『統合について』

 植物に水を与える。そして日光にあてて育てる。すると水分が蒸発するので、また水を与える。そしてまた日光が水分を蒸発させる。この二つの行為は矛盾しています。もし片方だけしかできなければ植物は枯れてしまう。二つをバランスよく与えるためには、相反する二つを「加減」する必要があります。
 AとBを統合していく。もし片手だけだと、どちらか一つしか持てません。AからBへ持ち換えるにはAを捨てるしかない。例えばAの仕事をやっていて、新しくBの仕事が舞い込んで対応していると、Aは忘れ去られてしまう。しかし両手があると両方とも同時に扱うことが出来ます。どちらも手にあるので忘れることがありません。これが統合の状態であり、片手だけという状態はいわゆる分裂の状態です。
 AとBの二つを上手く加減していくとリズムが生まれます。つまり物語が生まれる。もし一つしか「許されていない」となると、リズムも物語もありません。つねに片方を捨てるしかないので文脈を「連ねていく」ことができない。リズムや物語を生み出すには、相反する二つの「区別」をはっきりつけて、両手で上手く加減する必要がある。そうすれば片手でしか現れない「静止した世界」とは次元の違う、リズムと物語に満ちた「動的な世界」が現れるのです。

AUTOPOIESIS 152/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『良い想像力』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 想像力には二つあります。一つは「良い想像力」。そしてもう一つは「悪い想像力」です。例えば、最悪の結果ばかり想像して、事前に恐れを抱くのは「悪い想像力」です。それに対して、事実に基づいてより良い状態を想像する。これは「良い想像力」です。想像力は保守的になると積極性を失い「悪い想像力」が優勢になります。これは想像を思い浮かぶままに任せているからです。「良い想像力」は受け身てはなく、積極的な意志でイメージを形造るものです。
 例えば文字を読んでイメージを思い浮かべる。これは文字が想像するものを示しているのでイメージが容易です。しかし言葉以前の雰囲気や心で感じたものをイメージするには、より積極的な意志が必要です。その意志がないと、情動に流されるまま受け身になってしまう。よって受け身ではなく積極的な意志で想像する力が、不安定な想像を抑止する「良い想像力」だといえます。
 フランスの哲学者アランは「最大の苦痛とはものごとを正しく考えることができないことだ」といいました。つまりありもしない悪い想像力で何かを恐れたり正しさを見失ったりすることが、最大の苦痛の原因だということです。そう言った状態を回避するためには「良い想像力」が必要です。それは積極的な意志でイメージを形にする力。言葉を前向きに使うことで人類が発展してきたように、「良い想像力」を使うことで不安な想像は抑えられ、新しい展望が開けるのです。

AUTOPOIESIS 151/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『ハックルベリー・フィン』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 アメリカ文学の父といわれるマーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』は、アニメ作品にもなっているので誰もが知っているでしょう。その『トム・ソーヤの冒険』の中にハックルベリー・フィンという風来坊が出てきます。村の大人たちからは「宿無し」と呼ばれ嫌われていますが、子供たちからは人気がある。学校にも行かず、何物にも拘束されない自由を満喫して生活しているからです。
 ハックルベリー・フィンは自然を愛し、樽の中で寝起きをしてその時々を自由気ままに生きている。冒険好きのトム・ソーヤはそんな彼を尊敬し、一番の友達だと思っています。そしてあらゆる悪い遊びを一緒にしでかす。その後ハックルベリー・フィンは、あるキッカケでお金持ちの婦人の家で暮らすことになります。いつも汚れた服は新しいものになり、身ぎれいにされ、何不自由のない生活がはじまる。
 結局ハックルベリー・フィンは、スプーンとフォークにお皿を使う食事なんて耐えられないと、家を抜け出してしまう。金持ちの贅沢な暮らしより川や森を愛していると言います。このエピソードは、習慣化したものは、たとえ良い状況に変わるとしても、なかなか捨てられないということを示しています。それとともに、マーク・トウェインの自伝でもあるこの物語が、アメリカの歴史を貫く自然主義の賛歌であることも良く表しているのです。

AUTOPOIESIS 150/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『絶対的な価値』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 「絶対」という言葉には強い響きがあります。他の一切を寄せ付けず揺るぎがない。例えば「絶対にこの壁は崩れない」といえば、その壁は力強く信頼できるように感じます。他から一切の影響を受けないという意味では、究極の自己正当化の言葉かもしれません。
 この「絶対」という言葉は、真逆の意味である「相対」という言葉に支えられたものです。「暑い」がないと「涼しい」もないように、「相対」がないと「絶対」もない。この「相対」とは、比較や関係によってしか存在できない状態を表す言葉です。例えばドーナツの穴は、穴だけでは存在できない相対的なものです。そして「暑い」ときに「涼しい」が欲しくなるように、「相対」の状態が優位になれば「絶対」が欲しくなる。このときに、「絶対」を自分の中に(自分で)作り出す力がなければ、外へそれを求めるようになります。たとえば超越的な存在や絶対的な教義、数字や規則、因習なども絶対の対象になります。
 この「絶対」を外へ求める状態は、自分の内部が相対的(ドーナツの穴)になっていることを表しています。つまり自分自身に対する「絶対的な価値」(自信)の欠乏、また「創造性」の欠如が、絶対や超越を外へ求める最大の原因です。既にあるものや、決まり切ったことに従うだけではなく「前提をより良く修正する自由」と「創造性」を確保することで、自分自身の絶対価値(自信)が生まれ、「絶対的な対象」(外部)への盲目的な依存も自然になくなるのです。

AUTOPOIESIS 149/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『シンボルの哲学』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

(シンボル化は思考にとって本質的な行為であり、思考に先行する) S.K. ランガー

 サイン(記号)とシンボル(象徴)はどう違うのか。この二つを徹底的に区別して、シンボルの機能に焦点を当てたのがこのランガ―の主著『シンボルの哲学』です。
 サイン(記号)とはピクトグラム(たとえば非常口のマーク)のように、示す対象とサイン(記号)が等式の関係にある。A=Bのように取り違えは起こらない。よって、対象とサイン(記号)は入れ替え可能である。それに対してシンボル(象徴)は「対象の代理ではなく、表象化の担い手である」とランガ―は言います。つまり、ただの「鳩」が「平和の象徴」になるように、表現の仕方によって別のイメージを喚起させるものがシンボル(象徴)であるということです。
 サイン(記号)の場合は、言葉に近く、なかば強制的に示すものです。受け手に自由なイメージを促すことはありません。それに対してシンボル(象徴)は、具体的な指示ではなく、イメージを喚起させ想像力を刺激する。受け手に自由があります。別の言い方をすると、サイン(記号)は論理的な説明であり、シンボル(象徴)は、イメージの暗示、メタファーであるということです。
 サイン(記号)が対象を描写するのに対して、シンボル(象徴)は暗示する。つまりサインと対象の間には主観が入り込む余地はありません。しかしシンボルと対象との間には主観が入る。そしてそのことによって初めて有意味なイメージが生まれることになります。
 サイン(記号)を受け取って本能的に行動するのが動物の基本。そこから一歩進んでシンボル(象徴)を使用することが、動物と人間の境界線を越えることを示す、とランガ―は述べています。人間の本質であるシンボル機能を、先達のカッシーラやホワイトヘッドの研究を継承しつつも、更に一般化を試みた決定的な名著です。

book 030『シンボルの哲学』S.K. ランガー : Originally published in 1942
illustration and text by : Yasunori Koga
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