『引きこもりの原因』

古賀ヤスノリ アクリル画

 内閣府が発表した引きこもり者数は、若者と中高年を合わせて110万人。すでにカウント漏れの話しもあるので、予備群を合わせると200万人いるのではなかと推測されます。一般に「引きこもり」とは「社会不適合者」と考えられています。しかしその数が100万人を超えたとなれば、「人々が社会のあり方にNGを突きつけ始めた」と考えてよいと思います。社会を舵取りする側としては、この引きこもり者数を「社会不適合者」とみなす発想は捨てて、社会の腐敗度(質的劣化)を、正確に把握し分析する必要に迫られていると考えるべきです。
 そうはいっても、社会適応者のほうが多数であり、引きこもりは少数。社会を少数の者たちに合わせるわけにはいかない、という発想もあるでしょう。しかし今の社会を放っておくと、さらに引きこもりの数は増えて、最後には数が逆転してしまいます。そうでなくとも、少数者に社会を合わせることがおかしいと考えること自体が矛盾をはらんでいます。なぜなら現在の資本主義経済社会は、ごく少数の巨大資本家のために世界中の人々が苦しみながら働いているという構造なのですから。
 リンゴ箱にリンゴが詰まっているとします。その箱を密閉して放置する。そうすると中は暗く風通しもわるくなる。そのうちリンゴの一部にカビが生えてきます。一部だからと無視していると最後は全体にカビが蔓延する。何故カビが発生するかといえば、リンゴ箱の環境が悪いからです。構造が閉鎖的で外と内の循環がない。この箱内の環境をクリーンに保つことでカビの発生は防がれる。カビの発生をカビのせいにしても問題は解決しません。少なくともそう考える人はリンゴの生産者にはなれません。
 カビを例に環境の劣化を表現しましたが、引きこもりをカビなどとは思っていません。むしろ引きこもりを発生させる環境を作ってしまう「原因」(舵取りのまずさ)がカビだと考えられます。こういった「閉鎖構造内が腐敗する現象」は社会だけでなく、より小さな家庭などにも見られます。一つの家庭の構造(考え)が閉じて、その中の環境が悪化したとき、家族のだれかが引きこもり(あるいは正常でない状態)になる。その数が全体として110万という数字として出る。しかし家族だけが問題ではなく、やはりその家族は社会との関係で構造を閉じることになっている。むしろ家庭が社会と関係をもちながらも独立している家庭のほうが、引きこもりは発生しにくいと考えられます。平たく言えば「世間従属型の家庭」のほうが、引きこもりが発生しやすい。
 何かに従属した家庭(社会)には、適切な舵取りというものがありません。ただ従うだけです。個々人よりも大きなものに従うだけです。そのうちに個人に異変が起こる。しかし大きなものに従うことを辞めることはできない。というよりは、従ているという自覚すら消えている。だからこそ、問題が起きれば個人の問題だとしか考えられない。例えば子供が引きこもりになって、親が自分が悪いんだと考えることも、個人の問題にしているので解決が難しい。この問題は環境問題であり、従属の問題です。世間に従う、科学に従う、宗教に従う、あるいは組織やグループに従う。それ自体は個人の自由なのですが、「適切な距離」を保たずに従うと、その内部は腐敗するという現象が起こるということです。
 内閣府は引きこもり者数を把握しました。これを「新し社会的な問題」と定義づけしたようです。しかし「社会的な問題」ではなく、すでに「社会」自体が問題です。どんなリンゴを箱に入れても、リンゴに異常が発生する。これは、リンゴ箱という社会が「腐る装置」になって来た証拠です。これまでリンゴ箱を管理してきたのは一体誰でしょうか。現在のリンゴ生産者が責任を持たないならば、「新しい生産者」にリンゴ箱を管理してもらいたいと思うのは当然の流れでしょう。

AUTOPOIESIS 0029./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『所有の概念』

古賀ヤスノリ アクリル画

 所有という概念はよくよく考えると不思議なものです。たとえばボールペンを買う。買った人は自分の物だと考える。しかし、お金を介さずに、海で拾った貝殻を自分のものと考える人もいます。あるいは人のアイデアを拝借して自分のものにする人もいる。そもそも「自分のもの」という感覚は一体何なのでしょうか。
 たとえば自分の「身体」は自分のものだと考える。これは当然のように考えられています。ケガをすると痛い。因果関係が実感されるので自分の身体だと判定できる。逆に人の身体は自分のものだとは普通は考えない。しかし、子供を自分のもの(所有物)だと思っている親もいます。もし魔法か何かで自分の足が身体から切り離されたら、その足を自分の足だと思い続けられるでしょうか。それが髪や爪なら所有の概念はそうは続かないでしょう。
 心理学の視点で言えば、所有という概念は、自我が投影されたものだと考えることが出来ます。自我はなんにでも投影される。人にも物質にも、あるいは概念にすら投影される。学術的な発見、組織の教義、人間関係、創作した作品、自らが介入した結果に自我が投影され、それらが自分自身となる。だからこそ、それが傷つけられると自分が傷つけられたように感じてしまう。
 所有とは「自己投影による支配」ともいえます。よって支配欲の強い人ほど、物質や他者、自分に関係のある概念に自我を投影し、所有しようとする。もし親が子供に対し所有の概念を持っているとすれば、その子供も他者に対し所有の概念でしか関係できなくなる。支配欲や権力欲の問題は、この所有の概念が根本にあると考えられます。
 自我の投影により所有概念が生まれるとすれば、「自分の内側に入れる」ことが「所有する」ということになります。映画監督のジャン=リュック・ゴダールは、自分の身体は外部である、と言っています。つまり「自分の身体は自分のものではない」ということです。この区分けはデカルトの心身二元論(精神と物質)の分け方と重なります。心と体の区別をつけるということは、「自分の身体は自分のものではない」と考えるということです。この前提から出発すれば、他者を所有概念で考えることは無いはずです。支配欲を持つことも出来なくなる。自我の外にあるもの(他者)を認めているからです。
 所有という概念は、自我の内側に対象を取り込む(自我を投影する)ことで発生します。その内側に取り込めないものは、購入によって所有する。この場合は、「自我投影のプロセス」が「購入手続き」に置き換えられています。よってお金さえあれば、疑似的に自我をどこまでも延長できることになる。言い換えると、自我の外にあるものと出会う機会を失う。我儘や自己中を押し通す状態がこれに当たります。
 客観的に言って所有という概念は幻想の領域です。究極的に自分のものと言えるとすれば、それは「自分の経験」だけでしょう。どんなにつまらない経験だったとしても、それだけは疑いなく「自分のもの」です。それ以外のものは、たとえ稼いで高級車を買おうと、自分で家を建設しようと、それ自体は自分のものではない。ただの物質でしかありません。それを自分のものだと考えるのは、そう思いたいからです。もちろんそれでは生きていて楽しくありません。だから私たちは、自分のものという幻想をたくさん持って、楽しみならが生きているということなのでしょう。

AUTOPOIESIS 0028./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『失望の先へ』

古賀ヤスノリ アクリル画
 アンドレイ・タルコフスキー監督の『ストーカー』という映画で、その部屋に行けば願い事が叶うという場所が出てきます。そして以前その部屋に入った人間が大金持ちになり、その後すぐに自殺したというエピソードが語られます。彼はその部屋に入る直前に弟を亡くすのですが、願い事によって弟が復活することなく、自分が大金持ちになってしまった。その事実に耐えられなくなって自殺したわけです。
 どんな願い事でも叶う部屋は、意識的なレベルを無視して、人間の奥深くにある「本音としての願望」を具現化した。ここに通俗的な心理学では捉えきれない無意識の水準を見て取ることができます。自殺した彼は、まさか自分が弟の復活よりも金持ちになることを望んでいるとは夢にも思っていなかった。だからこそ、「本当の自分」を知って自殺してしまった。我々が無意識と簡単に呼んでいるものは、人が自殺に追い込まれるほどの破壊力をもつものだということです。
 タルコフスキーは、なにも皮肉を表現したかったのではなく、人間が持つ欺瞞性を伝えようとしたと言えるでしょう。弟を思う気持ちに偽りはない。しかしそれを越えた欲望が深層にあるという事実を、本人が自覚していなかった。もし自分自身が本質的にどのような人間であるかを、良くも悪くも自覚していたならば、逆説的に弟が復活した可能性があります。人間の欺瞞性(自分を見ないこと)によって大切なものが失われ、結果的に自身も消滅してしまうという構造が、意識を超えて存在している。
 日本には「本音と建前」という言葉があります。しかしタルコフスキーに言わせれば、その「本音」すらうわべに過ぎないということです。本当の意味での本音とは、むしろ自分が絶対に死んでも認めたくないような深層にある欲望のことでしょう。どんなに「できた人」であっても、願いが叶う部屋からの審判が下されれば、自分自身に失望を感じるはずです。
 人間の失望は、人間が動物であるという「宿命」から生まれるものかもしれません。そのことを意識が隠蔽し、別の原理で行動しているように思わせている。この意識と深層のズレがある限り、世界から不幸は無くならないでしょう。人間が持つ「本音としての欲望」を直視し、そこから起こる問題を回避するために発動させるのが倫理であり文化です。つまり文化とは、自分への失望の先に生まれてくるものなのでしょう。

AUTOPOIESIS 0027./ painting and text by : Yasunori Koga
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『仮想と現実』

古賀ヤスノリ アクリル画

 人間にとって「仮想と現実」の違いは何処にあるのでしょうか。現在ではネットなどの仮想の中で生きる人たちも無視できない数になっています。たとえば引きこもりの人たちで、かろうじてSNSやその他のネットによって生きている人もいます。そんな人たちに、仮想でなく現実に出ようと言っても効果はないでしょう。それに現実へなぜ出なければならないか、という明確な理由を突きつけることも難しいでしょう。
なぜ「仮想より現実へ出るべきだ」という根拠を述べることが難しいのでしょうか。それは、「仮想と現実」の真の意味においての区別をつけなければならないからです。これは簡単なようで思った以上に哲学的な問題をはらんでいます。仮想には重さも匂いもないと言って、現実との違いをあげつらう事はいくらでも出来ます。もちろんそれらの要素は現実と仮想の大きな違いを指摘しています。しかし最大の問題はそこではありません。仮想と現実の違いを認識するときに絶対に避けて通れないのが「何をもって現実とするか」という事です。
 私たちは、ある事件が起こるとそれがニュースとなり、他人と共有できる現実だと考えます。一人でいるときでも、目の前にあるパソコンやキーボードは現実のものだと考える。しかしそれが本当に現実だと証明できるかということです。もしかすると夢の中で見ているだけかもしれない。さらに精神的な疾患や、生理学的な異変から「妄想を見ている」かもしれない。このように私たちは目の前に「現実としてある」と思っていることの根拠を確かめることは難しいのです。
 キーボードを触ってみる。嗅げばプラスチックの匂いがする。そして五感が現実を認めていると言います。なるほど仮想にはそのようなものがなく、それをもって現実の根拠と考えることは出来きます。しかし、精神病理学の知見によれば、触覚や嗅覚のような原始的な感覚にも錯覚的な妄想があるということです。さらには夢にも確かな手触りや匂いがあることもあります。そうなればどこまでいっても、現実を現実だと確証できる根拠がないことになります。ないのなら、現実とはそもそも‟無い”という意見も成り立ちます。
 もし「現実が無い」となると、仮想も途端に今まで現実と言われてきたものと同じレベルへ昇格されます。しかし直感的にいって「仮想と現実」には明らかに違いがある。ならば私たちが「仮の現実」として認めている世界は何なのでしょうか。それは「他人も現実と思っているに違いないもの」が「仮の現実」として個人で認識されているものではないでしょうか。だからこそ、時に個々人での現実認識の食い違いがある。
 証明できる確実な現実がないのだから、「仮の現実」として近似値的な世界観を現実としている。その現実は人間の五感で確認できる空間と時間を持った世界です。そのような世界の中に新たに生まれた「仮想ネットの世界」は、感覚的には制限された「疑似的な現実」、「仮の現実」の中にあるもう一つの仮の世界です。あたかもそこに現実を見出せるのは、感覚不足を補うための「精神の補填作用」があるからだと推測されます。つまり不足した感覚を疑似的に妄想で補うことで、仮想は現実と平行を保つことが出来る。そうすることで初めて人間は仮想に住まうことが出来る。しかし仮想に住まい続けることなど許されていないがゆえに、仮想世界に不足した要素を妄想で補填し続けることになります(つまり嗅覚、触覚、空間や時間を無意識の領域で感じ続けることになる)。
 現実認識の不可能性の視点から、普段人々の間で現実と呼ばれているものが、「仮の現実」であることが見えてきました。その意味では「仮想と現実」の区別はつけられない。しかし現実を「仮の現実」としたときに言えることは、ネットのような仮想は「仮の現実のなかの仮の現実」という一つ下のレイヤーに位置する世界だということです。その一つ下のレイヤーという別の世界に住まうために、「仮想に不足する感覚要素」を妄想で補填する。つまり一般的な現実も「現実」などではないが、仮想は一般的な現実以上に「個人の妄想」によって不足が補われた世界であるということです。感覚要素の不足した仮想世界に対する完全型(モデル)が、現実(仮の現実)であることは明らかななのです。

AUTOPOIESIS 0026./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『不確定性との関係』

古賀ヤスノリ 絵

 パソコン、スマホ、ゲームにアプリ。全てが仮想であり想定外の事が起きない決定論的な世界。まさに便利な世界が実現しています。ゆえに仕事では長時間利用することになり、仕事が終わってもスマホで仮想にアクセスすることになります。そこで仮想世界で当然だったものを、現実においても当然だと思うようになってきます。物事が仮想世界のように思い通りにいかないと納得できないと思うようになる。
本当の世界は「偶然の連続」で成り立っています。そこに意味を見出したときのみ必然となります。もし高度な数学が発見されて、すべてが計算できたとすれば、世界はすべて必然であると言えるかもしれません。しかし今現在、偶然を法則化する力は人間にはありません。ならば「世界は偶然で出来ている」と言ってよいでしょう。
 パソコンやスマホの中に偶然はありません。しかしパソコンを扱う人間や、それを取り巻く環境は「偶然の原理」が支配しています。パソコンの仕事が予定調和で進んでいるにも関わらず、いきなり体調が悪くなる。或いはビルが火事になることだってありえます。しかしパソコンやスマホの中はプログラム以外の事が起きません。だから安心して、自分の思い通りに事を進めることができます。ここに現実と仮想(非現実)の違いがあります。
 思い通りに行くことが普通となれば、思い通りにいかない事を排除しようとするようになります。つまり不確定要素を排除し、すべてが確定的な世界を作ろうとします。そのような世界でなければ住めなくなるのです。その結果、予定調和の中だけで「閉じる」という現象が起こってきます。閉じると内部にパラドクス構造ができ、エントロピーも上がります。そんな所に不確定な要素である「心」など存在できません。仮想時の脳の状態が、現実に戻っても切り替わらない場合、そのような「閉じる」現象が起こるのではないでしょうか。
 不確定要素のない世界。「偶然の原理」が入り込まない世界で安心したい。そのためには偶然の要素を自然から排除しなければなりません。これは一種の抑圧です。思い通りにいかないことを抑圧することで成り立つ世界。その世界を純化するために、あらゆる方法で不都合な情報を捨象し、歪曲していく。つまり仮想世界の成立は、無意識を抑圧して出来る「自我の形成プロセス」と似ているということです。さらに、単純な予定調和に限れば限るほど、その世界は原理主義的な傾向を強めます。そこに仮想世界と宗教との類似点を見出すこともできます。
 仮想と宗教を重ねて見せたのはフィリップ・K・ディックです。現実の一部を疎外した所に現れる、仮想という宗教世界。つまりそこへアクセスするには「不確定要素の排除」が必要となります。いいかえると、情報の遮断による内部の純化です。その遮断する情報の違いが、宗派や組織などの違いとなります。しかし仮想にしても宗教にしても、その枠の外には必ず不確定要素に満ちた「偶然の世界」があります。枠の中だけで存在することなどできないのです。
 ある程度確定的でないと社会は成り立たちません。しかし実際は不確定要素の連続である自然環境からエネルギーを得て初めて人間は生きることができます。よって確定的な世界に閉じこもると、結局は生きられなくなる。不確定要素を排除し始めることは、その枠内が環境から切り離され始めたことを意味します。つまりそれは内部の死を暗示しています。仮想世界に依存する社会の最大の問題点は、「確定世界の独走(純化)」と「現実世界との関係の喪失」だと考えられるのです。

AUTOPOIESIS 0025./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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