『未来に咲く花』

 人は希望がなければ無気力になります。ならば希望とはどういうものなのかを知ることで、「希望の喪失」を回避できないでしょうか。生きる気力に関わることは、カウンセラーや心療内科医といった専門化が受け持つことで、希望の分析などいまさら意味がないと思われるかもしれません。しかし人間が「積極的に生きていく」うえで欠かすことのできない希望の概念を、あやふやなままで、いくら精神病理学を適用しても効果はない、という意見も無視できません。
 希望とは「未来への期待」のことです。期待とは可能性や蓋然性の問題です(これは前回考察しました)。そして、未来とは「時間」の問題です。時間を直線的に考えると「過去→現在→未来」という連続した流れになります。「過去・現在・未来」の間に、言葉の違いとしてあるような「断絶」はありません。しかし「未来への期待」とは、「まだ分からないものの可能性」つまり、現在とは連続していない所にあるものです。そこには時間的な「断絶」があります。もし未来を現在と陸続きのものとして捉えると、それは本当の(希望が発生できる)未来ではないことになります。

古賀ヤスノリ 風景画

 希望を「未来に咲く花」だと考えてみます。「未来に咲く花」は、現在とは断絶した場所にしか咲かない。もし断絶していた未来が、現在と陸続きになれば、未来は現在化され、希望の花は枯れてしまいます。別の言い方をすれば希望という花は、現在と別レイヤーにしか存在できないということです。それを無理に現在に植えるとすぐに枯れてしまう。「希望の喪失」はこのような「時間を連続と考えるか、非連続(断絶)と考えるか」に関わる現象でもあると考えられます。  
 時間を断絶する。つまり非連続として時間を感じることで、未来が純粋に確保される。実は自然の原理に従えば、そのような断絶の時間で生きることになります。たとえば人間は寿命があるが何万年も連続して生き続けています。断絶と連続の世界に生きている。そこに必然的に生まれる精神と時間のリズムが「非連続の時間性」です。その自然な時間感覚である「非連続の時間性」を疎外しているのが、人工的なパソコンやスマホ、ネット、ゲームといった「無時間性」(無変化)の世界です。これらは経済や産業と深く結びついているので容易の変えることはできません。しかし希望の花は、形骸化した資本主義(現在)から断絶した未来にしか咲かない。社会の次元が逓増していく中で、希望を既成の心理学だけでは守れなくなってきました。時間の概念を物理学やその他の視点で修正することによって、希望の花が咲く「場所」は確保されるのです。

AUTOPOIESIS 0039/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『希望の恣意性』

 希望とは未来に望みをかけることであり、こうありたいと願うことです。もし希望を失うと、根本的な諦めの状態になります。希望が「未来への期待」であるのに対し、失望は未来に期待が持てない状態です。ここには未来の可能性に対する判断の違いがあります。
 たとえばテニスの試合をするとします。相手が同レベルの選手であれば勝てる可能性がある。アバウトに考えても50%の確立があると判断できるので希望がある。だからヤル気も起こる。もし相手が世界でナンバーワンの選手であれば、一般のレベルの選手が勝つ可能性はありません。よって希望が持てない。未来を期待できない。失望が諦めを作ります。
 未来への可能性。それは、何を、いつまでに、どの程度望むかで変わってきます。そしてその望み方にもいろいろなパターンがあります。もしその人が「絶対に無理なこと」に固執していれば(例えば世間から絶対にはみ出さないように生きようとすれば)どのような方法を取ろうと、未来に希望は持てません。常に失望した状態が続きます。しかし「自分に出来ること」の範囲から望んでいき、少しずつレベルを上げていけば、希望を持ち続けてることが出来ます。さらにいきなりは無理だったことに対しても、可能性が出てくるというものです。つまり希望とは状況が作るのではなく、考え方によって恣意的に作られるということです。

古賀ヤスノリ 風景画

 「状況」と「自分の能力」を無視した高望みは失望を作る原因となります。よって自分の能力を把握している人は、出来る範囲が分かっているので失望しにくいということです。問題は、自分の性質や能力を無視して、ただ外部の指示(例えば世間や会社、親など)に従って目的を遂行しようとする人です。この場合は、自分に合わない結果を「望まされている」ので、失望が繰り返し作り出されます。自分がこうありたいという事と、外部から強いられていることが一致していないからです。
 周囲が望むことをやる。点数稼ぎ、あるいはそのことで自分が安心する。しかしその一連の行為が失望を作り出し、根本的な諦めが全体を支配するようになります。当然ですが希望とは「自分の望み」から生まれるものです。他人の望みを基にして自分の希望が作られることは決してありません。他人に支配された自己喪失状態では希望が生まれないという事です。
 自分が出来ることで、手の届く範囲を目標とすれば、必然的に希望が生まれます。希望の発生は恣意的であり操作可能です。よってもし希望が持てないと言うのであれば、それは希望が持てないように考えている。希望を持ちたくない。あるいは努力したくないという気持ちが、恣意的に失望を延長していると考えられます。しかし、人が自らの人生に満足するためには、希望が必要です。諦めという戦略(癖)から脱出する方法も、希望がもてる思考に切り替えること以外にありません。希望の発生は恣意的であり、どのような状況であっても、自由に作り出すことができるのです。

AUTOPOIESIS 0038/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

Scroll to top