『個性とはなにか』④

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 「個性」とは本質的なもの。それ自体で一つの全体をなすものです。たとえば全体主義の中にあるものは、全体に対する部分でしかありません。それ自体で一つの全体とはならない。さらに還元主義的に、数量化したり各要素へ分解したりすることも、全体(個性)を破壊することになります。
 本質はそれ自体で完結した完全体であり、他とは比較できないものです。そして「個性」とはその本質そのものです。別の言い方でいえば「一般化」できないものです。よって一般的な基準にそれぞれが従うと「個性」は消滅してしまいます。「個性」が消滅するということは、存在自体がなくなるということです。
 「個性」の性質上、独立的であることが「個性」の条件となります。複雑な要素の集合体ではない。だからこそ、分解もできない。これはつまり内部に矛盾がないということです。内部に矛盾のないところにしか「個性」は維持されない。キリンはキリン、カバはカバとして矛盾のない存在です。
 たとえば「見た目と中身が違う」(形式と内容の乖離)といった矛盾がよくあります。パッケージと中身の乖離、あるいは「本音」と「建て前」など。このような状態は二重構造(ダブルバインド)であり本質として完全ではありません。キリンが実はカバであるといったこはありえない。このように二つに分解できるものは「個性」としてはまだ不完全です。
 「本音」を隠して「建て前」で一般化に従う。そうして全体主義の中へ入り、そこからの保護をうけ安心を得る。しかしその代償として「個性」を失う。個性とはその人がこの世に存在しているという「存在証明」のようなものです。よってそれを失うことは「生きているようで生きていない状態」を生きる、ということにもなります。吹雪の中、ホワイトアウトに飲み込まれないためには、どうしても「個」を保つ必要があるのです。

AUTOPOIESIS 0096/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『個性とはなにか』③

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 全体主義の対局にある個性。それは比較によって現れる「差異」であり「違い」です。この「違い」はそれぞれが「別もの」であることを示しています。「別もの」であるということは、そこは「比較できないもの」だということです。同じものは比較できるが「別物」は比較できないのです。
 たとえばキリン同士は比較できる。しかしキリンとカバは「別もの」なので本質的には比較できない。比較するとすれば、重さやサイズなどを数へと還元するしかない。しかしそれはキリンやカバの「存在のあり方」を破壊してしまいます。本質的に違うもの同士は比較できないのです。
 比較によってあらわれる差異。そこに現れた「違い」は比較できない。キリンとカバはどちらも四本で歩き、心臓を持っている。しかし違う部分がある。そこがそれぞれの個性であり、比較できない部分です。キリンがカバと同じでありたいなら、無理に首を縮めて水の中で暮らさなければならない。
 そもそも比較というものは、同じレイヤー上にあるものでないと出来ません。たとえば数学の点数どうしは比較できますが、国語と算数とを比較することはできません。もちろん数字上の比較はできますが意味がありません。数字による比較は便利であるとともに、一線を超えると意味をなさなくなるのです。
 すべてを数にすれば比較できないものも比較できるようになる。しかしそのことで固有性は剝ぎ取られる。全体主義もその内部は数でしかありません。このように全てを数や部分へと分解するものの見方を「還元主義」と言います。「還元主義」は個性を解体する。「個性」とはその対極にある総合的なもの、全体的なものです。“分解すると失われてしまうもの”。いわば人体における魂にあたるものが「個性」だと考えられるのです。

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『個性とはなにか』②

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

  個性とは比較による差異、違いにあらわれます。たとえばアリなどの同質の集団には、個々の差異や違いは見られません。アリの群れのどこを取り出してもおなじ個体です。もしその中に違いが発生すると、その集団から「違い」は排除されてしまいます。
 同質の群れから排除されるものは、異質だと全体が判断したものです。この意味で「全体主義」は個性を含むと成立できないということが分かります。「全体主義」を目的とする集団は、個を排除し続けることではじめて維持される。つまり同質の仲間(違いを許さない仲間)で群れた場所には、個々に違った花は咲かないということです。
 しかし自然界にはたくさんの個性的な花が咲き乱れています。それぞれは排除し合っていません。このことから「全体主義的な個性の排除」は、反自然的であることが分かります。つまり“不自然”であるということです。言い換えると、目的が不自然に「固定」されることで「全体主義的な個性の排除」が起こるのです。
 「個性」とは比較による差異であり、お互いの「違い」としてあらわれる。その違いを認めず、個を排除するシステムが「全体主義」です。この「全体主義」は、「不自然な目的」が操作的に固定されることで発生します。この力が広がれば、個性は片っ端から排除されていきます。この流れが歴史的に繰り返されていることは、いまや誰もが知っています。 
 歴史的に繰り返されるということは、放っておくと人間は必ずそうなってしまうということです。そして、そうならないために「個性」という状態や概念がある。「個性」は「全体主義」にとっては排除すべきものであり、むしろ全体を維持するために燃やす“蒔”のように扱われます。山火事は木々を燃やすことで広がる。しかし、焼け跡からやがては緑が芽吹き、個々の花が咲き乱れるようになる。自然という目的は、必ず「個性」を優先させるものなのです。

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『個性とはなにか』①

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 「個性」という言葉を日常でよく目にします。しかし「個性」というものをはっきりと理解して認識している人はそう多くはないはずです。そもそも「個」はその反対にある「全」という概念に支えられています。たとえば全体主義といえばその中に固有の性質は許されない。個性のない同質の全体とは、つまり「無個性な集団」ということです。そして個性とはそのような「無個性」から際立つ何かを持つ性質のことです。
 一般に個性的と言われる人でも、他人と同じ部分、同じ共通する性質を持っています。その部分はゼロとして相殺し、残った部分がその人の特徴であり個性として他人へと伝わります。よって、もし他人と違うところを自己否定すれば、その人は「無個性」になっていきます。
 「無個性」な全体主義のなかに溶け込めば、安心だと考える人もいるかもしれません。しかしそれは、他とはちがう“確実に自分自身だ”という「自己の存在証明」が消えてしまうことを意味します。この「無個性」な全体主義への埋没は自己逃避であり、その意味では「個性の身投げ」ということも出来ます。安心と引き換えに個性という「自己の存在証明」を放棄するわけですから。
 「無個性」の全体主義は、古来、神話や文学が「虚無」や「暗黒」というイメージを使ってメタファー化してきました。人間は「個」を守り、そこへエネルギーを注ぎ続けなければ「虚無」(或いはエントロピー)へ傾いてしまう。「個性」とは「全体」との“違い”であるとともに、「虚無的な負の安定」と「自己」とを“区別する力”を示すものです。無個性への流れを食い止めるためには、「個性」を守り、磨き続ける必要があります。そしてその活動自体が「個性」の性質そのものなのです。

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