『蝶になる方法』

イラスト こがやすのり

 蝶になるにはサナギの時間が必要である。自然にサナギの殻が破れるまで、殻の中で新しい組み替えを繰り返す。しかし自然にサナギの殻を破り、外へ出て行くタイミングを逃すと問題が発生します。外へ出るのが怖くなり、永遠と殻に閉じこもることになる。サナギの殻に閉じこもることの重要性は「適切な期間」に限られます。それを過ぎれば無意味どころか大きな害がある。
 通常は自然にサナギの殻を破るタイミングはやってきます。それが自然の摂理です。しかしサナギの殻が自分自身で作った殻ではなく、周囲によって人工的に作られた殻だとすれば外へ出るための「自然なタイミング」はやってこない。例えば周囲から押し付けられて出来たような殻には「自然に破れる」ということがありません。よって中にいる者はその構造に永遠と依存することになる。
 サナギの殻は芋虫のレベルで栄養摂取を続けた結果として、必然的に出来たものでなければならない。つまり自分の努力で作り出した殻だからこそ、自分に必要な組み替えと、殻を破る「自然なタイミング」が直感的に把握される。他人が人工的に作った殻には「自然なタイミング」がなく、ゆえに個体を内部で弱らせてしまう。芋虫が蝶になるためには、自分自身で作り出したサナギを、適切なタイミングで自ら破るという逆説が必要となる。そのことがイニシエーションの役割をはたし「芋虫と蝶」という不連続な谷間を飛翔させる力となるのです。

AUTOPOIESIS 204/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『サナギの殻』

イラスト こがやすのり

 蝶になる前は必ずサナギになる。サナギの状態を拒めば芋虫は蝶になれない。芋虫という栄養摂取に特化した形から、空を飛ぶ複雑な蝶の形へと変わるには、形の「抜本的な改造」が必要です。そのためにあらゆるものを犠牲にして、固い殻を作ってそのなかで形を組み替える。このエネルギーを得るために芋虫は栄誉摂取を行なっていたことになります。
 芋虫の世界からすると、全く動かないサナギは批判に値する振る舞いでしょう。よってサナギを批判し、中にいるものを外に出そうと考える。芋虫にとってはそれが正しいことです。しかし物事は次のプロセスへ進むと、以前の価値観が全く通用しない世界観になっているものです。よってまだ形が定まらないときに、サナギの殻を破ると大変なことになります。出来上がるまでは何があってもサナギの殻を割ってはならない。
 人間もサナギの状態が必要な時があります。それは現在とまったく別の次元へと成長する時です。抜本的な変化の時には、サナギのプロセスが必要になる。そこは今までの価値観を遮断した「守られた空間」であり、組み替えが終わるまでのシェルターとなる場所です。この中にいる間は「引きこもらずに外へ出ろ」という言葉は聞いてはならない。我慢できずに連れ戻されればまた芋虫の世界が続く。蝶になるにはサナギの状態を受け入れ、自然に殻が破れるまで、多様な組み替えを繰り返す必要があるのです。

AUTOPOIESIS 203/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『グリーンアイデンティティ』

イラスト こがやすのり

 グリーンアイデンティティとは、私が10年前につくった造語で「変化する自己」というような意味合いです。ふつう自己とは確固としたものとして変わらずあると思われています。しかし自己の中は活発に動いていないと安定しない。波の影響を受ける船は、常に舵取りをしなければ安定して進むことができません。不確定要素の高い現実世界では、つねに自己を変化させることで初めて安定が得られます。
 もし「私とはこういうものだ」という決めつけに支配されると、自己は固定され動かなくなります。特に自己防衛の気持ちが強いとそうなりやすい。すると逆に外部からの影響をもろに受けることになり、自己は不安定になっていく。つまり「心の柔軟性」を欠いた状態です。この「自己の固定化」は「自己の情報化」でもあり、まさに現代人の問題でもあります。
 このような心の病の予防として、また物事を創造的に行うために、グリーンアイデンティティという指標を考えました。この理論自体は、熱力学のエントロピーやオートポイエーシス、その他の哲学の概念を組み合わせて作っています。この考え方を基にしていろんなことを実践していく。私がやっている絵の教室などもグリーンアイデンティティが阻害されない形で行っています。自己を固定せずに豊かに変化させることで、本当の意味での「流されない自分らしさ」が維持されるのです。

AUTOPOIESIS 202/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『意味のない比較』

イラスト こがやすのり

 物事は比較によって立ち現れる。たとえばグリーンという色はグリーンだけでは認識できず、他の色との比較で立ち現れます。つまり「関係」によってはじめて認識されるということです。色だけではなく、すべての物事はこのような比較による「関係」によってしか認識することができません。しかしただ単純に比較するだけでは正しい認識に至らないものもあります。
 例えば道行く人を比較してみる。みんな「歩く」という行為は同じです。しかし見たままの単純比較から、個々の「意味的な比較」に切り替えると全く違った結果が得られます。ある人は事故で歩けなくなり、リハビリの末に歩けるようになったかもしれない。するとその人は歩けるだけで幸福感を味わっている。しかし別の人からすれば当たり前の行動にすぎない、というになります。
 物事の意味は文脈によって決まります。よってある部分だけを切り取って単純に比較することはできない。別の言い方をすると「数量化できないもの」は単純比較ができないということです。よって個々の生き方にはそれぞれの物語があり、部分的な単純比較で何かを結論づけることは、はまさに「意味がない」(意味が消え去る)のです。逆にいえば「単純比較」という物質主義の視点を退けることで、個々人の物語(自分にとっての意味)は復活するのです。

AUTOPOIESIS 201/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『無秩序から秩序へ』

イラスト こがやすのり

 宇宙はビックバンより始まった、ということになっています。これは一般的にもよく知らた物理学の話です。この爆発は連続して何度も起こり、ついでインフレーションが起こる。その後は最初の元素である水素やヘリウムが10万年かけて作り出される。次いで100億年後には惑星ができ、そのあと50億年すると生命が誕生する。つまりビックバンというカオスから宇宙が始まり、段々と秩序が形成され地球や生命も誕生した。
 宇宙も地球も生命もみな無秩序から生まれた。そして無秩序から秩序を作り出すプロセスが生命現象だということです。つまり最初から秩序や型があるわけではなく、無秩序から苦労して作り出された。生命とはその意味で「無秩序から秩序を作り出す力」を持つものと定義できます。
 この生命の定義を創作活動に当てはめてみると、無秩序から秩序をつくり出せる作り手を「生きた作り手」と言うことができます。たとえば無意識から新しアイデアを意識化したり、抽象状態から新しいイメージを直感したりする能力が、少なからずあるということです。これは形式や型を出発点にしなければ作り出せないこととは根本的に違います。この「生きた制作」を別の言葉に還元すると「創造」ということになります。カオスに翻弄されることなく「無秩序から秩序を作り出す力」こそが、物理的、あるいは精神的(芸術的)な生命活動にかかせない能力なのです。

AUTOPOIESIS 200/ illustration and text by : Yasunori Koga
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