『無価値な表現』

イラスト こがやすのり

 人間には無意識がある。この無意識を人類が発見したのは19世紀後半で、フロイトが臨床例のもとに無意識があると仮定しないと辻褄が合わないと考えた。無意識とは「意識できない領域の総体」で、つまり「知らない自分」のこと。心の病はこの「知らない自分」に問題があると考え、そこを発見し治療していく。なのでますば「知らない自分」がいるということを認めることから始まります。つまり自分のことは全部知っているというスタンスは、のちに問題が発生するとも言えます。
 無意識は見えないので数量化できません。よって操作もできない。そこでフロイトは「夢」(夢は無意識が作り出す作品)に着目して「夢」に現れたメッセージを「象徴的に解読」していきました。今では箱庭を作りそれを解読することなども臨床の現場では盛んに行われています。この無意識の把握は、数量化による把握と操作で動いている現代社会が最も苦手とするところ。いわば盲点です。
 もし社会を一つの人格と考えるならば、盲点は抑圧の結果できるものです。パソコンやスマホにとっての抑圧部分は数量化できないもの。つまり無意識は全て抑圧されています。ゆえにそのようなコミュニケーションだけに依存すると心の病になりやすい。もし日頃から無意識を含めた表現を行なっていれば、抑圧に支配されて暴走をまねく確率は減ってきます。この「無意識の表現」は、数量化できないいわば社会的に「無価値な表現」といえます。しかしその「無価値な表現」こそが人々の精神を救っている。この逆説に気付き、注目すべき時代に入っているのです。

AUTOPOIESIS 229/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『ビギナーズラック』

イラスト こがやすのり

 初心者がプロよりも良い結果を出すことが往々にしてある、という意味のビギナーズラックという言葉があります。この言葉は運が味方をしているというニュアンスがありますが、実際はどうなのでしょうか。熟練のプロに初心者が勝ってしまうということは、知識や技術といった経験則を越えた「直感的な振る舞い」がダイレクトに出た結果と言えそうです。
 直感は技術や知識に勝る。このことはあらゆるジャンルに言えることです。たとえば数学者は証明に何年もかかる定理を直感で発見するといいます。もし本当にそうであるならば、物事は知識や技術以上に、直感を鍛えることこそがすべての土台(基礎)と言えるのかもしれません。しかし知識や技術に比べて直感は明示化できないので、鍛える方法が一般化されていないのが現状です。
 熟練の知識や技術を越えるような直感を身に着ける。そのことによってビギナーズラックが生まれる確率を高いレベルで維持する。しかしそれは運ではなく直感を利用した実力だと言えます。たとえば子供が描く絵は、大人の知識を技術を越えた美しさがあります。しかも偶然ではなく連続して描ける。これはビギナーズラックが基礎としてある証拠だと言えます。大人はその能力をむしろ知識と技術を獲得することで失っている。子供は最初は絶対音感をもっているという説も同じでしょう。ドレミをやっているうちに消えてしまう。こう考えると、大人が失ったものは「子供ごころ」だけでなく、ビギナーズラックを生む直感能力も失っている。知識や技術を一旦カッコにいれて直感を鍛えることで、その能力が回復する可能性はまだ十分にあるのです。

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『日常のこと』

イラスト こがやすのり

 自ら「絵描き」と名乗っているくらいなので日々絵を描きます。絵具を使わない日はコピー用紙に1,2枚ほど線画や落書きを描く。この絵を描くこととは別に習慣になっているものがあります。一つは「ものを考える」ために書いて考えるということです。これもコピー用紙に文字を連ねていく。途中でイメージが湧いたらラフや図を入れたりもします。そしてもう一つは本を読むことです。このインプットがないとなかなか考えは発展していかない。また自分の考えが独善的かどうかの比較もできなので本を読むことは大事です。
 読む本のジャンルは考えを助けてくれる哲学書や学術書が中心です。しかし息抜きに小説を読んだりもします。ヘルマン・ヘッセやカフカ、ドストエフスキーといった有名どころからSFやミステリーも好きで読む。この息抜きに読む本が、かえって哲学的なヒントをくれることもあります。たとえば、最近読んだSF小説で、人類の最も人類らしい所は、誰かが死にかけていたら、大勢の手を借り出してでも助けようとする所で、一人に対して大勢という非対称な行為もいとわない。これが他の動物と違う所だという内容のことが書かれていました。これを読んでなるどなと思い、逆に他人を押しのけ、他人を利用して自分だけが利益を得ようとする行為は、先の行為の真逆であり、それは「まだ人間ではない」のだなという考えに至ったのでした。
 このように「考えるための本」ではないものに考えさせられる、といったことが良く起こります。逆に哲学書に文学的な面白みを感じることもあるし、人生を生き抜くためのハウツー本のように読めることもあります。こう考えるとカテゴリーを越えてキャッチできる情報こそが、名著である証なのかもしれません。これはつまり、他のジャンルへ応用できる考え方(あるいは方法論)であればあるほど、それは普遍性の高い考え方だということです。そしてこの普遍性は多様なジャンルを重ねた時に、特に重なりの大きいところに潜んでいる。その凝縮した領域を発見していくことが、大げさにいえば「人類の使命」なのかもしれないと、コピー用紙にこの文章を書きながら思ったのでした。

AUTOPOIESIS 227/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『クラスチェンジの方法論』

イラスト こがやすのり

 クラスチェンジとはゲームなどであるキャラクターが成長し切って別のキャラクターへ変化(昇華)することをいう。たとえは戦士として戦って実績(レベル)をあげていき、あるレベルまできたときに魔法使いに変化する。ゲームによっては転職といったりもします。ここで特筆すべきはクラスチェンジが行われると、それまで上げたレベルは始めの1へ戻るということです。それまでの実績や肩書きが全て消えてしまう。
 クラスチェンジとともに全てを失ってしまう。しかしそれと引き換えに今までとは比べ物にならないハイレベルな存在となることができます。まさにこれは芋虫が蝶になるかのごとくです。クラスチェンジ前のレベルでは必ず飽和状態に達します。鉢植えの植物が最後には根詰まりを起こすように、内容の成長に見合った器(クラス)に替える必要がある。もしかたくなにこれまで世界観に(所有したものや地位、あるいは自分自身)にしがみついているとクラスチェンジは見込めません。
 人生においてもクラスチェンジはある。そのタイミングは個々の個性によって大きく違いがあります。ゲームとはちがうので教則本などはありません。しかし適切なタイミングが必ずある。それらは操作できないので偶然のきっかけが大きく影響してきます。ダーウィンの進化論が「突然変異」を軸に論じられることと同じです。そのキッカケをキャッチするために必用なものは、常にレベルを上げ続けるために「前進する」(戦う)ことと、新たな流れへの「柔軟な精神」を用意しておくことです。「天使は準備しておいた者の元へ舞い降りる」というわけなのです。

「幸運は用意された心のみに宿る」 
        ルイ・パスツール

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『健全な人間関係』

イラスト こがやすのり

 家族や友人は良きもの。しかし時にそうでない場合もがあるらしい。精神科医であるフロイトは臨床において、患者の治療の邪魔をする家族や友人がいると苦言を呈しています。そういった人たちと付き合っている(依存している)人を治すことはできないとも述べています。つまり治療可能な重度の患者よりも、悪い影響を与える家族や友人に依存している人のほうが、正常化の見込みがないということです。この視点はまだ一般化しておらず、心の病などは本人にだけ問題があるという考えが一般的です。しかし周辺の人々にも原因がある。もちろん問題のある人間関係に依存している本人の問題でもあります。
 フロイトが匙を投げる「悪性の人間関係」は、依存関係であり一人に病理を押し付けた構造(最小は二人の関係)でもあります。よく家族の中に一人だけ問題児がいるという構造を耳にします。しかし精神科医の中井久夫さんによれば、家族のなかの一番まともだと思われている人物が、家族の中の問題児を作る原因である場合が多いと書かれています。つまり家族の病理が一人に背負わされており、その主導者が家族の中にいるというこです。これは原因と結果が目に見える形で繋がっていないので厄介です。
 家族の中の問題児(病理)の原因が、最もまともだと思われている人である。つまりこれはバレないための偽装とも考えられます。家族だけに限らず、相手に悪性の影響を与える者は、社会的にまともであるという肩書(あるいは振る舞い)で偽装しており、一見めんどう見も良い。そのことにより患者は依存度が高くなり、フロイトが警戒するような「悪性の人間関係」が出来上がる。本来「健全な人間関係」とは、社会的な地位や立場による優劣などなく、本質的に公平かつ平等なはずです。相手がどんなに酷い状況に置かれていたとしても、コミュニケーションは平行になされる。人がどんな状況からでも復活可能であるためには、普段から「健全な人間関係」を築いておく必要があります。そのためには依存関係や支配関係のような上下の関係(優劣の関係)ではなく、公平かつ平等な「お互いが自立した関係」を保つことが大切なのです。

AUTOPOIESIS 225/ illustration and text by : Yasunori Koga
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