『出口のない迷路から脱出する方法』①

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  出口のない迷路に迷い込んだ時、どのようにしてそこから脱出すればよいのか。「出口のない迷路」とは難問に出くわした時、あるいは泥沼の状況に陥った時など、解決不能と思われる状況を示す比喩でもあります。出口のない構造にいつのまにか入り込んでいる。つまり最初は入り口があり、そこから迷路の中へと入っていく。
 迷路には入り口がある。私たちは入り口から入り、巨大な壁で出来た通路を進んでいく。分岐点では直観を頼りに、出口へと続く道を選択していく。そして出口と思われる所まで来る。しかしはたと気付く。そこは初めに入ってきた入り口と同じ風景であることを。出口と入り口が切れ目なく繋がり、出口が消滅している。そして迷路から出られないことを知る。
 出口がないとうことは、入り口もないということ。その事実は永遠にこの構造から出られない事を示してる。そして絶望感が心を覆いつくす。もういくら進んでも意味がない。そしてヤル気もなくなってしまう。全ての行為が無だと感じられる。「ヤル気の喪失」は「出口なき迷路」から生まれる。
 すべてを放棄してしまい、ただ出来ることと言えば空を眺めることだけ。外は既に夜。美しい満月だけが夜空に浮かんでいる。無力な状態でただただ満月だけを眺める。そして永遠に思える時間が過ぎ去っていく。絶望すら感じられなくなったその時、丸い月が少しづつ欠けていき半月へと変化した。そして三日月になり最後には夜の空から姿を消してしまった。夜空には何もなくなり、自分の思考だけが残された。
 月の変化のイメージを何度も再現してみる。そうするうちに恐ろしく単純な原理に思い至る。満月の変化が示す原理。それは太陽に照らされた「明るい領域」が狭くなるほどに「暗い領域」が広くなるということ。つまり光と影は関係し合っている。片方が増えるともう片方が減るという「相関性の原理」がある。さらに「相関しあうもの」と「相関しあわないもの」はどのようにして決まるのだろうか。巨大な壁にもたれかかりながら、なにか出口へのキッカケとなるような曖昧な直観が頭をよぎる。

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『なぜ生きているのか』⑥

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 人間には精神がある。ゆえに人は精神的な問いから逃れることはできない。その問いを深める過程で文明が発達し、数々の発明や発見がなされていきました。資本主義や経済も人類の発見品の一つです。しかしどのようなシステムも必ず終わりがあります。人間が人間のために考え作り出してきたシステムが、ある時を境に、人間に数だけを目的とするよう強いる。そこには人間が精神をもった存在であることが無視されています。一言でいうと「反精神」です。
 「なぜ生きているのか」という問いは、精神的な目的を問う問題です。「私はいかなる精神的な目的のために生きてるのかしら?」という問いを究極的に洗練させると、「私はいかなる精神のために生きているのかしら?」そして最終的には、「私の精神とはなにか」へ行き着きます。つまり「なぜ生きているのか」「なんのためにいきているのか」あるいは「どのように生きるべきか」という問いは「私の精神とはなにか」という問いの多様な現れにすぎないということです。
 「私の精神とはなにか」。これが問いの洗練の終着駅であり、ここに答えがあります。しかしこの答えは駅を降りて外へ出かけ、多様な経験を自らが体感していくことで、少しづつ形成されていく答えです。つまり始めから用意された答えではなく、自分自身で創っていく答えです。よって人によって違った答えが出来ていく。しかし個々の問題の答えは「精神」という普遍的な共通項によって重なっている。答えを自ら作り出すことができる世界。とりあえずその世界の入り口である終着駅まできました。
 答えを自ら作ることができる世界。この世界は数の原理が届かないレベルにあります。もちろん物質にも影響を受けない。「なぜ生きているのか」という問いは「私の精神とはなにか」という問いであり、それは自分の精神を少しづつ認識していくことで明らかとなる。誰に強いられるのでもない、自分自身の経験の積み重ねによって答えが形作られていく。数や物質を目的としない世界。そのレベルでのみ、私たちは「なぜ生きているのか」という答えを創ることが出来るのです。

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『なぜ生きているのか』⑤

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 『私はいかなる精神的な目的のために生きてるのかしら?』という問いは、社会的なものや物質的なものを排除することで成立する「純粋な問い」です。『何のために生きているのか』といった問いは、この「純粋な問い」のレベルでしか答えにたどり着かない。そして私たちが無自覚に受け入れている資本主義や経済といった概念が、「純粋な問い」に対する不純物であることが分かりました。
 資本主義や経済を一言でいうと「数の原理」ということになります。すべては数を基準としている。よって「純粋な問い」を成立させるためには、数の価値観をすべて排除することになります。つまり『数のために』という一切の行為は、本質的な問題から逆行するという前提を持つということです。
 しかし現代の社会では、すべてが驚くほど『数のために』の行為になっています。全ては数に置き換えられ、その数を増やすことが目的となっている。それが習慣化すれば、実質は無視して数だけを目的とするようになる。つまり、数が目的となっている。資本主義や経済の原理は、数の原理であり、それは人々に「数を目的とすることを強いる」システムであるといことです。これは「精神的な目的」とは相容れないものです。
 「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」という問いは、本質的に「精神的な目的」を問う根本問題です。それは物質や数を排除した純粋な問い。この問題の答えが簡単に出てこないのは、現代の社会が人々に「数を目的とすることを強いる」からです。一つの精神をもった人間の本質問題を退けて、ただ社会システムが稼働し続けることを目的とし、そのために人々に「数を目的とするよう強いる」。よって、社会システムに無防備に従うだけでは、『なぜ生きているのか』という問題の答えは見えてこないのです。

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『なぜ生きているのか』④

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 「なんのために生きているのか」という問いの答えを発見するために、問いに答えようとするのではなく、問いを洗練されることで、その中から答えを蒸留していく。そして「私はいかなる個人的目的のために生きているのかしら?」という問いに行き着きました。しかしこの問題は、ただ物質やエネルギーを得て暮らすだけでは解決しない問題です。それは「精神」をもつ存在である人間の宿命。よって問いの中から物質的なものを除外する必要があります。
 物質的なものを除外した問いをたてると、「私はいかなる個人的、非物質的な目的のために生きているのかしら?」という長い問いになります。ひどく分かりにくいので言い換えると、「私はいかなる精神的な目的のために生きてるのかしら?」となります。結果的に個人を精神に置き換えただけですが、これはかなり重要なことです。
 問いから「社会性」と「物質」を差し引いた残りが今の問いです。ここまで問いを絞ると「精神的な目的」を発見すれば良いことが分かってきます。それは「社会的な目的」でも、「物質的な目的」でもないものです。普段その二つにしか関心がない場合は、答えを発見することが困難であることは言うまでもありません。
 「なんのために生きているのか」「なぜ生きているのか」といった問いの答えが出にくいのは、社会的なものや物質的なものに関心が向きすぎていることが原因です。つまり資本主義と経済に支配されると、根本的な問いに答えられなくなるということです。むしろ資本主義や経済は、そのような問いを考えさせないことで、一つの方向へ人々を流し込んでいく。しかし精神をもった人間であれば、この問いは最も重要な問いであり、決して避けられない問いなのです。

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『なぜ生きているのか』③

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 答えは問いのなかにある。そして「綺麗な問い」を創ることが答えとなる。そのために問いを洗練させていく。さらに洗練のために、問いにある「意味のレベル」を確定する。これがこれまでの論考の流れでした。では「なんのために生きているのか」という問いの「意味のレベル」を確定してみましょう。
 「意味のレベル」には生物的、個人的、社会的、という仮の分類を前回示しました。一般的なニュアンスからいって、「なんのために生きているか」という問いは、生物的なレベルではなく、個人的問題に属する問いです。もちろん社会的なことも関わってきますが、社会の最小単位は個人であり、個人の問題抜きに社会が成立することはありえません。よって今回は「個人的な意味のレベル」に確定します。
 すると「なんのために生きているか」とう問いは「私はいかなる個人的目的のために生きているのかしら?」という範囲に限定されます。社会的なものを一端外へ出してしまい、純粋に個人的な世界での問題です。①「私は」②「いかなる個人的目的」③「のために」④「生きているのか」と分解すると、②が分かればこの問題は解けそうです。しかし本当にそうでしょうか。
 そもそも③「のために」とう前提をそのまま受け入れてよいのか。自分が何かのために存在するという暗黙の前提が、この言葉にはあります。言い換えると「ただあるがままで存在する」だけでは不足である、という立ち位置です。もしただ存在しているだけで満足であれば、③「のために」は問う必要がない。人間以外の動物はこの状態にあるように見えます。しかし「問い」という性質自体が「意味」を求めるのであり、「問い」を発する人間という動物は、やはり生きる意味なしには納得できない存在かもしれません。
 人間は何かのために存在することでしか納得できない動物である。それは意味である。さらに個人的な意味である。その意味は②「個人的目的」によって生まれる。「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」、さらに「生きる意味はあるのか」といった問題は、すべて意味と目的を欲する人間に付きまとう問題です。それは「ただ生きているだけ」という、物質をエネルギーにかえて生きている「生物的なレベル」では満足できないという問題。よってこの問いを洗練させていくには、社会的なものだけでなく、物質的なものも全て、一度除外しなければならないのです。

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『なぜ生きているのか』②

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 「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」という問いは、答えのない問である。よって問いに従って答えを探そうとすると、答えは見つからない。よって答えではなく「問い」をより良いものへ洗練させることで、そこに答えを見出す。これが前回見えてきたものの見方です。では一体どのようにして問いを洗練させればよいのか。
 そもそも洗練とは何か。洗練とは不必要な部分を削り取り、より完結で明確なものへ仕上げていくこと。それは部屋を綺麗に掃除するようなものです。埃やゴミなどの不必要な要素を捨てて、物質を用途に合わせて整理する。これに習い、問い中から不必要なものを排除して、機能に合わせて整理整頓すればよいわけです。
 まず「なんのために生きているのか」という問いに不必要なものはあるか。それを発見するためには、この問いのそもそもの意味を把握する必要があります。「生きている」とはいかなることか。この「生きている」には複数のレベルの意味が混在しています。生物的な意味、社会的な意味、そして個人的な意味などです。そして「なんのために」にもおなじ複数の意味が重複混在している。生物的、社会的、個人的な目的です。
 そこでまず、「なんのために」の前に「社会的」という言葉をつけてみます。「私は、“社会的な”何のために、生きているのだろうか?」。一見して前より複雑で分かりにくくなりましたが、掃除が完了する前は一度散らかるものです。先の問いを別の言い方で言うと、「私はいかなる社会的目的のために生きているのかしら?」となります。「社会的」を「個人的」に変えると、「私はいかなる個人的目的のために生きているのかしら?」となる。「なんのために生きているのか」という問いは、一見して明確なようで実は、このような複数の問いが重なっている。これは「なぜ生きているのか」という問いも同じです。よって問いの洗練に必要不可欠な作業は、「意味のレベル」を確定するということなのです。

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『なぜ生きているのか』①

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 なんのために生きているのか。自分に生きている意味はあるのか。このような問いを自分自身に投げかける時がある。早い人では小さいころにそれを考え始める。あるいは思春期に、あるいは大人になって目的を達成したあとに。「なぜ生きているか」といった根本的な問いは、一般に「答えの出ない問い」だと言われています。しかし問えるのであれば、やはり答えがあるのではないか。
 答えのない問いは「問い」なのか。いや、答えがあるからこそ問いがある。ただしその答えが一つでない場合もある。「なぜ生きているのか」という問いの答えは、直感的にいって一つではなさそうである。ハイデガーという哲学者が「問いの中には既に答えがある」という事を言っています。つまり答えが無意識にでも分かっているから「問い」を作ることが出来る。
 「問いは答え」だとすると、「なぜ生きているのか」という問いの中に答えがある。もしよくわからない場合は、問いの立て方に問題があるのかもしれない。評論家の小林秀雄は「上手い問いを作ればそこに答えがある」と言っています。やはり問いと答えは表裏一体であり「綺麗な問いは答えである」と言えそうです。
 「なぜ生きているのか」あるいは「なんのために生きているのか」、さらに「どのように生きるべきか」。このような根本的な問いの答えは、答えを発見しようとすると出てこない。「答え」ではなく「問い」の方を洗練させていく。つまり答えとなりうる「綺麗な問い」を探す。ちょっと分かりにくくなってきましたが、とにかく「問い」に従って答えを探すのではなく、前提となる「問い」を、より良いものにしていく。問いに支配されずに自分が問を「創る」。どうやら根本問題の答えは、クリエイティブな作業によってのみ、見出されるようです。

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『植え替えの時期』

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 鉢植えの植物を育てる。陽の光と十分な水を与えることで、植物は葉を広げどんどん成長していきます。それとともに根っこも伸びていき、水や土から栄養をたくさん吸収するようになる。しかしやがて根が充満するときが来ます。もしそのままにしておくと、その植物は調子が悪くなり、最後には枯れてしまいます。成長することが自分の存在を殺してしまうというパラドクス構造が出来たからです。
 植物が成長すればするほど枯れてしまう。このパラドクス構造を作らないようにするためには、根が充満するまえに、より大きな鉢へ植え替える必要があります。根が成長するために必要な空間(余白)を作り出すということです。鉢に根以外がない状態(自分で充満した状態)では栄養を吸収することはおろか、自分によって押しつぶされてしいます。それを回避するために、外部世界を広げる必要があるということです。
 より大きな鉢へ植え替える。あるいは庭へ移し替ええる。そうすると根は自らを押しつぶすこともなく、肥沃な土壌から水と栄養をたくさん吸収し、元気に育っていく。成長することで自らを殺すということもありません。このように一つの方向への発展には必ず限界があり、発展を続けていくためには、外部世界を適切に変えていく必要があります。これは人間も同じで、揺りかごで永遠と過ごすわけにはいかないのです。
 実はこれは、物理的なことに限りません。一つのものの考え方、あるいは行動や計画は、ある時期まで有効でありながらも、ある時期からは前進が自らを圧殺する方向へと向かいます。いわゆる形骸化という言葉は、この発展の折り返し点をすぎたという意味です。考えや行為の有効性が感じられなくなった時は、植え替えのサインです。植え替えとは自己を包み込む空間を広げるということ。つまりそれは自己の世界観を押し広げるということです。
 自己の世界観を広げるということは、言い換えると、今まで取り入れてこなかった(或いは避けてきた)考え方や発想、価値観などを取り入れるということです。そうすることで、「これまで通り」の継続が自己を圧殺する、というパラドクス構造を回避できる。もちろん慣れ親しんだ状態や環境を変えるにはエネルギーや勇気が必要です。怠惰の病がそれを邪魔することもある。しかし環境をかえなければ自己が押しつぶされることは確実です。
 植え替えのサインとともに環境を変える。物理的には場所を移動してより自由で余白のある空間に身を置く。精神的には、これまで避けてきた新しい考え方や価値観を受け入れ、自分の世界観を押し広げる。それに必要なことは、重い腰をあげるエネルギーと勇気です。形骸化が進めば負の構造から出ることが難しくなる。慣れ親しんだ世界と心中するよりも、次の世界でのびのびと成長する方を選ぶ。この天秤をイメージして未来に賭ける勇気があれば、そこに見事な花が咲く可能性があるのです。

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『二つの理解』

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 物事の理解の仕方には二つあります。一つは「受動的な理解」です。たとえば、子供が親から「赤信号は渡ってはいけないよ」と言われ、それを理解するというもの。もう一つは、「能動的な理解」です。子供が赤信号を渡ろうとして人とぶつかり、だから「赤信号は渡ってはいけないのだな」と理解するというもの。前者は親が一般化して言葉という情報に変換したものを、ただ鵜呑みにする理解です。後者は事実から一般法則を自分で導き出し、頭の中で言葉へ変換して得られた理解です。二つの理解は同じ「赤信号は渡ってはいけない」へ行き着きますが、それまでのプロセスや経験が全く違います。
 一般化されたものや情報化されたものを鵜呑みにするのが「受動的な理解」。自分自身で物事の一般法則を感じ取り、情報化しながら理解するのが「能動的な理解」です。前者は機械的な理解であるという意味で、ロボットにも可能です。後者はより複雑な理解なので、AIが超えるべき指標であり、その意味では人間らしい理解の仕方だと言えます。
 二つを「情報の鵜呑み」と「経験的な理解」と言い換えるならば、前者の理解方法は、情報の前提を問うことがないので、騙されやすい人間を作り出します。後者は経験を吟味するプロセスがあるので、騙されにくい。理解の仕方は学習方法の根幹ですが、ただの暗記や詰め込み式の学習法は「情報の鵜呑み」型であり「受動的な理解」のみを発達させる教育だと言えます。「経験的な理解」を育てる学習法は、鵜呑み型よりも複雑で手間がかかる教育システムが必要です。さらに管理する側からすれば、「鵜呑み型の人間」が多数であるほうが具合がいいはずです。
 人間が真の意味で、人間らしい能力を発揮するには「能動的な理解」を発達させる必要がある。これは明らかなことです。「経験的な理解」の蓄積によって、予想外の事態にも対応できる思考が形成されます。しかしこのような「能動的な理解」を発達させる環境が、日々失われてきているのが現状です。現代の理解はネットによる検索で済まされることが多くなっています。つまり誰かが一般化して文字情報にしたものを鵜呑みにする理解が多数を占めている。これらの理解が全体として社会を動かしている。社会は全体として一般化し、社会自体が新しい局面を乗り切る力を失いつつある。
 「情報の鵜呑み」に対する「経験的な理解」には「主体」が必要です。物事に対して「主体的に関わる」ことで、その経験が自分のものとなる。主体的な関わりがないものはすべて「受動的な理解」に留まります。この主体を育てなければ、結局はなにをやっても物事との積極的な関わりが生まれない。その「主体」とは「一般」や「標準」、「平均」といった概念の逆数にあたる観念です。「主体」とは一つであり、それ以外「他」ではないものです。学習や教育は「一般化した情報」や「共有すべき情報」を理解させるという目的があります。しかしその理解の根幹が「一般化できない主体」(個性)によってしか能動的になされないという逆説がある。その逆説をもう一度問い直し、新たに教育や学習の現場に組み込む時期に来ています。情報化社会の負の側面と共に、個性に即した学習や教育の在り方が、いま問われているのです。

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『現実と仮想』

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 現実に対する仮想とは、アナログに対するデジタルという比較です。アナログは物理的な現実であり、空間的、物質的で、しかも変化するものです。それに対するデジタルは仮想であり、非空間的、非物質的であり、その中は変化しません。変化しないということは、時間がないということでもあります。
 現実と仮想の最大の違いは「変化」があるかないか。さらに「時間」があるかないかです。例えばデジタルの花の映像は揺れ動く。変化や時間がそこにあると言う人がいるかもしれない。しかし映像の花は決して枯れない。物理的な変化がありません。あるのはコーディングされた動きだけです。よって前に戻ることができる。現実は過去へ戻ることが出来ません。変化が連続的に上書きされ続けるだけです。
 現実を情報化し、仮想で扱うと便利です。変化せず操作しやすく、非物質のために場所もいらず、複製や加工も簡単です。いまや社会はこの仮想における情報操作で成り立っています。しかし現実の世界は、仮想のように簡単に物事を進めることが出来ません。ここに現実と仮想の間の大きなズレがあります。もし仮想での認識を生きる基準とすれば、現実世界とのズレから問題が起こります。
 仕事やプライベートにおいて、いまは仮想に接する時間が、現実世界に接する時間を上回っています。そうすると、無変化で無時間的な脳のまま、現実を生きることになる。たとえば植物を育ててもなぜか枯らしてしまう、ということが起こります。変化に対応できない。三次元の変化を五感で把握できないからです。ディスプレイは二次元であり、どれだけリアルな画像であっても、ピクセルと座標認識のみです。そこに人間の複雑な感性の能力は必要ありません。
 水彩で絵を描くとき、水の中を絵具が広がっていき、意図しない美しいニジミが出来ます。現実の変化はあまりに複雑すぎて、完全に予想することはできない。ある程度の経験則で、理想の絵をかたち作っていく。それは物理的な変化を、五感で感じながら描くことで達成されるものです。それに対するデジタル絵画は、ニジミが出来るとしても、それはあらかじめコード化されたパターンの一つです。よって失敗すれば戻ることもできる。とても便利です。しかし、それは現実ではありません。それはシミュレーション(模倣訓練)なのです。
 コンピューターによる仕事は、どんなものであれ仮想の作業であり、その意味では全てコンピューターのシミュレーション(模倣訓練)と言えます。シミュレーションと現実を混同すると問題も起こってくる。シミュレーションの達人と実戦の達人の違いは、複雑に変化し続ける情報を、五感を統合する感性で高速処理できるか否かの違いです。この違いは絵を描くときであれ、飛行機の操縦であれ同じことです。現代はこの大きな違いを見失いつつあるのです。

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