『絵の本質について』

イラスト こがやすのり
 世の中には「絵の描き方」というものがいろいろとあります。デッサンから油絵の描き方まで様々です。そしてその描き方には適応範囲があります。たとえば「水彩の描き方」とかいてあれば、油絵には適応できない部分があります。さらにデッサンのように多くの技法に共通する部分と思われている描き方にも適応範囲があります。たとえばピカソの絵のようなスタイルだと、デッサンの描き方からすれば誤った表現となります。しかし今ではピカソの絵をデッサンという狭いくくりで見る人はいません。しかしデッサンのような正解と不正解がはっきりつけやすい視点が、芸術の世界でも絶対基準として採用されがちなのは事実です。
 「絵の描き方」にはたくさんの種類(価値体系)がある。そしてその描き方には必ず適用範囲がある。よって描き方の種類の違うもの同士で比較すると、お互いが不正解となってしまいます。別の言い方をすれば、狭い範囲の「絵の描き方」を採用すると、それだけ表現の禁止領域が増えることになります。じつはデッサン至上主義(形の狂いをゆるさない主義)が最も表現の抑圧につながります。つまり現実に従属的で自由がない。本当の芸術領域なら、耳が頭についていると「間違い」ではなく「面白い」になる可能性がある。しかしそれが許されない。ここに「表現の自由が許されないのならそれは芸術なのか?」という問題があります。
 本来の芸術は基準に従属するのではなく、そこからの自由と可能性を試す行為だと考えられます。よってただ一つの決まり事(絵の描き方)に従うという姿勢は反芸術だと考えることもできます。しかしなんの基準もなく好き勝手だけではカオスに陥ってしまう。よってそれぞれの描き方を横断しながらも、そこに統一的な足場を持つ必要があります。たくさんの描き方をつなぐ包括的な足場は、実は言語によって文章化できないものです。なぜならお互いを許すと論理矛盾が発生するからです。このような包括的な足場は、言語以前の「経験的な理解」でしか作ることができない。いうなれば「会得」するしかないものです。非言語表現である絵の本質がここに隠されていることは言うまでもありません。

AUTOPOIESIS 186/ illustration and text by : Yasunori Koga
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