『植え替えの時期』

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 鉢植えの植物を育てる。陽の光と十分な水を与えることで、植物は葉を広げどんどん成長していきます。それとともに根っこも伸びていき、水や土から栄養をたくさん吸収するようになる。しかしやがて根が充満するときが来ます。もしそのままにしておくと、その植物は調子が悪くなり、最後には枯れてしまいます。成長することが自分の存在を殺してしまうというパラドクス構造が出来たからです。
 植物が成長すればするほど枯れてしまう。このパラドクス構造を作らないようにするためには、根が充満するまえに、より大きな鉢へ植え替える必要があります。根が成長するために必要な空間(余白)を作り出すということです。鉢に根以外がない状態(自分で充満した状態)では栄養を吸収することはおろか、自分によって押しつぶされてしいます。それを回避するために、外部世界を広げる必要があるということです。
 より大きな鉢へ植え替える。あるいは庭へ移し替ええる。そうすると根は自らを押しつぶすこともなく、肥沃な土壌から水と栄養をたくさん吸収し、元気に育っていく。成長することで自らを殺すということもありません。このように一つの方向への発展には必ず限界があり、発展を続けていくためには、外部世界を適切に変えていく必要があります。これは人間も同じで、揺りかごで永遠と過ごすわけにはいかないのです。
 実はこれは、物理的なことに限りません。一つのものの考え方、あるいは行動や計画は、ある時期まで有効でありながらも、ある時期からは前進が自らを圧殺する方向へと向かいます。いわゆる形骸化という言葉は、この発展の折り返し点をすぎたという意味です。考えや行為の有効性が感じられなくなった時は、植え替えのサインです。植え替えとは自己を包み込む空間を広げるということ。つまりそれは自己の世界観を押し広げるということです。
 自己の世界観を広げるということは、言い換えると、今まで取り入れてこなかった(或いは避けてきた)考え方や発想、価値観などを取り入れるということです。そうすることで、「これまで通り」の継続が自己を圧殺する、というパラドクス構造を回避できる。もちろん慣れ親しんだ状態や環境を変えるにはエネルギーや勇気が必要です。怠惰の病がそれを邪魔することもある。しかし環境をかえなければ自己が押しつぶされることは確実です。
 植え替えのサインとともに環境を変える。物理的には場所を移動してより自由で余白のある空間に身を置く。精神的には、これまで避けてきた新しい考え方や価値観を受け入れ、自分の世界観を押し広げる。それに必要なことは、重い腰をあげるエネルギーと勇気です。形骸化が進めば負の構造から出ることが難しくなる。慣れ親しんだ世界と心中するよりも、次の世界でのびのびと成長する方を選ぶ。この天秤をイメージして未来に賭ける勇気があれば、そこに見事な花が咲く可能性があるのです。

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『二つの理解』

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 物事の理解の仕方には二つあります。一つは「受動的な理解」です。たとえば、子供が親から「赤信号は渡ってはいけないよ」と言われ、それを理解するというもの。もう一つは、「能動的な理解」です。子供が赤信号を渡ろうとして人とぶつかり、だから「赤信号は渡ってはいけないのだな」と理解するというもの。前者は親が一般化して言葉という情報に変換したものを、ただ鵜呑みにする理解です。後者は事実から一般法則を自分で導き出し、頭の中で言葉へ変換して得られた理解です。二つの理解は同じ「赤信号は渡ってはいけない」へ行き着きますが、それまでのプロセスや経験が全く違います。
 一般化されたものや情報化されたものを鵜呑みにするのが「受動的な理解」。自分自身で物事の一般法則を感じ取り、情報化しながら理解するのが「能動的な理解」です。前者は機械的な理解であるという意味で、ロボットにも可能です。後者はより複雑な理解なので、AIが超えるべき指標であり、その意味では人間らしい理解の仕方だと言えます。
 二つを「情報の鵜呑み」と「経験的な理解」と言い換えるならば、前者の理解方法は、情報の前提を問うことがないので、騙されやすい人間を作り出します。後者は経験を吟味するプロセスがあるので、騙されにくい。理解の仕方は学習方法の根幹ですが、ただの暗記や詰め込み式の学習法は「情報の鵜呑み」型であり「受動的な理解」のみを発達させる教育だと言えます。「経験的な理解」を育てる学習法は、鵜呑み型よりも複雑で手間がかかる教育システムが必要です。さらに管理する側からすれば、「鵜呑み型の人間」が多数であるほうが具合がいいはずです。
 人間が真の意味で、人間らしい能力を発揮するには「能動的な理解」を発達させる必要がある。これは明らかなことです。「経験的な理解」の蓄積によって、予想外の事態にも対応できる思考が形成されます。しかしこのような「能動的な理解」を発達させる環境が、日々失われてきているのが現状です。現代の理解はネットによる検索で済まされることが多くなっています。つまり誰かが一般化して文字情報にしたものを鵜呑みにする理解が多数を占めている。これらの理解が全体として社会を動かしている。社会は全体として一般化し、社会自体が新しい局面を乗り切る力を失いつつある。
 「情報の鵜呑み」に対する「経験的な理解」には「主体」が必要です。物事に対して「主体的に関わる」ことで、その経験が自分のものとなる。主体的な関わりがないものはすべて「受動的な理解」に留まります。この主体を育てなければ、結局はなにをやっても物事との積極的な関わりが生まれない。その「主体」とは「一般」や「標準」、「平均」といった概念の逆数にあたる観念です。「主体」とは一つであり、それ以外「他」ではないものです。学習や教育は「一般化した情報」や「共有すべき情報」を理解させるという目的があります。しかしその理解の根幹が「一般化できない主体」(個性)によってしか能動的になされないという逆説がある。その逆説をもう一度問い直し、新たに教育や学習の現場に組み込む時期に来ています。情報化社会の負の側面と共に、個性に即した学習や教育の在り方が、いま問われているのです。

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『現実と仮想』

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 現実に対する仮想とは、アナログに対するデジタルという比較です。アナログは物理的な現実であり、空間的、物質的で、しかも変化するものです。それに対するデジタルは仮想であり、非空間的、非物質的であり、その中は変化しません。変化しないということは、時間がないということでもあります。
 現実と仮想の最大の違いは「変化」があるかないか。さらに「時間」があるかないかです。例えばデジタルの花の映像は揺れ動く。変化や時間がそこにあると言う人がいるかもしれない。しかし映像の花は決して枯れない。物理的な変化がありません。あるのはコーディングされた動きだけです。よって前に戻ることができる。現実は過去へ戻ることが出来ません。変化が連続的に上書きされ続けるだけです。
 現実を情報化し、仮想で扱うと便利です。変化せず操作しやすく、非物質のために場所もいらず、複製や加工も簡単です。いまや社会はこの仮想における情報操作で成り立っています。しかし現実の世界は、仮想のように簡単に物事を進めることが出来ません。ここに現実と仮想の間の大きなズレがあります。もし仮想での認識を生きる基準とすれば、現実世界とのズレから問題が起こります。
 仕事やプライベートにおいて、いまは仮想に接する時間が、現実世界に接する時間を上回っています。そうすると、無変化で無時間的な脳のまま、現実を生きることになる。たとえば植物を育ててもなぜか枯らしてしまう、ということが起こります。変化に対応できない。三次元の変化を五感で把握できないからです。ディスプレイは二次元であり、どれだけリアルな画像であっても、ピクセルと座標認識のみです。そこに人間の複雑な感性の能力は必要ありません。
 水彩で絵を描くとき、水の中を絵具が広がっていき、意図しない美しいニジミが出来ます。現実の変化はあまりに複雑すぎて、完全に予想することはできない。ある程度の経験則で、理想の絵をかたち作っていく。それは物理的な変化を、五感で感じながら描くことで達成されるものです。それに対するデジタル絵画は、ニジミが出来るとしても、それはあらかじめコード化されたパターンの一つです。よって失敗すれば戻ることもできる。とても便利です。しかし、それは現実ではありません。それはシミュレーション(模倣訓練)なのです。
 コンピューターによる仕事は、どんなものであれ仮想の作業であり、その意味では全てコンピューターのシミュレーション(模倣訓練)と言えます。シミュレーションと現実を混同すると問題も起こってくる。シミュレーションの達人と実戦の達人の違いは、複雑に変化し続ける情報を、五感を統合する感性で高速処理できるか否かの違いです。この違いは絵を描くときであれ、飛行機の操縦であれ同じことです。現代はこの大きな違いを見失いつつあるのです。

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『自由という指標』

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 もし私たちがロボットだったとします。すると同じ条件下で同じ反応をみな示します。そうなるように条件づけられているからです。1人であれ、100人であれ、同じ行動にでる。これは機械の話です。
 では同じ反応を示さない存在とはなにか。それは生物でしょう。生物は個々で反応が違う。平均すると同じように見える振る舞いであっても、個々の振る舞いは違います。
 生物は個々で反応が違う。しかし、生物でもより原始的な生物は、個々の反応が似通ってきます。アメーバーのような単細胞生物と猿のような高等な動物では、個々の反応の豊かさがちがう。より原始的ほうが機械に近い反応を示します。
 高等な生物は、同じ条件下でも違った選択を示す。ここに自由のひとつの条件があります。アメーバーのように行動があらかじめ決められていたり、著しく制限されている状態は自由とは呼べません。しかし「なんでもあり」という状態もまた、自由ではありません。
 「なんでもあり」はなぜ自由ではないのか。それは「無限の選択可能」が「選択不可能」と同じ状態であるからです。たとえば、もし無限に「瞬間移動」ができれば、すぐに場所や位置、移動と言った概念自体が消滅するでしょう。よって「なんでもあり」は自由ではなく「無限への埋没」であり「選択肢の消滅」の危機なのです。
 もし、全てを自分の思い通りに行かせたいと思い、なんでも自己都合に合わせようとすれば、それは「なんでもあり」の世界へ一歩足を踏み入れたことになります。地位や暴力などを利用し、自己都合を通し続けると「無限への埋没」へと向かう。「なんでもあり」の行為は、自由ではなく消滅へ向かうのです。
  自由と無限を取り違えると「自由を求めることで消滅へ向かう」というパラドクスが発生します。この構造が出来るとなかなか外へ出られなくなる。権力者はこの構造に陥りやすい。消滅の危機はさらなる横暴な振る舞いを発生させ、被害は拡大していきます。
 「なんでもあり」は消滅へと向かう。自由と無限を混同すると、危機的なパラドクスが発生してしまう。それは、すべてがあらかじめ条件づけられた、自由のない(選べない)状態と同じことです。つまり選択の自由のない機械と同じ状態です。自由を「なんでもあり」と取り違えると、その存在は原始的になりやがては機械となる。
 真の自由とは、無限を回避するための「制限」を自ら選択するということです。「常に変化する状況」に適した「制限」を、自由に選択する。それが真の自由です。この「状況に適切な制限」のことを「倫理」(エチカ)と言います。「倫理」とは肩苦しい決まりではなく、自己の消滅を回避しながら自由を確保する、最も人間らしい指標なのです。

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『龍を退治する』

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 誰かの言いなり。これは自分の意思で行動せず、行動規範を他人からもらい、それにそってのみ行動する状態です。言われるがままに従う。外からみるとその人は操られている。しかし本人としては「自分で選んでいる」と思っている状態です。
 たとえば権力の言いなりになる。逆らうと怖いから従う。いやでも抵抗できない。しかし心のなかで、本当はいやで、この状態を何とかしたいと思っているとします。もしそうであるならば、その人は心まで言いなりになってはいない。もし心も折れてしまい、完全に諦めてしまえば、本当の意味での言いなりの状態と言えます。
 心で抵抗しているとき、そこにはその人の主体がある。自分を守っている。しかし完全に諦めた状態は、その人の主体が権力によって制圧されてしまっています。抵抗をやめるとそうなってしまう。そして服従することが普通の状態となる。
 実は服従することはラクなのです。抵抗という努力も、主体という責任も放棄してしまえばラクです。しかし本人はラクでも、外からみるとその状態は、何かに制圧された、見るに堪えない状態です。たとえばイジメられる人が、イジメられることを受け入れてしまった状態です。

 権力の言いなり状態は、究極のところ、自身の中にある「怖れ」に服従している状態です。西洋的なイメージを借りると、個々人の中に龍がいて、それを恐れている。それを自ら克服することで、人は自立へと向かう。これは神話学で有名なジョゼフ・キャンベルの指摘です。フロイトに精通していた彼は、このプロセスこそが精神的な病を治すプロセスそのものだといいます。
 西欧型の心理学の視点を借りると、権力への服従は、自己の中にある龍(怖れ)に服従してしまっているということ。そしてその状態に甘んじることで、ある種の「気楽な状態に留まっている」ということです。つまり自立以前の「幼児的な状態」へ固着している。「権力への服従」と「幼児性」、そして「精神的な病」は明確なつながりがあるのです。
 ヤル気が起こらず、根本的な諦めが自身を支配している時、そこには「権力への服従」がある。誰かの言いなりになっていて、そうなっている事すら意識に上らなくなっている。従っていればいい。しかしその状態は、自分の中にある龍(怖れ)から逃れるための言い訳です。龍と対決するにはそれなりの武器と知恵、そしてなにより勇気が必要です。それは世界中の神話やファンタジーの中に、象徴的に描かれています。
 自分自身を守れるのは自分だけです。もし自分が諦めれば世界は制圧されてしまう。龍と戦うためにはあらゆる作戦が必要です。自らが英雄となり、自己の中に潜む龍と戦わなければならない。ファンタジーという虚構に頼ることなく、真実の戦いのみが自らを解放する。その第一歩は、「権力への服従」を認識することであり、龍を発見することから始まるのです。

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『安定と不安定』

安定とは停止ではない。安定とは船が絶妙な舵取りで、不安定さを打ち消すことで維持された状態。それに対して停止は、舵取りを放棄して、不安定さに飲み込まれた状態。前者は努力を続けることによって、得られるものであり、後者はすべてを諦めた結末です。
 安定とはそもそも不安定の対立概念です。つまり不安定がないと安定もない。それに対して停止は、安定や不安定といった「揺れ動き」自体が止まってしまった状態です。動きが一切なく、生物でいえば死んだ状態です。
 海で魚が泳ぐ。安定して泳ぐには流れの方向に、もう一つ「別の方向」へ力を加えることで、自分が行きたい方向へ進む。海の流れは変わるので、そのつど加える力を変えながら泳ぐ。そうすることで安定が得られる。安定のために変化を続ける。ここには「安定の逆説」があります。

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 もし、変化を放棄すれば、流れにさらわれる。もしかするとその魚は、ラクで何の抵抗もない「安定」状態だと錯覚するかもしれません。しかしそれは狭い主観であり、外からみると死んだ物体のように、ただ流されているだけです。この「停止を安定と錯覚する」のは、諦めの境地という苦痛を覆い隠すための「痛み止め」のようなものです。
 安定とは「変化が維持できている」ということ。諦めて変化への努力を停止すると、不安定さの流れに飲まれてしまう。その事実が辛いので、停止を安定だと思うことで難を逃れる。このように自分を欺くことを「自己欺瞞」と言います。停止(諦め)を選ぶと「自己欺瞞」が必要になる。この「自己欺瞞」がさらに停止を強固にする。この出口のない迷宮から脱出するには、「変化を許容した安定」すなわち「安定の逆説」を作り出すことです。
 「安定の逆説」を利用したシステム。自己が変わることで安定した舵取りを続けること。時には失望もある。しかし生物が動きを止めた時点で死に至るように、人間の心もその動きを止めた瞬間から死に至る。停止を正当化すれば、すぐに自己欺瞞の迷路が出来る。精神はそのなかで健全に生きることができません。「変化による安定」という逆説。その逆噴射によってのみ、複雑化した迷路は、平面的な地図として消え去るでしょう。

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『無限の進化』

 変化とはなにか。それは以前の状態から別の状態へ移行すること。言い換えれば、前と今との間に「区切り」があること。さらには前には戻れないこと。つまり「戻れる領域内」は「無変化な領域」と言い換えてもいい。変化とはそういった「戻れる領域」から「戻れない領域」へと引っ越すことです。
 たとえば魚が進化して陸へと上がり哺乳類になる。哺乳類は魚へ戻れない。しかし前の状態を棄てることによって、そのデメリットをはるかに超えるメリットを得ることができる。変化できない魚は、いつまでも海のなかで過ごすことになります。
 魚にとってのデメリットは、水中で呼吸するために発達させた「エラ呼吸」の機能を失うことです。それは今まで自分の命を守ってくれた「絶対不可欠なもの」を棄てること。いわば自死を意味します。そこに変化することの「究極の怖さ」がある。それを超えたものだけが陸へと進化します。進化のメリットは、現在の魚と人間との違いにまで広がります。
 変化とはこれまでの状態を棄てること。その瞬間から「新しい形式」を採用すること。この変化は徐々にではなく、一瞬で変わります。同じ形式が長くつづき、ある瞬間からパッと変化する。捨てる時は一瞬で、徐々に捨てていくのではない。その意味で「待っていても何も起こらない」ということです。

無限の進化

 ヘルマン・ヘッセの『デミアン』という小説には、自分を長らく守っていた卵の殻を、自ら破って鳥が顔を出すというイメージが語られます。これは「死と再生」の象徴です。これまでの自分を自ら殺すことで、新しく生まれ変わる。このような「死と再生」のイメージは世界中の神話のモチーフでもあり、あらゆる進化、発展にとって普遍的なプロセスだと考えられます。
 このことから、過剰に現状維持に固執すれば、進化や発展を阻害することになります。実は現状維持を目的としたシステムは、必ず破堤するという逆説がある。新陳代謝できない人体はすぐに死に至る。考え方も硬直化し、すべてを拒めばすぐに精神的な病となります。現状維持への固執は、新しいものを取り入れて、古いものを棄てる、という変化のプロセスを阻害してしまうからです。
 人が現状維持に固執する時、そこにはいきいきとした変化への「諦め」があります。その「諦め」は失望の連続によってもたらされた「絶望感」です。それを哲学者のキルケゴールは「死に至る病」と呼びました。その「諦め」の原因は、自分を守ってきた「卵の殻への過剰依存」にあります。自分を助けてきたものが、ある時点から、自分の成長を妨げ苦しめるものになる。しかしそこから出られない。殻を自ら破り捨てる勇気が、絶望の世界に光を当て、「無限の進化」への可能性をもたらすのです。

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『比較できない価値』

 カボチャが二つあるとします。どちらが重いか。それは量りにのせれば比較できます。どちらが大きいか。これも物差しで測ればいい。数字にすれば比較可能です。ならばどちらが美味しいか。これは個人の主観に頼らざるをえないので、明確な基準はありません。世界には比較できるものと、出来ないものがあります。
 例えばケーキなら美味しいほうが売れる。どちらが美味しいかは主観で変わる。しかし評判で間接的に測ることが出来る。でも評判が外れることもある。これは自分の主観が評判とずれているときです。世間とずれていても美味しくないものは美味しくない。それが主観です。
 ケーキの味を主観で比較することは可能です。ではカボチャとケーキの味の比較はどうか。そもそも種類が違うものを比較できるのかどうか。別種のものを比較するには共通の物差しが必要です。しかしなにもかも量化して数字にできるわけではありません。そこで値段をつけることで、比較できなものを比較してしまうことになる。

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 値段がついているものは、種類が違っていても比較が可能となっています。つまり高いほうが高価である、ということです。しかし、実際の内容と値段が正確に伴っていることは、そう多くはありません。適当に値段をつけられているものだってあります。確かなことは、値段によって金額が決まっているということだけです。
 ものの値段が本質的な価値を表していないとするならば、その価値を知るには「自分で判断する」しかありません。これまでの経験や知識、さらには感性や直観なども総合して、本質的な価値を判断します。そうすることで値段ほどのものではない、と見切ることもできる。もしそのような「自分の判断」がなければ、値段に従うしかありません。
 自分で判断する力がなければ、必然的にお金による判断に頼るしかありません。あるいは世間の評判に頼るしかない。値段、ブランド、モード、世間の評判、これらに従うのは、自分で判断する力がないからでしょう。つまり「比較できない価値」を認識できない。なぜなら、「自分」(自我)という「比較できない価値」を見失っているからです。「自分」が他人と比較できない存在であることを、実感していれば、自分の感性は発動し、「比較できない価値」を自分で判断できるようになるのです。

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『自我という機能』

 「人間は生物である」。その意味では、アメーバーなどの単細胞生物と変わりません。「人間は動物である」。その意味では、犬や猫と変わらない。「人間は高度な知能をもった動物である」。程度差はあれど、その意味で人間は、サルやチンパンジーと変わらない存在です。「人間は自我を持った存在である」。これは今もって並ぶものがありません。
 人は自我を持つがゆえに、他の動物との違いが明確になる。この自我とは何か。簡単に言えば「自分が『自分』と思っているもの」でしょう。言い換えると、「他と自分を“区別”している機能」、とでも言えばよいでしょうか。よって「みんなと一緒」になろうとすると、自我は喪失へと向かいます。
 もし「みんなと一緒」へ向かうことが、自我喪失の原因だとすると、それは「自我をもたない動物へ降格する」ことではないか。こう言うと、「人は社会的な動物なので“みんなと一緒”でなければ人間ではない」という人もいるかもしれません。しかし群れになる動物は「みんなと一緒」ですが、自我は持ち合わせていません。かれらは「本能」によって群れを成しているだけです。
 人間が集まって、「みんなと一緒」という気持ちになった時、自我はなくなります。硬い言い方をすると「責任」がなくなる。だから集まりたいと無意識で思っている人もいるでしょう。つまりここに「集団になると自我は消滅する」という定理が現れます。多数への帰属意識は、自我からの逃走である、というわけです。

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 集団になることで自我を失う。それが「群れ化した動物たち」であるとするならば、多数への帰属意識に支配された集団は「羊の群れ」なのかもしれません。そして多数決の原理である「民主主義」の社会も、「羊の群れ」の社会であるかもしれない。「民主主義」を推し進めることで、人々は自我を喪失し「羊の群れ」となる。これが「民主主義」の矛盾であり限界にある問題です。
 もし人々に「集団になれない状態」が発生すれば、個々の自我は守られます。つまり「羊の群れ」にはなれない。言い換えると責任は自分で背負うしかない。これまで「羊の群れ」で安心してきた人々にとっては、幾分か辛い状況かもしれません。しかし「自我喪失の病」と「集団への帰属」の関係を考えたとき、その「安心」こそが病理の入り口であることを、理解する必要があります。
 私たちが良かれと思い進めてきた「民主主義」が、逆に人々を「羊の群れ」に退化させてしまう。どのようなシステムであれ、時と共に形骸化していきます。自我という高度な機能を持った人間が、その機能を退化させるような「多数への帰属意識」をどう回避していくのか。これから必要となる社会の形態は、「民主主義」と「集団心理」を揚棄した場所に構築されるのです。

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『名前と虚構』

 これはリンゴである。川である。或いは人間である。ものには名前が付けられています。そうでなければ他人と共通に会話が出来ません。しかし、目の前にある「赤くて丸い物体」は「リンゴ」などというものではなく、「見たまま」の物質です。あるいは「あるがまま」の存在と言ってもよいでしょう。
 人によって「見え方」は違います。微妙な赤をオレンジと感じる人もいる。形にしても人それぞれ印象が違います。つまり、それぞれが感じている「まるくて赤い物体」に便宜的に「リンゴ」と名付けて、会話が成立するようにしている。名前がなければ、みなバラバラで、会話が成立しません。

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 ここで妙なことに気づきます。みなそれぞれに「見え方」が違うのなら、それらを「共通に認識する基準」をどのように発見たのかということです。もし「見え方」がバラバラなら、共通項を抜き出すことは不可能です。しかし「リンゴ」にはリンゴに共通する“何か”がある。だからみなリンゴを思い浮かべることができる。
 みなそれぞれに認識しているリンゴは別々のリンゴです。会話でリンゴの話しをしていても、まったく同じリンゴのイメージを持つことはあり得ないでしょう。しかしリンゴの「リンゴたる所以」は、みな同じイメージとして持っている。つまりリンゴの「定義」をイメージとして理解しているということです。

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 このイメージによる「定義」さえ共通であれば、あとは少し欠けたリンゴであろうが、赤くないリンゴであろうが、共通に会話が成り立ちます。この定義は言葉による定義ではありません。むしろ言葉に出来ない定義であるからこそ、無限の差異を統一できる。ここに「言語の終焉」というテーマも発生してきます。
 「言語の終焉」の話しは別の機会に譲るとして、リンゴの共通項であるイメージ定義を、紀元前にすでに発見した人がいます。古代ギリシャの哲学者プラトンです。彼が発見した概念で一番有名な「イデア」がそれにあたります。プラトンはイヌならイヌの、シカならシカの、イスならイスのイデアがあると言います。それぞれの違いを超えて共通にあるもの。そのイデアは言語的な差異ではなく「直観されるもの」です。
 丸くて赤い果物に「リンゴ」と名付けたときから、人々は目の前の「あるがまま」を見なくなる。個別的な差異は見なくなります。そうして私たちは、「言葉だけの世界」に入り込み、そこから出られなくなる。名前とは本来イデアに付けられたものであり、本物は一つとして同じものはありません。しかし言葉に支配されると、名前が実質となる。このような形骸化が「人を虚構に住まわせる」のです。

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