『物体Xについて』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 アメリカの映画監督にジョン・カーペンターという人がいます。ホラーやSF映画の傑作を数多く撮った巨匠の一人ですが、数ある作品のなかに『遊星からの物体X』(1982年)という映画があります。物体X(The Thing)とは南極観測隊を襲う宇宙人のことで、この宇宙人は触れたものに擬態し同化するという性質をもっています。その宇宙人のサンプルを解剖した結果、同化が進むと最後には完全に「擬態する対象」(たとえば犬や人間)になってしまうことが分かった。しかし、もし犬に同化して完全に犬になったのなら、それはもう宇宙人ではなく犬ではないのか…。
 これは不思議な現象ですが、日常にもないわけではありません。まず主人公がいて、その主人公が何かの真似をする。ちょっとずつ真似ていき、ある地点から目的が「真似をする」が「それになる」へとすり替わる。これは主体が自分から相手に移ってしまった状態です。固い言い方をすると「主客転倒」です。100%相手になってしまえば、自分は1%もない。不思議な現象です。たとえば絵を写真のように模写して、完全に写真と同じように描けてしまったらどうか。描いた人がいなくなってしまう。どうやら同化や模倣はある地点から「自己の消滅」へと向かうようです。
 映画では南極観測隊が次々と同化されますが、残された数人は最後まで同化を拒んで戦います。人によっては「みんなと一緒」ということで「同化されたほうがラクで安心」だと思う人もいるかもしれません。悩みの種である自己も消滅するし…。しかし映画としてその状況を客観的に見る限り、同化を拒むことが人間という存在であり個性であるように感じます。ちょっとしたことで同化やカモフラージュを選択したり、模倣という創造の逆数に身を委ねたりし過ぎると、私たちは物体X(The Thing)になってしまうのです。ちなみに、このジョン・カーペンター監督の映画は1951年の『遊星よりの物体X』というモノクロ映画のリメイクです。

AUTOPOIESIS 132/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『アリスの寄り道』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 ルイス・キャロルの有名な『不思議の国のアリス』でのこと。不思議の国へ迷い込んだアリスは、チェシャ猫と出会います。そこで自分がどっちへ行けば良いのかを尋ねます。するとチェシャ猫は「君がどこへ行きたいかによるね」と答えます。アリスはどこでもいい、とにかくどこかへ出られればと言う。それを聞いたチェシャ猫は、「そりゃ出られるさ、ずっと歩いていけばね」と答えます。これはつまり、出られるまで歩き続ければ良いということです。重要なのは方向よりも継続であると。
 目的地に到達するには継続が大切です。別の言い方をすると「諦めなければ必ず到達する」ということです。しかしもちろん方向も大切でしょう。誤った方向に進んでいては、元へ戻るのが大変です。哲学者のデカルトは、焦って間違った方向へ進むくらいなら、全く動かない方がまだ良いと言っています。ですが間違って初めて見えてくる「目指すべき場所」もあるはずです。
 何事も直線的な最短コースで考えると、寄り道や迂回はロスになる。しかし曲線も後戻りさえしなければ一本の道であり、立派な前進のコースです。チェシャ猫が、ずっと歩けば出られると言ったのは、後戻りをしなければという意味なのかもしれません。その後アリスは、狂った三日月兎と帽子屋へ会いに、さらなる寄り道を選んでいきます。豊かな物語は「曲線的な寄り道」を後戻りせずに“突き進む”ことで生まれるのかもしれません。

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『ファンタジーと創造』

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 「絵に描いた餅は食えない」ということばがあります。これは役に立たないものの例えであり、絵は腹の足しにはならないということです。しかし絵を愛する人にとっては、この言葉がただ全てを「食べること」=「実用」の価値でしか計っていないことは明白です。しかし「身体の栄養価」は食べ物にはあるけれど「精神の栄養価」は絵のほうが断然高いのです。ゴッホの絵には世界中の人が列をなして並び、感動して帰っていきます。
 絵に描いたのもは空想であり非現実である。だから食べることができない。価値がない。この考え方は一見リアルな現実主義者のようです。しかし全てを実用で捉え、数量化できるものだけに価値をおくと、心が荒んできます。現代のような行きすぎた資本主義と経済は、精神の不安定を作り出す。物質的に豊かである反面、精神的な栄養失調の状態にあるからです。現実に対するファンタジー(想像性)が欠乏している。
 不足したファンタジーを補うため、人々は美術や映画、漫画やアニメといったファンタジーに没頭します。それは精神のバランスを取るためには欠かせないことです。しかし入り込みすぎて現実を見失う人も中にはいます。そういった不均衡を、ファンタジーに接しながらもほどよく回避する方法があります。それは「自ら創造する」ことです。現実(アナログ)において自分の価値(ファンタジー/非現実)を作り出すということ。これはある意味では矛盾です。しかし「矛盾を許容する力」が精神のバランスを作り出します。絵は食えないからこそ心の栄養となる。絵というファンタジーを、現実において“自分らしく描く力”が「心のバランスを保つ力」となるのです。

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『キツネと葡萄②』

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 自分を守るために作り出した幻想に逃げているあいだは、現実を受け入れることが出来ません。イソップのキツネは上にあった葡萄を下にみることで一時的な危機を回避しました。でもそれでは葡萄を手にすることは永遠にできません。葡萄を手にするには、幻想に助けを求めるのではなく、自分が自分を助けるという前提で考えなければなりません。
 キツネは届かないところにある(現状では上にあって難しそうな)葡萄を下に見ることで難を逃れました。しかしそのとこで、葡萄は現実の世界から幻想の世界へと追いやられてしまった。自ら手に取ることの出来ない世界へと欲しいものを追いやってしまったのです。自信がないと挑戦するまえに先回りして、欲しいものを不可能な世界へ追いやってしまう。キツネはちょとした困難にたいして価値をひっくり返して逃げるという癖に気づかなければなりません。
 葡萄に届かないなら、その差を埋める方法を考えてみよう。長い枝をもってきて振り落とす。梯子のようなものを作る。あるいは誰かと協力する。とにかく「いまの自分ではまだ無理だ」という事実の受け入れが土台となって知恵が働きだす。あるいは訓練などで力を身につける。そんなこと必要ないという思いに逃げ込めば、すべてが幻想(不可能)になる。結局キツネは、美味しそうな葡萄のありかを鳥におしえ、手伝ってもらい一緒に仲良く食べたのでした。おしまい。

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『キツネと葡萄①』

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 たたわわに実った葡萄。それを発見したキツネは葡萄を取ろうとする。しかし木が高すぎてどうしても届かない。そして最後にキツネはこう考える。「あの葡萄はすっぱくて食べられない」と。そしてその場から立ち去ってしまう。これはイソップの有名な話しですが、自分の力の無さを正当化する話として一般化しています。つまりキツネは現実を受け入れられず、自尊心を守るために自分が作り出した幻想(物語)に逃げ込んだのです。
 キツネは葡萄が欲しかった。しかしどうしても葡萄をとる力が無かった。その事実を受け入れることは自分が負けた(あるいは損をした)ことを認めることになる。自分の力不足で自分が負けたことを認めたくない。そこで葡萄の価値を低める。相手を低く見ることで、相対的に自分を高めて防衛する。このような自己防衛の手段は、何かに対して乗り越える自信がないときにもなされます。あんなものに価値はないと。
 イソップのキツネに見られる「価値の転倒」は、哲学者ニーチェが指摘した「ルサンチマン」という概念とおなじものです。葡萄に対するキツネのように、ローマ人に対するユダヤ人の「価値の転倒」が、キリスト教を作り出したとニーチェは言います。ならばイソップのキツネが作り出した幻想(価値の転倒)は、ある意味では宗教的なものかもしれません。葡萄をとることが出来ないと分かった瞬間、キツネは救済を必要とする存在になってしまった。当然、幻想に救済を求めている間は、葡萄を獲得する知恵を磨き、自己を鍛えなおすことはありません。ではいったい、どのように考えればキツネは葡萄を手にすることが出来るのでしょうか。

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