『美しく育つ環境』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga
 鉢植えで植物を育てていると、なんとなく調子が悪いものに気付きます。すぐに枯れていると分かるのではなく、成長が遅くなったり葉の形が小さくなったり退色したりという変化です。この状態を放置していると最後は枯れてしまいます。これは鉢の中に根がパンパンに張って鉢をおし広げようとしている状態です。こうなると根は“窒息”し水はけも悪くなる。つまり適切な成長には、植物の苗に見合ったサイズ(大きすぎてもよくない)が必要だということです。
 これは植物だけに限りません。成長に関わることには適切な器(質)とその大きさに見合ったサイズが必要不可欠です。もし成長が遅すぎたり止まっていたり、あるいはマイナス(たとえばヤル気が出ないなど)になったとすると、それは器(環境)に問題があると考えられます。器が小さかったり、偏っていたり、古くて壊れかけているものも良くありません。このように成長の鈍化や問題が器(環境)のほうにある場合も多いのです。
 植物の根は水や栄養を吸収する大事な役割があります。根がやせていたり問題があると、それは全てに影響します。美しく育つ植物は根がしっかりと健康ではっています。もちろんそれには日光や水といった要素が不可欠です。それと同時に植物の根が健康に成長する環境が大切です。成長に見合ったサイズへ器を変えていく。この概念があるかないかで成長は随分とちがいます。根は隠された成長の基盤です。その根に適した環境選びこそが大事なのです。

AUTOPOIESIS 250/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ サイト→『Green Identity』

『猫が行方不明』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga

 メイクアップ・アーティストのクロエは、異性に無関心な男性と同居して日々を過ごしている。最大の友人はクロネコの「グリグリ」(仏語で灰色)。バカンスのため猫を預けることになり、その後猫が失踪することから物語が展開していく。

 主人公クロエは、男女関係という面倒を回避するために、異性に無関心な男性と同居生活を送っている。彼はクロエに対して女性的な興味を一切持っておらず、男女の同居が発展しない曖昧な構造で安定している。その状態を可能にしているのがクロネコ(名前の灰色も曖昧さを表している)の存在。クロエは猫に依存して生きている。しかしその猫がある日行方不明になる。捜索に乗り出すことで知り合いや経験が増えていき、物語の最後にはクロエは少しちがった女性になっている。依存対象から離れることで成長が始まるという、心理学的なプロセスが「パリの日常」で展開されるエスプリの効いた良作。

051「猫が行方不明」 1996年 フランス 監督:セドリック・クラピッシュ
AUTOPOIESIS 249/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『部分と全体』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga
 物事はすべて部分と全体で出来ている。人なら頭や体、足などの部分によって全体が出来ています。あるいは顔は目や鼻や口から出来ている。体の中だと心臓や肺といった部分によって全体が出来ています。当然ですが部分は全体の一部であり“全体のために存在する”ものです。よって部分が全体にとって代わることはありません。もし部分が全体にとって代わるとどうなるでしょうか。
 たとえば建物の部分である屋根がどんどん大きくなるとどうでしょう。最後には建物の全体が支えきれずに潰れてしまいます。あるいは生命活動の一部である「食べる」という部分だけが肥大化すれば健康を害するでしょう。さらに生活の一部である「仕事」を熱心にやりすぎて、生活が仕事に従うという逆転が起こると問題が発生します。このように、「部分が全体を侵食する」とあらゆる領域で問題が発生してきます。
 「部分と全体の転倒」は部分に熱心になりすぎて「全体を見失う」ことで起こります。その原因は「部分への固執」ともいえるし「全体からの逃避」ともいえます。あるいは全体のシステムにたいする責任から逃れるために、部分という歯車(部品)に“成りすます”ともいえるでしょう。人が人生全体よりもある事がらに執着(依存)したとき、あるいは集団が「人としての倫理」よりも組織防衛を優先したとき、あるいは生命活動よりも小さながん細胞が自己増殖を優先したとき、成長のベクトルは逆向きとなる。「部分と全体の関係」をチェックする仕事は、なにを差し置いてもなされるべき重要な仕事なのです。

AUTOPOIESIS 248/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『不安のない世界』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga

 春になると桜が咲く。それは毎年変わらない確かなことです。しかし開花日は毎年同じというわけではないので、細かく分けていくとあやふやになってきます。どこまでいっても確かなのは数学です。2+3=5が6になることはないので、どんなに複雑な計算になってもその正確な世界は変わりません。もし2+3=6になれば世界は不安に陥り混乱するでしょう。つまり確かなものに従っているうちは混乱は生じない。
 確かなものとは変わらないもの(動かないもの)です。その代表が数学でしょう。機械も正確さが特徴なのであてになる(しかしすべてを数字や機械に頼ると問題がおこる)。あてにならないものの代表は人間の心です。世間の価値は移ろいやすく、個人でも優柔不断な人がいます。分裂していれば都合次第で逆のこと(うらぎり)を平気でする人もいます。よって人間を基準としていては不安定になるともいえます。しかし人間の中でも確かなことがある。それは自分の個性です。
 個性はその人がどのように生まれ育ったかで決まる。そしてその根本的な性質を変えることはできない。ゆえに自分自身を知り受け入れることがあらゆる問題の解決策になる。なぜなら不確かで基準とするにはあいまいな人間の世界において、唯一確かなものだからです。これは絶対的なものを外にもとめる絶対依存症(不安の原因)の処方箋にもなります。自分の個性(根本的性質)という内なる基準を明確にし、それを表現し行動していく。そうすることで不安のない安定した世界が時間をかけて構築されていくのです。

AUTOPOIESIS 247/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『表現の受け入れ』

イラスト 古賀ヤスノリ Yasunori Koga

 表現とはなにか。それは自分のなかにあるものを外へ出して、他人に分かるようにすること。あるいは伝えたいことがあり、それを正しく表に出そうとすること。つまり、自分の中にあるだけでは、他人には伝わらず、それは結局のところ世界に存在しないことになる。だから表に出していくということでしょう。しかし表現には二種類あり、前述の「自分の表現」ともう一つは「他人の表現」です。「他人の表現」だと本当の意味での表現にはならない。たとえば「私は空が好きだと発音しなさい」と言われてそれに従っただけなら、それは「自分の表現」とは言わない。「他人の表現」です。
 表現とは「自分の表現」である限り自分のものであり、そこには責任も発生してきます。それに対して「他人の表現」に従うだけなら、その苦労はあれど、責任はなく気らくです。以前、作家の司馬遼太郎さんが「奴隷の気らくさ」と表現されていましたが、そのことをよく表しています。よって自分の表現を明確にすればするほど(個性をハッキリさせるほど)そこには責任も発生してくる。なので、自己表現を進めていくと責任が現れてきて、心のよわいひとはひるんで退却してしまうこともある。そしてまた別のことで同じことを繰り返すという現象がしばしば起こります。
 表現と自分自身が重なりをみせる。これは心理学的には「心の健康」が維持されている状態です。自分に嘘や偽りがなく、他人に対してもそうである。現実が受け入れられており、自己逃避の必要がない状態です。つまりその状態は自己表現とそこにある責任が正しいかたちで自分と接している。この心の理想状態を作るには、自己表現とそれに対する責任の受け入れが不可欠です。そしてそれを可能とする「心の安定」も、じつは自己表現の洗練と受け入れによって生まれます。ここには「自己表現」と「心の安定」が責任(自分のものとみなすこと)によって結びついた「円環」があるのです。

AUTOPOIESIS 246/ illustration and text by : Yasunori Koga
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YKアートコミューン →『YK art commune』

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