『数は質を生むのか?』⑤

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 オリジナルを手本とする模倣には「歴史」がない。それに対してオリジナルから離れていく「模倣の模倣」には歴史が含まれる。前者は「完全模倣」であり「オリジナルのコピー」が目的であるがゆえに進化の可能性はゼロです。後者は「歴史的な生産」であり「変化を許容した模倣」であるがゆえに進化の可能性がある。二つは同じ模倣生産のようにみえて、実際は全く別次元の生産プロセスです。
 「歴史的な生産」の次元に進化の可能性がある。この進化を促す「突然変異」は作為的に作り出すことは出来ない。もし作為的に、或いは表面的に「別レベル」のものを作ったとしても、それはただ進化を装っただけで、歴史的必然が作り出す「変化」とは違ったものです。具体的にいえば、本物の進化は形態が完全に上書きされて、以前の形態へは戻れません。それに対して進化を装った形態は、依然として同じレベルでの「偽装したバリエーション」にしかすぎません。
 ある訓練の繰り返しが「歴史的な生産」の次元にあれば、そこに進化の可能性が発生します。それに対して「オリジナルのコピー」を目的とする訓練には進化の可能性がない。進化するためにはまず「進化の可能性」という終着駅のある線路に乗る必要がある。そして「歴史的な生産」の訓練を続けることで「内的変化」が繰り返されていく。これは「可能性の組み合わせ」を行っているようなものです。この「可能性の組み合わせ」は「機械的な反復」では発生しない。機械運動はただの反復であり変化ではないからです。歴史的な生産を行うためにはまず「主体的」でなければなりません。主体性の発揮によって、一回性の歴史が作りだされていくことが「変化」であり、そのことが「未来の可能性」(進化)に繋がるのです。
 「歴史的な生産」は、「オリジナルのコピー」(自己参照)というパラドクス構造から解放された自己が、“主体的に”生産に関わることで可能となります。訓練による進化とは、訓練してできたものではなく、訓練する「主体」が進化するということです。その主体がその訓練に対して積極的に関わるからこそ「歴史的な生産」が行われる。そこに「ランダムな突然変異」の可能性も生まれるのです。つまり主体が積極的に関わることで、進化の可能性は格段に高まるのです。

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『数は質を生むのか?』④

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 数が質に繋がらないのは、数が複製的なコピー増殖だからです。大量生産されるものは一挙に数が増えても全てコピーであり、全体としては一種類です。このような数の増殖の展開に進化は発生しません。つまり増殖しているものの「内的変化」がない。むしろ「内的変化」を禁止することでコピーとしての数の増殖が可能となります。もしコピーではなく別種のものを生産すると、それは常に「新しい一つ」であり数としての増殖ではありません。
 例えばオリジナルを模倣して、さらにそれを別の人が模倣したとします。すると少しずつオリジナルからズレていきます(コピーのコピーは劣化する)。この場合は生産されるほどにオリジナルとは別のものが出来る。どれも新しい一つであり、同じものが増えるわけではありません。このような「別種のものの連続性」の中には変化があります。しかし常にオリジナルを手本とした、まったくズレや劣化のない模倣には変化がありません。ここに「進化のある世界」と「進化のない世界」の区別があります。
 別の側面から言うと、常にオリジナルを手本とする模倣には「歴史」がありません。それに対してオリジナルの手本から離れていく模倣の模倣には「歴史」が含まれます。模倣するたびに一回性の時間と機会性が含まれていく。この二つは似ているようで別次元の生産プロセスです。つまりオリジナルを手本とする模倣は、無機的で無変化、無時間的であるがゆえに進化の可能性がない。それに対してオリジナルの手本から離れていく模倣の模倣(歴史的生産)には、時間的、空間的な変化があり、突然変異的な化学反応の余地があるということです。よって「歴史的生産」の連続は、オリジナルを手本とするコピーのように「数を増やす」ということにはならない。数ではなく、毎回違った「質」を増やしているのです。
 数が質を生まない理由はここでハッキリしてきます。数は現状維持でありその生産過程は無機的、無時間的、無空間的です。そこに質的な昇華の可能性はありません。それに対してオリジナルから離れていく「歴史的生産」は、時間的、空間的な変化があり、そこにランダムな突然変異が起こる可能性がある。この世界にしか進化は発生しません。保守が進化を阻害するのはこのためです。「歴史的生産」の世界にのみ進化の可能性がある。この進化の可能性は全くランダムで制御できないものなのか。私たちは進化をただ偶然に待つしかないのでしょうか。

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『数は質を生むのか?』③

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 生物進化は「突然変異」がランダムに起こり、結果的に環境に適した形態が残っていく。人間が訓練によって何かを会得する時は、それまでの訓練のレベルが「経験的に理解」(認識)され、そのレベルから解放されることで質的な向上が発生する。つまり生物進化という物理的な「質的転化」はランダムに起こり、人間の精神的な「質的転化」は「認識」によっておこるという事です。
 この理解から自然を擬人的に見れば、自然が新しい認識を持った時に、「質的転化」が起こることになります。逆に人間の精神的な「質的転化」はランダムな「突然変異」によっておこる。やや非科学的な見方ですが、演繹が困難な事象にたいしては形而上的なレベルでの暫定的な解釈が有効です。そもそも「ランダムに突然起こる」という発想は非科学的ですが、自然科学の分野でさえそのような「形而上的な辻褄合わせ」で体系を保っています。よって自然が認識し、精神がランダムな「突然変異」によって進化する、という視点も導入しておきます。
 自然であれ精神であれ「突然変異」は認識によっておこり、その認識の仕方はランダムである。つまり一般的にパターン化されえないとうことです。言い換えると認識は個々によりさまざまなタイミングがあるということです。ただし認識に到達する条件がある。その条件がないところに認識と「質的転化」はないということです。魚が進化せず魚のまま生きる世界と、魚がエラ呼吸を捨てて陸に上がる世界は別の世界に属しているということです。
 進化のある世界と進化のない世界がある。二つは似て非なる別の世界です。もちろん生きている環境(場所)としては重なっているが、次元が別なのです。たとえば、同じ世界に生きていても、考え方や認識、持っている世界観が違うと、まったく違う世界に生きていることになります。たとえ言葉を交わしても、理解の仕方が違うと、それはもう別の世界に生きている事と同じなのです。自然であれ生物であれ進化のある世界と進化のない世界があり、その二つは場所的には同じでも「質的」には違うのです。ではいったい、この二つの世界を区別する方法はあるのでしょうか。

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『数は質を生むのか?』②

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 数と質は別のレベルに属するものであり連続していない。ゆえに数を増やすことは、そのレベルを固定することになり、逆に質への転化を阻害することになる。このような構造を見る限り、数が質を生むとは考えられません。しかし数が減ると最後には消滅してしまいます。その意味では数はそのレベルを維持するために必要だと言えます。
 数はあるレベルを維持するために必要である。よって数を目的としているうちは質への転化はありえません。同じ質のものを生産し続けても、そこから上質のものは生まれない。ならば質への転化はどのようにして起こるのか。低質が高質へと変化するためには、数によって維持しているレベルを捨てなければなりません。魚が魚であることを捨てたときに両生類へと変化できる。今のレベルを正当化しているかぎり進化はないのです。では「捨てる」ということはどういう事でしょうか。
 自分自身を捨てる。そして新しい質を得る。この二つは同時に起こります。しかも漸次的ではなく一瞬で起こる。例えばキリンの首が少しずつ長くなったことを示す、考古学的な証拠は存在しません。それは漸次的にではなく一挙に進化することを示しています。キリンの前身にあたる動物は、そのレベルを維持するために数を増やし続ける。そしてある瞬間から首が長くなりキリンになる。数が進化の原因ではありません。生物進化は遺伝子の「突然変異」として説明されています。その変移はランダムに起こり、結果的に環境に適応したものが残る。突然ランダムな変移が質を向上させるというわけです。
 しかし何かを練習してレベルが上がる時、その原因がランダムに与えられるということはありません。何かの訓練でいえば、その訓練で会得し理解した瞬間に、その訓練のレベルから「解放」される。つまり訓練しなくても出来るようになる。この時点で以前の質は捨てられる。そして新しい質的レベルに入ります。このキッカケはランダムに与えられるものではなく「経験的な理解」(認識)によって起こります。もし自然を擬人的に捉えるならば、自然が状況を「経験的に理解」(認識)したときに「突然変異」が起こると言えるのです。

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『数は質を生むのか?』①

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 数は質を生むのか。これはあらゆる領域に横たわる普遍的なテーマです。よって漠然としたゴールは直感しながらも、細部は不明なまま、論考を進めることになります。つまり行き先が分かって進む「決定論」を捨てて、未知の領域へと分け入るということです。実はこのプロセスと今回のテーマは本質的に重なっていると思われます。その直感を順を追って証明しいく事にしましょう。
 まず「数」とは何か。「数」とは抽象概念であり、実体ではありません。三人は3に置き換えられますが、実体として三人が先にある。5つのグラスは5個の実態を5という数字に置き換ることができる。さらに数には123…と順序があります。抽象的な規則性がある。それに対して「質」には実態を置き換えることも、抽象的な規則性もありません。「質」とは内容であり、本質であり、純度のようなものです。
 たとえばリンゴが3個あるとします。数としては3に置き換えられます。しかしその中の一つが腐っているとします。するとそのリンゴの「質」が悪いと言います。内容が悪く、純度が低く、本質的でない状態です。「数」はそういった「質」を無視したカウントにすぎません。この二つの概念は全く別種のレベルに属するものであり、決して連続してはいません。
 よく「数が質を生む」という言葉を耳にします。練習をたくさんすることで何かが上手くなる。たとえばテニスや書道や小説の訓練など。しかし本当に「数」を増やすことが「質」に繋がるのでしょうか。必要な技術や知識の「数」を増やすことが「質」の向上なのでしょうか。もしそうなら進化の過程で、魚が繁殖し「数」をどんどん増やすことが進化に繋がることになる。しかし魚は現在も魚として存在し続けています。魚から進化を遂げた生き物は「別の方法」によって枝分かれ的に進化しているのです。
 進化とは「質」の向上です。進化の「質」を段階に分けることで、魚類から両生類、爬虫類から哺乳類という「質的段階を見ることが出来ます。しかしこの段階の間には断絶があり連続していません。魚が「数」を増やすだけでは一向に両生類にはならない。なぜなら魚が「数」を増やすことは、魚のレベルを固定することだからです。ここに「数」を増やすことのパラドクスがあります。進化や質の向上からすると、「数」を増やすことはむしろ逆行を意味することになるのです。
 

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『出口のない迷路から脱出する方法』⑥

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 出口のない迷路から見えてきた月と、そこから発見した「相関性の原理」。入口と出口が重なり見分けがつかなくなった時、その構造はパラドクスとなり「内側しかない世界」となります。迷路の住人が外の世界と関係が切れたとき、あるいは外を否定し内部だけを肯定したとき、その構造は閉じて出口を失う。つまり外と内の相関性が失われた時、迷路は出入口を失い、脱出が不可能になるということです。
 迷路の外と内の間に相関性が失われた時に、迷路は出口なき構造となる。ならば再び外と内の間に相関性を作り出すことで、出入口が現れるのではないか。相関性は類似点を言葉や数字で括ることで生まれる。逆により小さな違いを分類することで、相関性の原理を免れると書きました。つまりそれまでは迷路の外側が「外」であり世界の「全体」であった。しかし迷路に入り込むうちに、迷路の外側が忘れ去られ、内側だけが世界の全てになってしまったのです。
 「資本主義的な相関性」から免れる方法は、数字や言葉による括りよりも、物事のリアルな「違い」に目を向け、注意深く分類を行うことでした。これとは逆に、出口のない迷路から脱出する方法は、外と内の相関性を取り戻すことです。つまり外と内が相関するレベルまで、内的に細分化した世界観を、大きく俯瞰して「全体を取り戻す」こと。そのためには細部を省略し、より大きな塊を全体として認識する必要があります。顕微鏡のレベルで世界を見ている限り、迷路の外と内が相関することはないのです。
 細部を省略し、より大きな塊を全体として見る。その全体をまた一つの分子として考え、その分子の集合体としての全体を見ていく。つまりマクロ的な視点を導入していく。このように「ミクロ視点からマクロ視点へのターン」を行うことで、迷路の外が見えてきます。この時点で迷路の内と外の相関性も回復される。出入口を探すまでもなく、私たちはすでに迷路の外に脱出したことになります。
 資本主義的な負の相関性は「マクロ視点での記号化」(共通概念による括り)と「貨幣経済」が無謀議に結びつくことで発生しています。この「マクロ視点」と「相関性」という所では「迷路の脱出方法」と重なります。しかし資本主義的な「負の相関性」は言葉や数字による記号化が要です。そのことによって形骸化という大問題を引き起こしています。それに対する迷路の脱出に利用した「マクロ視点」の導入は、「イメージによる相関性の回復」に他なりません。私たちは数字や言葉を超えた「イメージを思い描く力」(想像力)を使うことで「記号的に不可能と思われる構造」を超えていくことが出来るのです。

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『出口のない迷路から脱出する方法』⑤

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  相関し合わないものが言葉によって相関してしまう。それは細部の「違い」を無視して「類似部分」だけで物事を括ることで強固となる。さらにその括り方や共通項の選択は恣意的である。ちょっと複雑な見方ですが、ようは物事の共通部分に注目したもの同士が相関するということです。逆にそれぞれの「違い」に注目すると物事は相関性から免れる。
 相関性から免れるということは、他とは影響せずに独立であるということです。魚の種類分けを細かく行うことで、それぞれは独立していく。それらを一括りとするのは「魚」という言葉である。しかし言葉よりももっと強力な括りがあります。それが「数」です。数はすべてを同列のレベルに還元してしまう。魚も鳥も全て数字に置き換えてしまえば、どんなに違うものでも相関してしまうのです。
 魚と鳥が相関すればそこから奪い合いも起こる。本来は相関せずに争いも起こらないはずの事象が混乱していく。数字は便利である反面、世界に争いをもたらす原因ともなっています。言葉にしても数字にしても、社会を円滑に機能させるためには無くてはらなない概念です。その意味では社会を成立させる条件である「記号化」が、争いの原因であるというパラドクスがここにあります。
 数量化によって成立した社会がそこに「貨幣」という発明を利用することで、現在の資本主義は成立しています。現代ではお金こそが全てを等質な価値に還元してしまう魔法の尺度です。本来は相関するはずのないものたちが、あらゆるものと相関「させられている」という状態です。人々は奪い合い、争い合う。そこから得た利益がさらなる資本主義の原動力として投じられていくのです。

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『出口のない迷路から脱出する方法』④ 

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 「負の相関性」を阻止するには物事を「適切な階層へ分ける」必要があります。しかしそれを邪魔する者がいます。それは言葉です。例えばサバやイワシという種類が「魚」という上位概念でしか認識されなければ、この二つは「同じもの」として扱われます。つまり「魚」という言葉の括りによってサバとイワシは同じ世界に並列されてしまいます。エレベーターで言えば1階2階という「階層の“違い”」が「フロア」という上位概念で認識されることで、階層の違いは同じものとして扱われ、そこにパラドクスが発生することになります。
 言葉は世界を文節化して対象化し、名前をラベル貼りして出来たものです。海に住む生物のある特徴のものを「魚」や「fish」と名付ける。そして共通了解へと至る。この言葉が、細部の違いがある「実体」より先行すると、物事の階層分けの邪魔をすることになる。サバとイワシは同じ魚ですが、より詳しく見ると種類が違います。逆により大きな括りでみると同じものになる。魚であり、生物であり、食料になるものであり、お金になるもの、などです。
 細部の違いがある「実体」を無視して、大きな括りだけで捉えると、別々の階層にあるものが、同じレイヤーへと結合されてしまう。そうすると相関しないはずのものが相関することになってしまう。逆に、相関しているものたちの違いを発見し、分類することで相関を回避することができる。つまり「同じ所」に注目すると相関し、「違う所」に注目すると相関を回避できるということです。より平易に言えば、「仲間の条件」で括れば相関し、「仲間ではない条件」で括れば相関しないのです。
 ここで重要な問題は、それぞれの関係を「仲間の条件」で括ることも「仲間でない条件」で括ることもできるということです。つまりそれぞれの関係を相関させるか相関させないかは、恣意的な次元にあるということ。どちらが正しいとか、決まっているとかいったことはないのです。もちろん物理的な世界の物質は「押せば動く」という相関性がみられ、物理法則として決まっている。恣意的ではありません。しかしそれも物質の「位置」という視点で括っている時の相関性であり、「重さ」の視点ではお互い無関係です。その意味で、相関性は予め決まっていないと考える「相関の恣意性」は、視点や条件、括り方が恣意的(自由)であり、それらは主体的に決定することが出来る、ということなのです。

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『出口のない迷路から脱出する方法』③

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  「相関しない」とはお互いが関係のない世界にあるということです。シーソーや月の例は、「相関するはずのものが相関しない」例でした。これとは逆に「相関しないはずのものが相関する」現象もあります。たとえば漁師Aが魚を海で捕っている。その同じ海で、別の漁師Bが魚を捕る。すると漁師Aが怒る。海の魚が減るので自分の取り分が少なくなるというわけです。つまりAとBは相関しているという判断です。しかしAがサバをBがイワシを捕っているならば「相関しない」ことになります。その場合二つの世界は重なっていない。
 同じ場所で、同じ魚を目的としていても、お互いに相関しない関係が成り立つ。つまりレベル(クラス)が違っていれば、同じ場所で同じ振る舞いをしていても相関しない。綱引き(奪い合いや縄張り争い)にはならないということです。しかし現実社会はレベルが違うものを、相関していると思い違いをしてしまうことがよくあります。その結果、無用な争いが生まれることになる。しかし本当は相関していないので、現実と辻褄が合わない行動を繰り返すことになり、問題は逆に増えていきます。
 別々のレベルのものを同じレベルであると混同すると、そこに「パラドクス」が発生します。たとえばエレベーターを真上から見ると、どの階(レベル)に行っても同じ場所へ出ることになります。階層を無視(混同)すると「無限のループ」から出られなくなる。実際には違うレベルのものを、誤って相関させることは、エレベーターの階層を全て同じ階とみなすことと同じです。このような誤った相関性はパラドクスを発生させる原因であり、問題の解決を不能にする最も典型的なパターンです。
 サバ漁師Aが、誤ってイワシ漁師Bを同じレベルであるとみなす。するとそこに誤った相関性が出来ます。相関していないものを相関しているとみなすので「負の相関性」です。サバ漁師Aはイワシ漁師Bへ文句をいい、最後には言い争いになる。これは無意味な争いです。世界中で起こる争いの多くが、このような無意味な争いである可能性が高い。違うレベルのものを混同して「負の相関性」に支配されて争う。戦争すら「負の相関性」によって引き起こされます。物事を階層に分ける作業を怠ると、無益な争いが起こってしまう。よって、「負の相関性」が出来ないように、物事を「適切な階層へ分ける」作業が必要になります。しかしそれが思った以上に難しい。なぜ難しいのか。それは階層分けを邪魔する者がいるからです。では階層分けの邪魔をする者とは、一体何なのか。

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『出口のない迷路から脱出する方法』②

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 出口のない迷路に迷い込んだ時、どのようにしてそこから脱出すればよいか。その方法を考察していくうちに、いつの間にか迷路のイメージに入り込んでしまいました。出口のない構造とは外部との繋がりが断たれているとう事です。外部との繋がりのない場所へ、人はどのようにして入ることが出来るのでしょうか。夢のように「いつの間にか」閉鎖構造へ入ってしまうのか。
 夢はここからが夢です、という境目が分かりません。いつの間にか入っている。これと同じように出入口が塞がれた迷路(例えば出られない泥沼の状況)にも、いつの間にか入り込んでいる。一見入ることが出来ない所へ入ってしまうという意味では、まさにマジックのような現象です。しかしマジックには必ずトリックがあります。ならば出口のない迷路への侵入にもトリックがあるはず。それを発見していくことが、「出口のない迷路」から脱出する方法へと繋がっていくことになります。
 迷路の考察からいつの間にか入り込んだイメージ。高い壁に囲われた迷路と、夜空に現れた月。そこから認識された「相関性の原理」。閉鎖構造に入るためのトリックを、月の視覚的イメージより導き出した「相関性の原理」の視点から発見していくことにします。そのためには、「相関性」についてもう少し考えてみる必要があります。
 まず「相関している」ということは、お互いが「同じ世界にいる」ということを示しています。たとえば、同じシーソーに乗っていれば、片方が上がり、もう片方が下がる。もし別々のシーソー(別々の世界)に乗っていれば片方が上がっても、もう一人に影響はありません。これは当たり前のようで、かなり重要なことです。月の光と影は同じ世界にある。別の言い方をすると、同じ次元にあるということです。
 では、もし別々の場所にある二つのシーソーが、「同じ位置」に重なっていたらどうでしょうか。その場合は、片方が上がっても、もう片方は動かない。イメージするならば、片方はゴーストのように透けて動かない。実際に物質を同じ位置に重ねて存在させることは、三次元の世界では不可能です。しかし物理学の世界では四次元の世界が認識されていて、同じ位置に物質を重ねることが出来ます。そこでは同じ世界にあるものが、相関しないという現象が起こる。月の光が減っても、影は一向に増えていかないのです。

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