『サウンド・オブ・メタル』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
【ストーリー】

ドラマーのルーベンはヴォーカリストのルーとバンドを組んでいる。二人は恋人同士でありトレーラー暮らしでツアーを回っている。ある日ルーベンに聴覚障害が現れ、爆音環境であるバンド活動が障害を進行させるというパラドクスに陥る。バンド維持を切望するもルーの説得により、聴覚障害者の支援施設へ向かう。そこでルーは手話と聴覚障害者の基本的な生活スタイルを学んでいく。そしてある日、手術を受け以前の聴覚を復活させようと試みる。

【ノイズと静寂】

依存関係にある二人は音楽(メタル)によって自己を表現している。お互いに過去に傷があり、バンド活動によって内的葛藤のバランスを取っている。しかしルーベンの聴覚障害によりその構造が崩れてしまう。それまでノイズを生み、ノイズを浴びることが自己逃避にもなっていた彼にとって、バンド活動の停止は人生の停止に等しい。しかし世界で唯一信頼できるルーの説得により、バンドの休止を受け入れ施設へ入る。そこで手話という静寂のコミュニケーションを獲得していく。これはノイズによるコミュニケーションの真逆であり、そこに全体性の回復が暗示されている。その獲得には内的にも真逆の価値観を要求されることになる。手話と聴覚障害者の生活スタイルを徐々に受け入れていくことで、ルーベンは内面的にも変化していく。ノイズがノイズとなり静寂が静寂となる。ルーベンは覚悟を決めルーと再びバンドを再開しようと動きだす。そして本来の自分たちの姿で対面することになる。本来の自分とはなにか。自己表現と自己実現とは。そして「聞こえるということはどういうことなのか」をリアルに体感させられる稀有な作品。

AUTOPOIESIS 107/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『光と影』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 絵を描く。最初はまっ白い紙から始まります。つまり綺麗な「白の領域」を汚すことでしか、そこに新しい世界は生まれない。これはだれでも知っています。絵はつねに純度100%を破壊しながら描き進める。ある意味で矛盾そのものです。創造行為は矛盾である。いや矛盾を超えるからこそ創造である。
 まずは白い紙に線を引く。すると形が現れる。丸、三角、四角、線によって構造を描くことができる。立体だって線で表せます。透視図法で奥行のある空間も描ける。この線はとても重要で、描かれたものを見ると、だれでも三角形の構造がわかる。これは線だけの構造だからであって、もし赤いリンゴだと同じ赤を見ているかどうか分からない。オレンジに見える人もいるでしょう。
 線によって表された三角形は三つの角がある。誰もが同じ認識にいたる。これは凄いことです。そこへ今度は影を付ける。すると立体構造はさらに重みと存在感が増す。これは白い紙を汚していくことで世界が現れることと似ています。加えることで増していくものがある。
 何もないところに線や影を加えると存在感が増す。構造(線)に影を付けることで、光と影が表れる。つまり影によって光が表現される。二つは相対的な関係にある。よって影をなくしていけば光も無くなる。これは重力を排除すれば歩いている感触が乏しくなる原理と同じです。
 寒さによって暖かさが支えられている。あるいは空腹だからこそ食事に満足を覚える。すべては背反する概念に支えられたものです。逆の概念が不足すると、逆もまた不足するとう原理がある。絵に描いた影が小さければ、光も小さくしか感じない。この究極は生と死の関係かもしれません。
 絵を描く時には、だれでも無意識に反対概念のバランスをとっています。むしろ反対概念は無意識でやったほうがうまくいく。光を表現するときは、無意識で影のバランスを取っている。カラフルにしたい時はモノクロームとのバランスを取っている。もし光を表現したいからと影をどんどん排除していくと、光もなくなってしまう。悲しいことですが、逆のものでしか支えられないのです。
 光を表現するには影が必要です。影を許容できて初めて光が表現できる。これは「光」という言葉上の意味からすれば矛盾かもしれない。しかし真実は両極を統合する場所にしかありません。言葉に支配されると現実からずれていく。その点で絵は健全な世界です。
 影の部分にはなにもないのか。影の部分には存在の暗示があります。つまり影にはメタファーがある。色彩を使う絵であれば、影の部分に色面が入り、そこが鮮やかなメタファーとなる。秘すれば花。多くの物語が故郷の出発から始まるように、白い領域から物語をスタートさせる。新し構造と影、色彩を許容することによって、自分の物語が作り出される。白との別れ。その郷愁に見合う世界を、創造によって作り出していくのです。

AUTOPOIESIS 106/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『情報の流れを泳ぐ』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 現代は情報化社会。ウェブで何でも検索できる。つまり自分で考えなくても誰かが整理して教えてくれる。さらにツイッターなど目的以外の情報がどんどん差し込まれてくる。よって知らぬ間に大量の情報を目から入力していることにもなる。あまりに情報が多くなると、選択することが難しくなる。自分の中にある基準も曖昧になる。
 自分という基準が薄れると選択が難しくなる。逆にいえば、選択が難しい状況が続くと自分というものが見失われやすい。現代のような情報の氾濫状態では、情報の濁流にのまれやすく自分を見失いやすい。
 自分で選択して決定する。それは情報の洪水にのまれ、流されるのではなく、その中を目的をもって泳ぐということである。そのためには泳ぎ方を訓練する必要もあるし、またそもそもの目的を見出す感性が大事になってくる。
 情報の濁流に流されずに、その上を目的に向かって泳ぐ。目的は泳いで向かう目的地であり前提である。こればかりは、自分の心を出発点として発見しなければならない。だから感性が必要である。これに対して泳ぎ方とは理性にあたるものである。情報の流れをかき分けて取捨選択する。つまりどれを取りどれを捨てるかという分析である。
 捨てるものと拾うものを間違えると、目的地にはたどり着かない。そもそも目的地を持つことは、重い腰を上げての挑戦である。もしここで失敗を恐れると、挑戦を恐れて、それに繋がる情報の取捨選択も放棄するようになる。つまり流されるままになる。そうして自分を見出せなくなる。
 情報の氾濫は、選択の放棄を招きやすい。そこに挑戦や好奇心を良しとされてこなかった人が、つまり結果を恐れる人が接すると、完全に流されてしまう。これは情報を完全に鵜呑みにするような教育の在り方にも原因があるかもしれない。情報の洪水をいかに泳ぐか。これは感性と理性の問題である。両方が上手く連動して初めて、上手く泳げるようになるのではないだろうか。

AUTOPOIESIS 105/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『破壊と再生のシステム』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 再生とは破壊の後にやってくる。何かが創造されるときはいつだって混沌から秩序へというプロセスがある。最初から何かが出来上がっているということはない。宇宙の起源も爆発から長い時間をかけて物質化のプロセスが続いている。神話の世界でも混沌から天と地が分かれて秩序が形成される。
 そもそも生物が生きるということが、このプロセスを体現している。生命には死がある。しかし生命は生き続けている。むしろこの矛盾のシステムを上手く利用することで、全体的な崩壊を回避しているのだといえる。物理学で言えばエントロピーの回避。思想的な言葉でいえば輪廻転生。
 より身近な物事でも、飽和状態というものがある。これ以上なにをやっても変化がない状態。コーヒーに砂糖を入れ続けても最後は溶けなくなる。このように飽和に達した状態は混沌と同じことである。そうなればすべてを破壊するしか再秩序化の道はない。
 ヘルマン・ヘッセは『デミアン』で、卵の殻を割って中から鳥が出てくる比喩を描いている。それまで自分を守っていた殻の内部は飽和に達し、外へ出なければ生きられなくなる。つまりこれまでの世界を破壊することで、新しい生を獲得して生きる。これは「破壊と再生のシステム」である。
 破壊と再生は「パラドクスのシステム」である。破壊とは一見すべての終わりを意味する。しかし破壊が新しい世界の暗示となっている。物事を表面的にしか理解しないのなら、破壊から新しい世界は見えてこない。よって「破壊と再生のシステム」は、科学的な思考を超えた詩的な領域にある。芸術的なシステムといってもいい。
 破壊と再生の間は連続していない。断絶である。よってそこには飛翔がある。連続したものの考え方をしているかぎり、飽和状態を切り抜けることはできない。つまり生まれ変わることはできない。根本的な崩壊を回避し、飽和という避けがたい原理を乗り越えるためには「破壊と再生のシステム」を許容しなければならない。世界の終わりこそが始まりであり、それを繰り返すことが健全なシステムなのである。

AUTOPOIESIS 104/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『やる気がでないとき』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 やる気が出ない。そんな時は何をやっても手につかない。心も弾まないのでつまらない。つまらないからさらにやる気がでない。このような状態になるとなかなか出口がみえない。そもそもやる気とは何なのか。やる気とは未来に関わることであり、今現在のことだけで構成されているものではない。未来ゆえに不確定な要素がまじっていて、そこが前向きに感じられることで初めてやる気もわいてくる。
 未来の不確定性を前向きに感ずることができるかどうか。ことばにすればややこしい。しかし映画をみたり、推理小説をよんだりするときは、先が知りたい、分からないから興味がわく、どんどんのめり込む。それは未来に対する期待が、知りたいという前向きな気持ちに繋がっている。つまり「未来への興味」が不確定性を前向きに感じる基盤だといえる。
 「未来への興味」がまだ分からない事を、前向きに感じさせる。もし未来にたいして興味がもてなかったら、むしろ恐れが先行して身構えてしまうことにもなる。本来の意味での未来とは、今現在とは全く違う世界を意味している。もし本当に現在の延長が未来であるならば、それは現在でしかない。未来とは現在と常に断絶して繋がっていない場所のことを言う。だからこそ興味もわくのである。未来を現在化すれば興味はわかない。
 これは時間の問題でもある。やる気の話しが時間と関わるなんて面倒だ。しかし関わっているのだから仕方がない。私たちは科学を前提とした決定論で物事を考える。ああすればこうなる。原因と結果をつなげて、結果のために原因を作り出そうとする。それは未来を現在化することである。すべては想定内の世界になる。つまりそこには「どうなるか分からない」という未来がない。そういった不確定なものは困る。把握できないものは怖い。
 物事を原因と結果で考えると、未来は現在化され興味がわかなくなる。不確定性を前向きに感じることがなくなる。すべては自分が考える因果の内側になる。安心だがやる気は出ない。このような因果の中からすると、やる気は「どうなるか分からない」という不確定な「恐れの領域」にしかないことになる。つまりやる気が出ないのではなく、やる気が出る場所を避けているのである。
 よくわからない所へ出るのは怖い。そこでなにかをするのは心配である。しかしそんな時に誰かが観ていてくれたら安心する。一緒にやってくれる人がいればそれも良い。「どうなるかわからない」というものは誰しも怖い側面がある。もちろん「先が知りたい」という興味はそんな怖さに裏打ちされたアンビバレントな興味でもある。ちょっとした矛盾のなかに楽しさや面白さがある。怖いという自分を見ていてあげる、もう一人の自分があらわれたら、未来は興味深いものになってくる。相反する自分が助け合うことで、矛盾を統合した未来の楽しさが見えてくる。やる気はそういった場所に芽生えるのである。

AUTOPOIESIS 103/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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