『オズの魔法使い』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 主人公ドロシーは、すべてが灰色で退屈な日常から竜巻によって家ごと空へと運ばれる。そして色鮮やかな見知らぬ世界へと降り立つ。そこは魔法使いが支配する美しい世界だった。何不自由のない世界に住む人々は満ち足りて幸福そうだが、ドロシーはお家へ帰りたい。そこであらゆる願いを叶えるオズの魔法使いへ頼みにいく。しかしそこへ至る冒険をくぐり抜ける必要がある。つまり必要なものを手に入れる対価としての経験が暗示される。
 アメリカ初の本格的なファンタジーとしてイギリスの「不思議の国のアリス」の35年後に生み出された物語は、アメリカらしい自立的で自己獲得的な展開が用意されています。途中で仲間になるカカシは脳みそを、ブリキの木こりは心を、そしてライオンは勇気を手に入れたいと冒険に参加する。これまで発達させてこなかった側面を、新しいことに挑戦することで獲得していく道のりは、自己実現のプロセスと重なっています。
 この物語は大袈裟にいえば、人類の進むべき道を暗示しているようです。カカシが必要とした脳みそ(考える力)によって自由に行動し道具を発達させ、自然を切り拓いた人間は、いまブリキの木こりの問題に直面している。ブリキの木こり(目的だけの機械)は、心をうしない好きだった人を愛せなくなった経験から、脳みそは幸福を作らないと言い、心が手に入るのならどんな不幸も耐えるよと語ります。失ったものを獲得するためには新たな冒険が必要で、そのためには勇気も必要になる。そしてなにより竜巻という偶然によって出会った仲間が冒険には欠かせない。時代を越える普遍性を秘めた傑作ファンタジー。

book 032『オズの魔法使い』ライマン・フランク・ボーム : Originally published in 1900

AUTOPOIESIS 178/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『トム・ソーヤの冒険』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 アメリカ文学の父といわれるマーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』は、アニメ作品にもなっているので誰もが知っているでしょう。その『トム・ソーヤの冒険』の中にハックルベリー・フィンという風来坊が出てきます。村の大人たちからは「宿無し」と呼ばれ嫌われていますが、子供たちからは人気がある。学校にも行かず、何物にも拘束されない自由を満喫して生活しているからです。
 ハックルベリー・フィンは自然を愛し、樽の中で寝起きをしてその時々を自由気ままに生きている。冒険好きのトム・ソーヤはそんな彼を尊敬し、一番の友達だと思っています。そしてあらゆる悪い遊びを一緒にしでかす。その後ハックルベリー・フィンは、あるキッカケでお金持ちの婦人の家で暮らすことになります。いつも汚れた服は新しいものになり、身ぎれいにされ、何不自由のない生活がはじまる。
 結局ハックルベリー・フィンは、スプーンとフォークにお皿を使う食事なんて耐えられないと、家を抜け出してしまう。金持ちの贅沢な暮らしより川や森を愛していると言います。このエピソードは、習慣化したものは、たとえ良い状況に変わるとしても、なかなか捨てられないということを示しています。それとともに、マーク・トウェインの自伝でもあるこの物語が、アメリカの歴史を貫く自然主義の賛歌であることも良く表しているのです。

book 031『トム・ソーヤの冒険』マーク・トウェイン : Originally published in 1876

AUTOPOIESIS 150/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『シンボルの哲学』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

(シンボル化は思考にとって本質的な行為であり、思考に先行する) S.K. ランガー

 サイン(記号)とシンボル(象徴)はどう違うのか。この二つを徹底的に区別して、シンボルの機能に焦点を当てたのがこのランガ―の主著『シンボルの哲学』です。
 サイン(記号)とはピクトグラム(たとえば非常口のマーク)のように、示す対象とサイン(記号)が等式の関係にある。A=Bのように取り違えは起こらない。よって、対象とサイン(記号)は入れ替え可能である。それに対してシンボル(象徴)は「対象の代理ではなく、表象化の担い手である」とランガ―は言います。つまり、ただの「鳩」が「平和の象徴」になるように、表現の仕方によって別のイメージを喚起させるものがシンボル(象徴)であるということです。
 サイン(記号)の場合は、言葉に近く、なかば強制的に示すものです。受け手に自由なイメージを促すことはありません。それに対してシンボル(象徴)は、具体的な指示ではなく、イメージを喚起させ想像力を刺激する。受け手に自由があります。別の言い方をすると、サイン(記号)は論理的な説明であり、シンボル(象徴)は、イメージの暗示、メタファーであるということです。
 サイン(記号)が対象を描写するのに対して、シンボル(象徴)は暗示する。つまりサインと対象の間には主観が入り込む余地はありません。しかしシンボルと対象との間には主観が入る。そしてそのことによって初めて有意味なイメージが生まれることになります。
 サイン(記号)を受け取って本能的に行動するのが動物の基本。そこから一歩進んでシンボル(象徴)を使用することが、動物と人間の境界線を越えることを示す、とランガ―は述べています。人間の本質であるシンボル機能を、先達のカッシーラやホワイトヘッドの研究を継承しつつも、更に一般化を試みた決定的な名著です。

book 030『シンボルの哲学』S.K. ランガー : Originally published in 1942
illustration and text by : Yasunori Koga
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『悪について』 

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
(創造できないひとは破壊することを望む)エーリッヒ・フロム

 エーリッヒ・フロムには世界中で読まれている『愛するということ』という、人間の愛する能力について書かれた名著があります。その『愛するということ』と対をなすとフロム自身が述べているのがこの『悪について』です。つまり愛する能力は善的な能力であり、それは「悪を理解したものの力」であるということです。この本では人間が「悪に向かう原理」と「善に向かう原理」が分析されています。実際によむと『愛するということ』を補完する内容になっていて、むしろこの『悪について』を読むことで『愛するということ』の本質がさらに理解できます。
 フロムは悪が発生する条件を、死への愛(ネクロフィリア)、悪性のナルシシズム、そして近親相姦的共生として、それら三つが組み合わさることで「衰退のシンドローム」が形成されると述べています。この逆にあるのが、生への愛(バイオフィリア)、良性のナルシシズム(ナルシシズムの克服)、そして独立心です。これらが組み合わさると「成長のシンドローム」を形成する。この相反する方向性は相関していて、どちらかへ向かうしかないということです。
 死への愛(ネクロフィリア)の特徴は、未来よりも過去、自由より規則、生物よりも無生物(動かないもの)に執着する。支配や権力(あるいは権力への服従)を好み、所有することでしか世界と繋がれない。機械的、組織的、数量的、操作的、消費的である。悪性のナルシシズムは、自己肥大化により自分しかみておらず、自分に関わることだけを過大評価し、それ以外を過小評価する。そして一切の正当な批判を受け付けない。集団化して「集団的ナルシシズム」を形成し、外に敵をみだし憎むようになる。近親相姦的共生は、母親への精神的な固着であり、独立心や自主性が弱体化した状態。それは母親への愛と保護の切望である反面、恐れの表現でもあるとフロムはいいます。これら三つが組み合わさると「衰退のシンドローム」が形成され、人を破壊のために破壊、憎悪のための憎悪にかりたてる。これがまさに悪です。
 このような「衰退のシンドローム」に陥らない方法が、生への愛(バイオフィリア)、ナルシシズムの克服(良性のナルシシズム)、そして独立心を発達させ、「成長のシンドローム」を形成することです。日々、バイオフィリア的な人や環境と関わり、創造や挑戦を続け、一体化(或いは群れ化)ではなく、自立した自己生産によって人間の証しである不安を克服していく。集団的ナルシシズムは知性的、芸術的なものの生産を目的とすれば、その現実的な創造プロセスによって抑制されるとフロムは述べています。
 悪の条件は特別なものではなく、人間がもつ性質の一側面であり、それが肥大化したものです。その傾向を抑え続ける努力をおこたると、誰もが「衰退のシンドローム」を形成する。それが集団化すればそこから出られなくなる。私たちは生きたものに触れ、それを愛し“独立した個人”同士が社会を形成し、全体として知性や芸術の枝葉を伸ば続けていかなければならない。エーリッヒ・フロムの『悪について』は「善と悪の原理」を宗教とは別次元にある精神分析学によって解き明かした、今こそ読まれるべき名著なのです。

029『悪について』エーリッヒ・フロム : Originally published in 1964

AUTOPOIESIS 124/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『フロリクス8から来た友人』

古賀ヤスノリ イラスト 
「たぶん、ぼくは、ぼくたち自身のプロパガンダの犠牲なんだ」(フィリップ・K・ディック)

【あらすじ】

 高度な知能を有する<新人>と、テレパシー能力をもつ<異人>たちが支配階級を独占する22世紀。残る60億の<旧人>は、改ざんされた試験制度により、政治機構への参加が不可能となっている。飽和した構造を打開すべく、助けを求め宇宙へと旅立ったトース・プロヴォ―二。一方、救世主の降臨を待つ<旧人>のひとりニック・アップルトンは、黒髪の少女チャーリーに出会い、最高権力者の<異人>ウィリス・グラムと遭遇することになる。高度な文明をもつフロリクス星系人と巡り合ったプロヴォー二は、地球へと帰還する。その阻止をたくらむグラムは、<新人>の最高知能者エイモス・イルドに助けを求める。彼ら支配体制の抵抗をよそに、フロリクス星系人は、硬化した支配構造を、特殊な技術によって解体していくことになる。

外部からの解決

 飽和に達した構造は、内部からの修正が困難となる。身体が機能不全に陥り、新陳代謝が硬化すれば、あとは外部から人工呼吸器などの助けが必要になる。22世紀が舞台のこの物語も、<新人>と<異人>が交互に支配階級を占める構造が飽和に達している。これは民主主義や二大政党制の末路を暗示するもの。それらの体制が飽和に達した後は、外部からの助けなしには正常化出来ないことを示唆している。
 未来社会の政治的限界に対して、ディックが示したの解決策は「高度な文明を持つ知的生命体に助けを求める」というものである。地球では他の追随を許さぬ<新人>と、人の心を読む<異人>が、大多数の<旧人>を支配している。その構造を破壊するには、現状を超える文明と知性が必要なのである。
 大きな物語が進行する過程で、主人公ニックが日常を放棄せざるを得ない流れに巻き込まれる。彼はコンピューターがはじき出した「最も一般的な旧人」だった。つまり彼の振る舞いが<旧人>の振る舞いの代表でもある。彼は知的生命体とプロヴォ―二の「降臨」を待つだけの人生であり、ディックはそれを「信仰」に近い形で描いている。奇跡を信じて待つだけの<旧人>たち。実際にキリストと聖書を暗示する記述が随所にみられる。
 最も一般的な<旧人>である主人公。その平均的な生活を破堤へと誘う黒髪の少女チャーリー。彼女の存在によってニックの飽和した日常は破堤するとともに、動きに満ちたものへと変わる。あらゆる平均化したものが破壊しつくされた「最後に残るもの」がこの小説で描かれている。不可能を可能とするフロリクス星系人は、いったい何を暗示する存在なのか。それは一般化されることなく、個々人で直観することをディックは望んでいることだろう。

028『フロリクス8から来た友人』フィリップ・K・ディック: Originally published in 1970
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『isonomia』

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