『確率論のパラドクス』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 赤と黒のルーレットで、赤が5回続けて出る確率はしばしばある。でも100回続くことは生きているうちにはなさそうです。1000回続く確率はほとんど無いと言えるほどに低いでしょう。しかし、もし仮に999回赤が続いて、次にも赤がでる確率といえば、やはり50%ということになる。1000回続く確率がほぼないに等しいのに、次に赤が出る確率は50%。ここに確率論のパラドクスがあります。
 人は知らぬ間に確率でものを考えるようになっています。そうして先を予測しながら生活している。ある程度あたる確率を採用(あるいは低い確率を無視)している。いや、採用した確率が「あたるように生きている」と言ってもいいかもしれません。赤だけ10回は続きにくい。100回はほぼありえない。確かに。しかし目の前のチャンスである「次の一回」だけに絞れば、100回の確率に支配されない次元が広がっています。思った以上に確率は高い。個別的な事例を大きな確率論から切り離すことで、チャンスは自分のものになる。
 ちょっとややこしい言い方だったかもしれません。とにかく一般的に出来上がっている「確率的な常識」は、個人の確率にはあてはまならないということです。この一般的な確率論から自分を切り離すことで、それまでありそうもなかった「成功の確率」が格段に上がるのことになります。
 確率論そのものは強力で、まとまった情報をたよりにすれば“まとまった結果”が予測できます。でも、個別事例に対してはあまり役に立たない。その意味では個人の自由とは「一般化した確率論」(常識)に支配されないということなのかもしれません。個々人のチャンスは、諦める理由が見つからないほどに可能性に満ちているのです。

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『カントの想像力』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 人間は動物である。しかしほかの動物とはちがい随分と進化してきました。最初は単細胞生物(たとえばアメーバー)のような、外部に反応するしかない存在だった。そこから原始的な動物に進化して、脳が大きくなるとともに道具の発明や計画的な思考ができるようになった。そこからさらに長い時間をかけて、現在のような高度な文明を築きあげる存在へと進化しました。
 動物の世界は弱肉強食の世界。それは「食うか食われるか」の二択の世界であり「食うでも食われるでもない」という中間の状態がありません。つまり野放しの「自然状態」には基本的に中間の状態(中間の維持)がなく、つねにどちらかに向かうしかありません。「自然状態は常に二極化する」ということです。
 高度に発達した人間でも、考えることや社会を安定させるという目標を忘れると、すぐに「自然状態」となり中間を維持することができなくなります。つまり弱肉強食の世界に堕ちてしまう。そもそも人間は動物であり、動物は生きるための生存本能としての「攻撃の欲求」を備えています。高度な社会においてもそういった「攻撃の欲求」がいろいろな所で抑えきれずに噴出する。武力というものはその象徴であるし、戦争は人間が「自然状態」に堕した印です。
 戦争抑止の指標が「平和」です。完全な平和はありえないけど限りなくそこへ近づく努力が戦争を抑止する。この「平和」とは「食うでも食われるでもない」中間を維持する状態です。そしてこれは「自然状態」(ある意味で現実)にはなく「想像力」によってしか作りえないものです。現在の国連の理念を作った哲学者のイマヌエル・カントは、お互いの武力をより「高次の組織」に譲渡していくことで永久的な平和状態を作ると考えました。この「高次の組織」も二極化の「自然状態」にはなく、想像力によって維持される中間項です。その平和理念に反する行為が、人間にしか備わっていない「想像力」を失った「原始性に堕した状態」であることは言うまでもありません。「想像力」による「原始性の打破」こそが平和維持と人間進化のプロセスそのものなのです。

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『ナルキッソス②』

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 水面に映る自分にみとれて湖に沈んだナルキッソス。彼は世界が自分だけで満たされてしまい現実を見失ったのでした。それは理性や客観性が損なわれた状態、ゆえに主観的には絶対的な高揚感に満たされていた。自分に関わることはすべて過大評価され、それ以外のものはすべて過小評価される。当然ながら自分を批判する意見は、それが正当であったとしても受け入れられない。それらは全て自分への攻撃と感じられ腹を立ててしまう。
 ナルシシズムに支配された人が正当な批判にたいして、過剰に反発するのはなぜか。それは自己肥大化が「恐れから逃れる方法」であり、肥大化した自己に対する批判はその方法を脅かすものだからです。つまり正当な意見や自分の失敗を受け入れることが、最も自分が恐れるものへ繋がっている。ゆえに誤った舵取りを修正することができない。このパラドクスの構造は危機的です。
 自分自身だけを強く見続けようとすることは、恐れから逃れるための最終手段です。恐れを抱けば抱くほど自分を肥大化させ続けることになる。そしてそういった行為に対する意見は全てはねのける。すると恐れから(一時的に)逃れられる。しかしその代償として現実との接点を失ってしまう。現実的に自分自身をチェックする状態が損なわれると、あとは行き着くところまで行ってしまいます。
 ナルシシズムには良性と悪性とがある。この二つを分類したエーリッヒ・フロムは、ナルシスティックではあるが創造的な人間がいることを指摘し、その条件として「自己チェック」が可能であることを挙げています。現実において「自分が創り出したもの」に関心を持つこと。このセルフチェックによって良性のナルシシズムが発動する。悪性のナルシシズムの場合は自分に見とれるだけで、作り出すものにまったく関心がなく、セルフチェックもないのです。
 もし水面に映る自分に見とれていたナルキッソスが、水面の自分から目をそらし、現実の世界で何かを作ってみたとすれば、あるいは自分自身にはっと気づくことが出来たのかもしれないのです。

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『ナルキッソス①』

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 数あるギリシャ神話のなかでもナルキッソスの話しは特に有名です。結末としては水面に映る自分の姿に見とれて溺れ死ぬというもの。この物語をもとにしてフロイトが名づけた「ナルシシズム」という言葉は、今では「ナルシスト」として一般化しています。フロイトが発見した心の病の根源でもある「自己愛」という状態に「ナルシシズム」という言葉をあてたことろはさすがとしか言いようがなく、その構造と結末を見事に表しています。
 フロイトが言うナルシシズムの状態は、幼児期の状態であり、それは絶対的な自己満足の状態です。その究極の状態が、子宮のなかの胎児であり、そこでは絶対的ナルシシズムの状態にある。人間はそこから一歩踏み出し、変化する外的な世界を許容するとともに、ナルシシズムの状態はうち破られていく。そして自己に向いていた心的エネルギーを「外部の興味」へと向ける。これが健全な発達過程とナルシシズムの減退です。
 しかし不安や恐れなどの原因によって、外部へと向けられるはずの心的エネルギーが自分自身へ向かえば、そのエネルギーは外へ出て行かずに自己肥大化を起こす。胎児的な絶対的ナルシシズムの状態は、外部がない状態であり、だからこそ外の不安や恐れから身を守るために自己を肥大化させる。世界が自分なら不安も恐れもないわけです。しかしナルキッソスは最後には溺れてしまう。なぜなら現実が見えなくなっていたからです。
 不安や恐れのために自己を肥大化させ、自分を現実の替わりにする。そういった自分だけの世界では、自分に関わることだけが過大に評価され、それ以外のものはすべて劣等となります。さらに自分の失敗や外部からの正当な批判を受け入れることができなくなる。そのことが自己修正を不可能なものにしています。このような構造が出来上がってしまった後に、状況を改善することは可能なのか。我に見とれて沈みゆくナルキッソスを救う方法はあるのでしょうか。

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『バイオフィリア』

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 生きものに対する興味、あるいは草花に対する愛情。そういった「生を愛する傾向性」を、社会心理学者のエーリッヒ・フロムは「バイオフィリア」と呼びました。「バイオフィリア」は生命を守り死とたたかう性質であり、この方向性にあるものは、物理的にも精神的にも生き生きとして豊かなものになっていく。
 「バイオフィリア」に対して、その逆にある傾向性を「ネクロフィリア」と呼び、フロムは「死を愛する傾向性」と定義しています。これは生きたものを停止させ、支配(所有)する。そして全てを枯れたものへ変えてしまう。「バイオフィリア」とは完全に逆ですが、本人はその傾向に気づいていない場合が多いといいます。
 この「バイオフィリア」と「ネクロフィリア」の二つの傾向は、誰もがもっているもので、人格としてどちらかが優位にある。とうぜん「バイオフィリア」を優位に保つ必要があります。「バイオフィリア」は生きたものへの関心だけでなく、現状維持よりも冒険を、部分だけでなく全体を、概要だけでなく構造を見る。そして自らの創造により、周囲に影響を与えていく。これが「バイオフィリア」の特徴です。
 この「バイオフィリア」の特徴を読んで気づいたことがあります。それは私が絵の教室でポイントにしている事とすべて一致しているということです。絵の教室なので絵が上手くなることが目的ですが、描くことでその人の人生が豊かになっていかないと勿体ない。そう思い考えた「描き方の原則」とフロムの「バイオフィリア」の定義が一致していたので、深く共感しました。
 「バイオフィリア」という生を愛する傾向は、生きているものにとって必要不可欠な要素で本来特別なことではありません。しかしフロムが指摘するところでは、社会が数量化と機械化、そして官僚化することで、人々が「ネクロフィリア」へと傾斜していく。昨今の異常な事件や人々の社会(あるいは他者)への無関心などはその一端です。つまり死の傾向性が多数を覆ってきている。よって相対的に「バイオフィリア」が育ちにくい環境になりつつありるのです。
 フロムは「バイオフィリア」の発生をうながす条件を、創造する自由、挑戦する自由、そしてそれらの自由のために責任をもつこと、としています。それらの要素は成果主義や官僚主義的な社会では許容されていません。しかし個人の芸術活動ならそれが可能です。自由な創造行為によって成長を続けることが、「ネクロフィリア」をおさえ、生を愛する「バイオフィリア」を優位に保つ最善の方法なのです。

AUTOPOIESIS 121/ illustration and text by : Yasunori Koga
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