する子、正常者に対する異常者といった具合に。この二つは関係によって成立しているので、片方がなくなると、もう片方もなくなってしまいます。
 そもそも関係とは相手なくして成立しないものです。その意味では依存的な構造を持っています。たとえば権力者が権力者でありえるのは、「被権力者による支え」があるからです。逆にいえば被権力者は権力者に依存することで、被権力者に甘んじることができる。この表現はおかしいようですが、実際の構造として存在しています。司馬遼太郎さんは、この被支配者に甘んじる状態を「奴隷の気楽さ」と表現しました。
 単純な対立構造と違って、脚本の世界は役割(登場人物)が多様です。しかし一人として役割の重複はありません。すべての役割が全体にとって重要な構成要素となります。つまり重複していないからこそ、重要な要素なのです。代用がいくらでもあるのであれば、それは重要な要素ではないでしょう。
 人が一つの人生を終えたとき、それは一つの脚本が完成したことに相当します。その時、自分という主人公が、自分以外には出来ない役を演じていたのか、それともみんなと同じことしかやらなかったのかどうか。それによって人生という脚本に対する「自己自身の重要性」が決まります。代用がきく役でしかなかったのであれば、自分の人生であるにも関わらず、重要な役を演じようとしなかったことになります。それは「脚本全体との関係を失った役」だったとも言えます。
 役割は重複できない。なぜなら全体に対して、取り換えの効かない構成要素だからです。もし、取り換えのきく要素なら、全体との関係を持つことができません。取り換えのきく要素へ同化し、全体との関係を喪失した存在は、「不思議の国のアリス」の舞台裏で出番を待つ「トランプの兵隊」のように匿名的です。しかしその安心感は偽物でしょう。なぜなら舞台裏で「トランプの兵隊にまぎれ込む主人公」という脚本がそこにはあるからです。実際はどんな人であれ、一人として同じ人間はいません。どんなに嫌でも「自己脚本の重要な主人公」でしかありえない。これをサルトル流にいえば「人は主人公という刑に処せられている」ということになるのでしょう。

AUTOPOIESIS 0030/ painting and text by : Yasunori Koga
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『引きこもりの原因』

古賀ヤスノリ アクリル画

 内閣府が発表した引きこもり者数は、若者と中高年を合わせて110万人。すでにカウント漏れの話しもあるので、予備群を合わせると200万人いるのではなかと推測されます。一般に「引きこもり」とは「社会不適合者」と考えられています。しかしその数が100万人を超えたとなれば、「人々が社会のあり方にNGを突きつけ始めた」と考えてよいと思います。社会を舵取りする側としては、この引きこもり者数を「社会不適合者」とみなす発想は捨てて、社会の腐敗度(質的劣化)を、正確に把握し分析する必要に迫られていると考えるべきです。
 そうはいっても、社会適応者のほうが多数であり、引きこもりは少数。社会を少数の者たちに合わせるわけにはいかない、という発想もあるでしょう。しかし今の社会を放っておくと、さらに引きこもりの数は増えて、最後には数が逆転してしまいます。そうでなくとも、少数者に社会を合わせることがおかしいと考えること自体が矛盾をはらんでいます。なぜなら現在の資本主義経済社会は、ごく少数の巨大資本家のために世界中の人々が苦しみながら働いているという構造なのですから。
 リンゴ箱にリンゴが詰まっているとします。その箱を密閉して放置する。そうすると中は暗く風通しもわるくなる。そのうちリンゴの一部にカビが生えてきます。一部だからと無視していると最後は全体にカビが蔓延する。何故カビが発生するかといえば、リンゴ箱の環境が悪いからです。構造が閉鎖的で外と内の循環がない。この箱内の環境をクリーンに保つことでカビの発生は防がれる。カビの発生をカビのせいにしても問題は解決しません。少なくともそう考える人はリンゴの生産者にはなれません。
 カビを例に環境の劣化を表現しましたが、引きこもりをカビなどとは思っていません。むしろ引きこもりを発生させる環境を作ってしまう「原因」(舵取りのまずさ)がカビだと考えられます。こういった「閉鎖構造内が腐敗する現象」は社会だけでなく、より小さな家庭などにも見られます。一つの家庭の構造(考え)が閉じて、その中の環境が悪化したとき、家族のだれかが引きこもり(あるいは正常でない状態)になる。その数が全体として110万という数字として出る。しかし家族だけが問題ではなく、やはりその家族は社会との関係で構造を閉じることになっている。むしろ家庭が社会と関係をもちながらも独立している家庭のほうが、引きこもりは発生しにくいと考えられます。平たく言えば「世間従属型の家庭」のほうが、引きこもりが発生しやすい。
 何かに従属した家庭(社会)には、適切な舵取りというものがありません。ただ従うだけです。個々人よりも大きなものに従うだけです。そのうちに個人に異変が起こる。しかし大きなものに従うことを辞めることはできない。というよりは、従ているという自覚すら消えている。だからこそ、問題が起きれば個人の問題だとしか考えられない。例えば子供が引きこもりになって、親が自分が悪いんだと考えることも、個人の問題にしているので解決が難しい。この問題は環境問題であり、従属の問題です。世間に従う、科学に従う、宗教に従う、あるいは組織やグループに従う。それ自体は個人の自由なのですが、「適切な距離」を保たずに従うと、その内部は腐敗するという現象が起こるということです。
 内閣府は引きこもり者数を把握しました。これを「新し社会的な問題」と定義づけしたようです。しかし「社会的な問題」ではなく、すでに「社会」自体が問題です。どんなリンゴを箱に入れても、リンゴに異常が発生する。これは、リンゴ箱という社会が「腐る装置」になって来た証拠です。これまでリンゴ箱を管理してきたのは一体誰でしょうか。現在のリンゴ生産者が責任を持たないならば、「新しい生産者」にリンゴ箱を管理してもらいたいと思うのは当然の流れでしょう。

AUTOPOIESIS 0029./ painting and text by : Yasunori Koga
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『所有の概念』

古賀ヤスノリ アクリル画

 所有という概念はよくよく考えると不思議なものです。たとえばボールペンを買う。買った人は自分の物だと考える。しかし、お金を介さずに、海で拾った貝殻を自分のものと考える人もいます。あるいは人のアイデアを拝借して自分のものにする人もいる。そもそも「自分のもの」という感覚は一体何なのでしょうか。
 たとえば自分の「身体」は自分のものだと考える。これは当然のように考えられています。ケガをすると痛い。因果関係が実感されるので自分の身体だと判定できる。逆に人の身体は自分のものだとは普通は考えない。しかし、子供を自分のもの(所有物)だと思っている親もいます。もし魔法か何かで自分の足が身体から切り離されたら、その足を自分の足だと思い続けられるでしょうか。それが髪や爪なら所有の概念はそうは続かないでしょう。
 心理学の視点で言えば、所有という概念は、自我が投影されたものだと考えることが出来ます。自我はなんにでも投影される。人にも物質にも、あるいは概念にすら投影される。学術的な発見、組織の教義、人間関係、創作した作品、自らが介入した結果に自我が投影され、それらが自分自身となる。だからこそ、それが傷つけられると自分が傷つけられたように感じてしまう。
 所有とは「自己投影による支配」ともいえます。よって支配欲の強い人ほど、物質や他者、自分に関係のある概念に自我を投影し、所有しようとする。もし親が子供に対し所有の概念を持っているとすれば、その子供も他者に対し所有の概念でしか関係できなくなる。支配欲や権力欲の問題は、この所有の概念が根本にあると考えられます。
 自我の投影により所有概念が生まれるとすれば、「自分の内側に入れる」ことが「所有する」ということになります。映画監督のジャン=リュック・ゴダールは、自分の身体は外部である、と言っています。つまり「自分の身体は自分のものではない」ということです。この区分けはデカルトの心身二元論(精神と物質)の分け方と重なります。心と体の区別をつけるということは、「自分の身体は自分のものではない」と考えるということです。この前提から出発すれば、他者を所有概念で考えることは無いはずです。支配欲を持つことも出来なくなる。自我の外にあるもの(他者)を認めているからです。
 所有という概念は、自我の内側に対象を取り込む(自我を投影する)ことで発生します。その内側に取り込めないものは、購入によって所有する。この場合は、「自我投影のプロセス」が「購入手続き」に置き換えられています。よってお金さえあれば、疑似的に自我をどこまでも延長できることになる。言い換えると、自我の外にあるものと出会う機会を失う。我儘や自己中を押し通す状態がこれに当たります。
 客観的に言って所有という概念は幻想の領域です。究極的に自分のものと言えるとすれば、それは「自分の経験」だけでしょう。どんなにつまらない経験だったとしても、それだけは疑いなく「自分のもの」です。それ以外のものは、たとえ稼いで高級車を買おうと、自分で家を建設しようと、それ自体は自分のものではない。ただの物質でしかありません。それを自分のものだと考えるのは、そう思いたいからです。もちろんそれでは生きていて楽しくありません。だから私たちは、自分のものという幻想をたくさん持って、楽しみならが生きているということなのでしょう。

AUTOPOIESIS 0028./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『isonomia』
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