『自由と個人主義』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

  自由とは一般に、他に拘束されず自主的に選択したり行動したりすることを指す。「私は自由よ」ということですべて自分の思い通りに振る舞う。しかし、もしその人がなにかの感情に支配されて暴力を振るうとするとどうか。外から見るととても自由な振る舞いには見えない。
 自分以外からの拘束や操作を受けなくても、自分自身がある意味で「自分に支配されている」状態なら、やはりそれは自由とは呼べない。つまり自分をコントロールできて初めて自由と呼べる状態になる。それまでは不自由な状態であることを認めるしかない。
 現代は「個人主義」の時代である。なんでも個人が優先される。しかしこの「個人主義」も自由と同じく自分自身に支配されてしまうと、ただの「利己主義」に堕していく。人々が利己的になり我儘の限りを尽くせば、社会もおなじく堕落してしまう。結局それでは弱肉強食の世界ではないか。
 「個人主義」を成立させる社会を維持していくには、他者の「個人主義」も阻害してはならない。そうなると好き勝手できない領域が発生する。そこは抑制しなければならない。しかし我慢や抑制を「抑圧」と受け取れば反動が起こる。精神分析学の創始者フロイトは、このような「抑圧」が無意識を作るという。だから意識に反して人は無意識的に「やってしまう」のだ。
 好き勝手主義である「利己主義」を社会的に修正したところに「個人主義」が成立する。それは簡単に言えば他者を尊重するということだ。しかしこれは自分が我慢しなければならないので不利益ではないか。そう感じる人が「嫌な我慢」という「抑圧」への抵抗を示す。放っておくと大きくなり反社会的なものへと発展する。
 フロイトは「抑制こそが文化である」と言う。そしてその反動が起こるとも。なぜなら文化を獲得するまでは、人間は「動物的」だからである。動物の利益に反する抑制を受け入れる。これは動物的な矛盾であろう。しかしその矛盾を超えた所に「個人主義」も文化もある。
 自由とは自分のみならず他人の自由を阻害しない状態で成立する。誰もいない宇宙で好き勝手に振舞っても、自由もなにもないではないか。やはり水を受け入れて初めて自由に泳げるように、他者を阻害せず受け入れることで自由が成立する。
 何でもありは自由に非ず。真に自由に振る舞うための抑制を備えてこそ、無意識の暴走に支配されない「文化的な自由」=「個人主義」も成立する。現代人は自己との戦いを避けるために抑制(我慢)すべきところを誤ってはいないか。だからこそ無意識の暴走に見舞われるのではないか。自分のためにこそ自分を抑える。この矛盾を超えたエネルギーは「勇気」によって生まれるのではないだろうか。

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『個性とは何か』⑥

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 個性とは無形にして永遠普遍の本質である。この無形なる普遍的な本質を、もう一人の古代ギリシャの哲学者、プラトンは「イデア」とよびました。プラトンはキリンならキリンの、カバならカバの「イデア」があると言います。それぞれにイデアがあるからこそ、一目見てキリンやカバと分かる。つまりこれが個性の認識にあたるものです。
 群集の中にある友人の顔を一瞬で見分ける力。あるいは作品を見てだれのものかが瞬時に分かる力。これらは対象となる個性を把握しているからこそ生まれるものです。表面的なものではなく、無形の普遍的な「本質」を直観的に理解しているからこそ可能な認識なのです。
 個性とは誰の中にもあるものです。たとえ表面的には一般化していても、それ以上分割できないアトムのように、何者にも破壊できないものとして、無形のイデアのように必ず存在しているのです。
 社会は還元主義を採用して動いています。すべてを数値管理し、科学は分類と体系化によって成立している。よって人間もそのように扱われてしまいます。そうすると個性は見えなくなってしまう。しかし、個性は無形の普遍的な本質であり、究極的には破壊できないのです。
 「私には個性がない」という人もいます。しかし本当にそうでしょうか。還元主義的な一般化によって見えなくなっているだけではないでしょうか。個性は、いつものその人の動きの中に、発するものの中に、生み出すものの中に、常に存在しています。無形にして永遠普遍なる個性を消滅させることは、決して出来ないのです。

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『個性とは何か』⑤

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 個性とは比較できないものである。それは部分へと分解する還元主義の対局にあるもの。そのようなあり方を全体論(ホーリズム)と言います。部分を総合して出来るものではなく、それそのものが全体であるようなものです。
 同じ全体でも全体主義は個性が消滅してしまい、集団が一つの全体となってしまいます。一方ホーリズムは部分であることを否定します。その状態でないと個性は存在できないのです。部分へと分解できないということは、つまり「それ以上小さくできない」(最小単位)ということです。
 個性とは「それ以上小さくできないもの」です。古代ギリシャの哲学者、デモクリトスは「これ以上分割でいないもの」をアトモスと名づけました。これは現代でいう原子(アトム)の元型です。この分割できない万物の基礎となるアトムのようなものが個性だと考えられます。
 現代物理学では、原子より小さなものが想定されています。しかし分割できない、永遠普遍のものとして「アトム」という概念は、いまでも生き続けています。個性はこの「アトム」が象徴するような、永遠で普遍なものです。
 個性とは何ものとも比較できない、永遠普遍のものである。それは本質的であり、破壊不能なものです。分解したり破壊したりできないもの。つまり物質的なものではないということです。個性とは物質とは別のことろに存在する「無形」にして永遠普遍なものなのです。

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古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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