『パンドラの箱』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Kogaイラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga

 ギリシャ神話には「パンドラの箱」という有名な話があります。ゼウスに決して開けてはならぬと言われた箱を開けてしまい、中からあらゆる災い(災害や戦争、嫉妬や暴力など)が噴出し地上に蔓延してしまう。しかし最後に「希望」だけがかろうじて箱に残ったという話しです。この結末を前向きに解釈すれば、どんなに世界に悪がはびころうとも「希望」さえ持ち続ければ、それらに対抗しうるというメッセージとも受け取れます。
 そもそもパンドラの箱の中には、たくさんの悪と一緒に「希望」もごちゃまぜに入っていたことになります。この状況は善悪の区別がない未分化な状態であり、心理学的にいえば「自他未分化」で「全能感に満たされた状態」を意味します。つまりこの世に生まれる以前の、母体の中にいる胎児の状態です。なのでパンドラの箱を母体を示すものとみることができます。
 人は外へ生まれ出る前の「全能感に満たされら状態」から、外へ生まれ出ることでこの世に誕生する。全能感の状態から、思い通りにいかない世界に引き出され泣くことになる。パンドラの箱から出た世界には、あらゆる障害物があらわれる。それがこの世に誕生するということ(障害物を越える喜びも同時に発生する)。そういった現実に対し「希望」を持ち続けることで、はじめて全能感と引き換えにできる世界を手にすることができるのです。

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古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』
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『現実逃避の処方箋』

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 一般に現実逃避という言葉にはマイナスのイメージがあります。しかし適量であればまったく問題はありません。映画も音楽も、お酒もある意味では非日常であり現実逃避です。しかしアルコールによる逃避が日常化し、現実に悪い影響を与えはじめると問題となります。あるいは、ある友人たちが現実逃避を共有する仲間だったとして、その人間関係が日常に食い込んできたときに問題が発生してくる。例えばその人たちと一緒に仕事をしだすとか、その人たちの意見で大事なことを決定するなど。これはアルコール依存で現実が侵食されることと同じ現象です。しかしそういった現象を外から正そうとしても、逃避を邪魔することになるので反発をまねいてしまう。
 非日常が日常へ流入したときに問題がおこる。つまり逃避が現実を食ったときに病理(パラドクス)がうまれる。アルコールの作用が日常を歪ませ、逃避仲間が生活に影響を及ぼし、推し活が人生と入れ替わる。これらは全て日常と非日常の区別が消えてしまうことで「非現実による現実への流入」を許している現象です。二つの間にあるダム(壁)が決壊して妄想系が現実に流入している。あまりに逃避傾向が強いと逃避量がダムを超えてしまう。そうなると現実を正しく認識し、そこに幸福を作り出す(他者と上手くやっていく)ことができなくなります。
 では逃避と幸福はどこがちがうのでしょうか。逃避はあくまでも非現実(現実逃避は不可能なものへの逃走)であり現実には成立しません。しかし幸福は現実にしか成立しないものです。ゆえに現実逃避を続ける間は現実的な幸福がありえません。アルコールに溺れ、逃避仲間との絆を最優先し、推し活に全てをつぎこむ間は(そうするしかない時期もあるとして)“本当の幸福”はやってこない。つまりイミテーションで手一杯のうちは本物を手にできない。そうならないためには、日常と非日常、現実と逃避の区別(ライン)をハッキリさせることが大切です。さらに現実逃避を適量にし、残りは健全なものへと変えていく。その移行先として最適なものの一つが「現実に非現実を創り出す」芸術活動なのです。

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『幸運な一致』

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 物事にはルールがある。例えばスポーツならテニスやバスケットにはそれぞれのルールがある。ルールは守るべきものなので制限ということもできます。なのでテニスが好きとかバスケットが得意とかいった好みは、受け入れるべき制限が自分の性質に合っているということです。これは芸術でも同じく、絵画や音楽、詩や彫刻といったシャンルは受け入れる制限の違いであり、どれが好きかはルールが自分に合っているかどうかで決まります。
 ルールや制限により出来上がるのが仕組みであり構造です。たとえば面白いゲームや良質な組織、美しい建築には良い構造がある。この構造とそれに関わるひとの性質の相性がよければ、そのジャルで才能が発揮されることになります。上手くいかない場合は、選んでいる構造が自分に合っていない可能性がある。どちらにしろ制限の受け入れは「自己制御」や「自己抑制」を強いるので、それらの力が弱いと制限の受け入れが難しくなり、構造を逆利用して力を発揮することが難しくなります。
 構造とそこに関わる人の性質との間に「幸運な一致」があったとき、素晴らしい現象が起こります。人の才能は開花し、またそのジャンルの魅力が引き立ちます。これは構造や制限が良いからというだけでも、個性が優れているからというだけでもなく、二つが「幸運な一致」をみているからこそ起こる現象です。なのでどのジャンルが人気があるとか、他人が上手くいっているから自分も同じ構造でやろう、といった一般論では上手くいかない。「自分の性質に合った構造」を自ら探すことでしか「幸運な一致」は生まれません。そしてそのためには「本当の自分」(あるがままの自分)をよく知っておく必要がるのです。

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【決定論について】

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 樹の枝からリンゴがぽとりと落ちる。万有引力というものがあるので、枝から切り離せばリンゴは必ず地面に落下します。落下の原因は枝から切り離したことであり、原因と結果が連続してつながっている。この原因と結果を因果的につなげる考え方を因果論と言います。過去(原因)と未来(結果)を結びつけ決定してしまうので決定論ともいいます。決定することでそれを逆算して、結果のために原因を操作的に作り出す。このおかげでロケットは月まで行くし、同じ機械は同じ機能を発揮できます。
 しかし、例えばある人がAという学校を卒業して幸福になったとして、それを見たひとがAを卒業することが幸福になる方法だと、因果的に繋げて決定するとおかしなことになります。人が違えば同じことをしても結果は違ってくる。実際は「結果があるときだけ原因を特定できる」だけで、二つを結びつけて逆算などできなません。しかしこういった決定論が社会に蔓延してもう長い月日が経っています。
 さらにこの決定論的な考え方は、人々のやる気や好奇心も減退させます。未来(結果)を先に知ってから始めないと不安というのは、因果論や決定論に支配されている証拠です。しかし推理小説が示すように結末を知ってしまうと好奇心を維持するのは難しい。ネット時代はなんでも簡単に結果(答え)を知ることができるので、決定論的な世界観に入りやすい。決定論とは実は出口のないなパラドックスの構造で、その中に入ると決定した世界から出られなくなってしまう。絵の描き方から人生の歩み方まで「ああすればこうなる」式の決定論を捨てたときから、本当の意味での未来の豊かさが現れてくるのです。

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『アリストテレスの定義』

イラスト こがやすのり Yasunori Koga

 古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉に「生命は動きにやどる」というものがります。言い換えると「動きによって維持される」のが生命とう存在です。栄養の摂取から新陳代謝に至るまで、生きる基本的な行いはすべて動きによってなされます。当然ながら動きが完全にとまってしまうと生命は尽きたことになります。これは物理的な身体だけでなく、精神面も実は同じです。いろんな知識を得たり、それを咀嚼して自分のものにするといった思考の運動が止まると精神も尽きてしまう。
 動きによって生命が維持され、その営みが止まると命は尽きてしまう。これは別の角度から見ると「最後に尽きてしまうもの」が生命、ということもできます。花はやがて枯れるから生命である。パソコンやスマホの中の花は枯れません。花が枯れる映像はありますが、その映像情報は固定したまま壊れません。つまりデジタルの世界は動いているようで動いていない。なのでアリストテレスの生命の定義を満たしていません。この反生命に依存した情報化社会は、便利な反面人々をアリストテレスの定義外へと追いやりはじめました。枯れることを恐れ、動くことや考えることも敬遠しがちになっている。
 このような社会批判のような視点がもはや無意味と思えるほど、社会はどうすることもできないほど画一的にデジタル依存へ向かっています。そしてその傾向は「動き」を抑制していく。反省や修正を含む「変化」をかたくなに拒むことで発生する問題はあらゆる所で噴出しています。しかし飽和した状況を打開するには「進化」しかなく、それは「変化」という動きなしには生まれません。必ず大きな変化が必要になる時がやってくる。そのカタストロフィにアジャストできるのは、日頃から「変化」に寛容な柔軟性のある生命だけです。変化する自己だけが、化石化をのがれアリストテレスの定義を満たし続けるのです。

AUTOPOIESIS 236/ illustration and text by : Yasunori Koga
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