『出口のない迷路から脱出する方法』③

古賀ヤスノリ イラスト

  「相関しない」とはお互いが関係のない世界にあるということです。シーソーや月の例は、「相関するはずのものが相関しない」例でした。これとは逆に「相関しないはずのものが相関する」現象もあります。たとえば漁師Aが魚を海で捕っている。その同じ海で、別の漁師Bが魚を捕る。すると漁師Aが怒る。海の魚が減るので自分の取り分が少なくなるというわけです。つまりAとBは相関しているという判断です。しかしAがサバをBがイワシを捕っているならば「相関しない」ことになります。その場合二つの世界は重なっていない。
 同じ場所で、同じ魚を目的としていても、お互いに相関しない関係が成り立つ。つまりレベル(クラス)が違っていれば、同じ場所で同じ振る舞いをしていても相関しない。綱引き(奪い合いや縄張り争い)にはならないということです。しかし現実社会はレベルが違うものを、相関していると思い違いをしてしまうことがよくあります。その結果、無用な争いが生まれることになる。しかし本当は相関していないので、現実と辻褄が合わない行動を繰り返すことになり、問題は逆に増えていきます。
 別々のレベルのものを同じレベルであると混同すると、そこに「パラドクス」が発生します。たとえばエレベーターを真上から見ると、どの階(レベル)に行っても同じ場所へ出ることになります。階層を無視(混同)すると「無限のループ」から出られなくなる。実際には違うレベルのものを、誤って相関させることは、エレベーターの階層を全て同じ階とみなすことと同じです。このような誤った相関性はパラドクスを発生させる原因であり、問題の解決を不能にする最も典型的なパターンです。
 サバ漁師Aが、誤ってイワシ漁師Bを同じレベルであるとみなす。するとそこに誤った相関性が出来ます。相関していないものを相関しているとみなすので「負の相関性」です。サバ漁師Aはイワシ漁師Bへ文句をいい、最後には言い争いになる。これは無意味な争いです。世界中で起こる争いの多くが、このような無意味な争いである可能性が高い。違うレベルのものを混同して「負の相関性」に支配されて争う。戦争すら「負の相関性」によって引き起こされます。物事を階層に分ける作業を怠ると、無益な争いが起こってしまう。よって、「負の相関性」が出来ないように、物事を「適切な階層へ分ける」作業が必要になります。しかしそれが思った以上に難しい。なぜ難しいのか。それは階層分けを邪魔する者がいるからです。では階層分けの邪魔をする者とは、一体何なのか。

AUTOPOIESIS 0079/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『出口のない迷路から脱出する方法』②

古賀ヤスノリ イラスト

 出口のない迷路に迷い込んだ時、どのようにしてそこから脱出すればよいか。その方法を考察していくうちに、いつの間にか迷路のイメージに入り込んでしまいました。出口のない構造とは外部との繋がりが断たれているとう事です。外部との繋がりのない場所へ、人はどのようにして入ることが出来るのでしょうか。夢のように「いつの間にか」閉鎖構造へ入ってしまうのか。
 夢はここからが夢です、という境目が分かりません。いつの間にか入っている。これと同じように出入口が塞がれた迷路(例えば出られない泥沼の状況)にも、いつの間にか入り込んでいる。一見入ることが出来ない所へ入ってしまうという意味では、まさにマジックのような現象です。しかしマジックには必ずトリックがあります。ならば出口のない迷路への侵入にもトリックがあるはず。それを発見していくことが、「出口のない迷路」から脱出する方法へと繋がっていくことになります。
 迷路の考察からいつの間にか入り込んだイメージ。高い壁に囲われた迷路と、夜空に現れた月。そこから認識された「相関性の原理」。閉鎖構造に入るためのトリックを、月の視覚的イメージより導き出した「相関性の原理」の視点から発見していくことにします。そのためには、「相関性」についてもう少し考えてみる必要があります。
 まず「相関している」ということは、お互いが「同じ世界にいる」ということを示しています。たとえば、同じシーソーに乗っていれば、片方が上がり、もう片方が下がる。もし別々のシーソー(別々の世界)に乗っていれば片方が上がっても、もう一人に影響はありません。これは当たり前のようで、かなり重要なことです。月の光と影は同じ世界にある。別の言い方をすると、同じ次元にあるということです。
 では、もし別々の場所にある二つのシーソーが、「同じ位置」に重なっていたらどうでしょうか。その場合は、片方が上がっても、もう片方は動かない。イメージするならば、片方はゴーストのように透けて動かない。実際に物質を同じ位置に重ねて存在させることは、三次元の世界では不可能です。しかし物理学の世界では四次元の世界が認識されていて、同じ位置に物質を重ねることが出来ます。そこでは同じ世界にあるものが、相関しないという現象が起こる。月の光が減っても、影は一向に増えていかないのです。

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『出口のない迷路から脱出する方法』①

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  出口のない迷路に迷い込んだ時、どのようにしてそこから脱出すればよいのか。「出口のない迷路」とは難問に出くわした時、あるいは泥沼の状況に陥った時など、解決不能と思われる状況を示す比喩でもあります。出口のない構造にいつのまにか入り込んでいる。つまり最初は入り口があり、そこから迷路の中へと入っていく。
 迷路には入り口がある。私たちは入り口から入り、巨大な壁で出来た通路を進んでいく。分岐点では直観を頼りに、出口へと続く道を選択していく。そして出口と思われる所まで来る。しかしはたと気付く。そこは初めに入ってきた入り口と同じ風景であることを。出口と入り口が切れ目なく繋がり、出口が消滅している。そして迷路から出られないことを知る。
 出口がないとうことは、入り口もないということ。その事実は永遠にこの構造から出られない事を示してる。そして絶望感が心を覆いつくす。もういくら進んでも意味がない。そしてヤル気もなくなってしまう。全ての行為が無だと感じられる。「ヤル気の喪失」は「出口なき迷路」から生まれる。
 すべてを放棄してしまい、ただ出来ることと言えば空を眺めることだけ。外は既に夜。美しい満月だけが夜空に浮かんでいる。無力な状態でただただ満月だけを眺める。そして永遠に思える時間が過ぎ去っていく。絶望すら感じられなくなったその時、丸い月が少しづつ欠けていき半月へと変化した。そして三日月になり最後には夜の空から姿を消してしまった。夜空には何もなくなり、自分の思考だけが残された。
 月の変化のイメージを何度も再現してみる。そうするうちに恐ろしく単純な原理に思い至る。満月の変化が示す原理。それは太陽に照らされた「明るい領域」が狭くなるほどに「暗い領域」が広くなるということ。つまり光と影は関係し合っている。片方が増えるともう片方が減るという「相関性の原理」がある。さらに「相関しあうもの」と「相関しあわないもの」はどのようにして決まるのだろうか。巨大な壁にもたれかかりながら、なにか出口へのキッカケとなるような曖昧な直観が頭をよぎる。

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『なぜ生きているのか』⑥

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 人間には精神がある。ゆえに人は精神的な問いから逃れることはできない。その問いを深める過程で文明が発達し、数々の発明や発見がなされていきました。資本主義や経済も人類の発見品の一つです。しかしどのようなシステムも必ず終わりがあります。人間が人間のために考え作り出してきたシステムが、ある時を境に、人間に数だけを目的とするよう強いる。そこには人間が精神をもった存在であることが無視されています。一言でいうと「反精神」です。
 「なぜ生きているのか」という問いは、精神的な目的を問う問題です。「私はいかなる精神的な目的のために生きてるのかしら?」という問いを究極的に洗練させると、「私はいかなる精神のために生きているのかしら?」そして最終的には、「私の精神とはなにか」へ行き着きます。つまり「なぜ生きているのか」「なんのためにいきているのか」あるいは「どのように生きるべきか」という問いは「私の精神とはなにか」という問いの多様な現れにすぎないということです。
 「私の精神とはなにか」。これが問いの洗練の終着駅であり、ここに答えがあります。しかしこの答えは駅を降りて外へ出かけ、多様な経験を自らが体感していくことで、少しづつ形成されていく答えです。つまり始めから用意された答えではなく、自分自身で創っていく答えです。よって人によって違った答えが出来ていく。しかし個々の問題の答えは「精神」という普遍的な共通項によって重なっている。答えを自ら作り出すことができる世界。とりあえずその世界の入り口である終着駅まできました。
 答えを自ら作ることができる世界。この世界は数の原理が届かないレベルにあります。もちろん物質にも影響を受けない。「なぜ生きているのか」という問いは「私の精神とはなにか」という問いであり、それは自分の精神を少しづつ認識していくことで明らかとなる。誰に強いられるのでもない、自分自身の経験の積み重ねによって答えが形作られていく。数や物質を目的としない世界。そのレベルでのみ、私たちは「なぜ生きているのか」という答えを創ることが出来るのです。

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『なぜ生きているのか』⑤

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 『私はいかなる精神的な目的のために生きてるのかしら?』という問いは、社会的なものや物質的なものを排除することで成立する「純粋な問い」です。『何のために生きているのか』といった問いは、この「純粋な問い」のレベルでしか答えにたどり着かない。そして私たちが無自覚に受け入れている資本主義や経済といった概念が、「純粋な問い」に対する不純物であることが分かりました。
 資本主義や経済を一言でいうと「数の原理」ということになります。すべては数を基準としている。よって「純粋な問い」を成立させるためには、数の価値観をすべて排除することになります。つまり『数のために』という一切の行為は、本質的な問題から逆行するという前提を持つということです。
 しかし現代の社会では、すべてが驚くほど『数のために』の行為になっています。全ては数に置き換えられ、その数を増やすことが目的となっている。それが習慣化すれば、実質は無視して数だけを目的とするようになる。つまり、数が目的となっている。資本主義や経済の原理は、数の原理であり、それは人々に「数を目的とすることを強いる」システムであるといことです。これは「精神的な目的」とは相容れないものです。
 「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」という問いは、本質的に「精神的な目的」を問う根本問題です。それは物質や数を排除した純粋な問い。この問題の答えが簡単に出てこないのは、現代の社会が人々に「数を目的とすることを強いる」からです。一つの精神をもった人間の本質問題を退けて、ただ社会システムが稼働し続けることを目的とし、そのために人々に「数を目的とするよう強いる」。よって、社会システムに無防備に従うだけでは、『なぜ生きているのか』という問題の答えは見えてこないのです。

AUTOPOIESIS 0075/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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