『本音を表現する』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 人生にはいろんなことがありますが、最終的には自分自身の「納得」をどうつくるかの一点にかかってきます。いくら成功しても、それが自分がやりたい事ではなく、例えば親や社会からやらされたことであれば本音としては納得できないでしょう。しかし現代人は自分以外のことに従い、それをやりたい事だと思い込み、終着点にきて違うことに失望するというパターンがあります。自分が好きなことが分からない、という状態です。
 本当の意味で自分を理解していないと「自分が好きなもの」が見えてこない。自分のことをこれが自分だと思っていても、無意識の自分までは分からない。多くの場合、その無意識に自分の大事な要素があり、それを無視していることで問題が発生してきます。その意味では意識できない無意識の中に本当の自分や、やりたい事が隠れている。
 例えば絵を描いていて、たまたま好きな絵ができるときがあります。意識的な計画をゆるめて、何となく感覚で描くほうが、無意識を含めた自分の全体が出やすい。そこに知らなかった自分と「自分が好きなもの」があります。そしてそれは「納得」を作り出す大事な要素です。このように、体裁ではなく本当の意味で「自分が好きなもの」を描けるようになる能力は、結局は自分自身を理解し、自分の人生で納得を作る能力と重なります。納得は体裁ではなく「本音を表現する能力」によって作られるのです。

AUTOPOIESIS 136/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『生き生きとする方法』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 哲学者のバートランド・ラッセルという人が、人はやすやすと欲望が満たされると無気力になる、というようなことを言っています。つまり努力しなくても欲しいものが手に入るのだから、押し返す壁もない。永遠にノーストレスですべて手に入るなら、最後には無気力になるのも無理はありません。
 たとえば、歌手を目指して頑張っている人がいるとします。その人の友人が、自分が経営している店でギャラをだすから歌ってくれという。さらに知人がイベントで歌う仕事を紹介してくれる。そうして努力せずにやすやすと仕事をもらう経験をすることで、彼は当初のヤル気をなくしていく。こう考えるとヤル気は、簡単でないもを“独力で”獲得しようとする時に発生するものだということが分かります。
 何でも思い通りにいく環境に、長くいると無気力になる。便利な世の中とはいえ、ある程度は、簡単には事が進まない世界と対峙することが、やる気を保つための条件です。なかなか上手くいかない世界で踏ん張ってみる。そして独力で少しずつ「自分の結果」を出していく。自分に合った「押し返すべき壁」を探すことが、生き生きとした日々を送るための秘訣なのです。

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『微妙な捉えかた』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 推理小説の元祖エドガー・アラン・ポーが生み出したキャラクターにオーギュスト・デュポンがいます。デュポンはシャーロックホームズのモデルであり、抜群の観察力と知性で難問を解決します。そのデュポンの言葉に「微妙な捉え方としては横からがよいのだよ」というものがあります。これは「微弱に光る星」を直視すると網膜の構造上みえなくなるので、視線をずらし周辺視野で見ると良い、という説明での言葉です。つまり物事には直視すると消えてしまうけれども、視線をずらし「ぼんやり見る」と現れるものがあるということです。
 現代人は何ごとも数量化して考えます。それによって結果も得られる。しかしそれは数量化できる「直視できるもの」に対する結果です。それに対して自分の「心」に関わることは、形がはっきりとせず数量化もできません。そういった領域では直視すると返って見えなくなる。よって問題がたくさん出てきます。そのような数量化できない世界は、直視せずに視点をずらし、ぼんやりと全体をおぼろげに感じる。そうすると曖昧なものの全体像が見えてきます。
 数量化できない世界は直視すると消えてしまう。たとえば自分は何をやりたいのか、どの方向を選べばよいのかといった問題など。それらは心に関わることで直視しすぎると消えてしまう。つねに変化し輪郭も曖昧だからです。よって視点をずらし全体をおぼろげに感じる。そこには数ではなく質的な何かが感じられる。正面から直視して消えてしまった世界をよみがえらせる。それにはデュポン流の「視点をずらし微妙に捉える」ものの見方が有効なのです。

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『新しい公式をつくる』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 数学の公式というものがあります。それを丸暗記していて問題をすらすらと解く。これはよくあることです。しかしその公式がどのように出来たのかが分からないままになる。これは知識や考え方についても言えます。誰かの考え方が教科書やサイトにまとめられていて、それをそのままインプットして知識として持つ。しかし、その考えがどのようなプロセスで作られたり発見されたのかが分からないままになる。そうなると自分自身で必要なときに「新しい考え方」を作ることが出来なくなります。
 これは絵を描くときにも言えることです。誰かが技法を作り出して一般化している。それが本やサイトに掲載されていて、みなその通りに描いて同じ絵ができる。それ自体は凄いことです。しかし、そればかりでは「自分の絵」というには少し物足りない。人の技法を真似るばかりでは、いつまでたっても「自分の技法」を創り出すことが出来ません。出来上がったものを真似る事と、自分自身でつくり出す事の間には大きな開きがあります。
 公式の丸写しではなく「新しい公式」を自分自身で作っていく。不確定要素の高い時代、これから必要となる「新しい公式」を創る能力が、個々に求められるのは明らかです。当然それは「より高い次元」を求められているということです。この事実は「必要は発明の母」という言葉と一致しています。その意味ではあらゆるジャンルの公式が、時代の転換点に差し掛かり、一つの終焉を迎えているのかもしません。

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『物体Xについて』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 アメリカの映画監督にジョン・カーペンターという人がいます。ホラーやSF映画の傑作を数多く撮った巨匠の一人ですが、数ある作品のなかに『遊星からの物体X』(1982年)という映画があります。物体X(The Thing)とは南極観測隊を襲う宇宙人のことで、この宇宙人は触れたものに擬態し同化するという性質をもっています。その宇宙人のサンプルを解剖した結果、同化が進むと最後には完全に「擬態する対象」(たとえば犬や人間)になってしまうことが分かった。しかし、もし犬に同化して完全に犬になったのなら、それはもう宇宙人ではなく犬ではないのか…。
 これは不思議な現象ですが、日常にもないわけではありません。まず主人公がいて、その主人公が何かの真似をする。ちょっとずつ真似ていき、ある地点から目的が「真似をする」が「それになる」へとすり替わる。これは主体が自分から相手に移ってしまった状態です。固い言い方をすると「主客転倒」です。100%相手になってしまえば、自分は1%もない。不思議な現象です。たとえば絵を写真のように模写して、完全に写真と同じように描けてしまったらどうか。描いた人がいなくなってしまう。どうやら同化や模倣はある地点から「自己の消滅」へと向かうようです。
 映画では南極観測隊が次々と同化されますが、残された数人は最後まで同化を拒んで戦います。人によっては「みんなと一緒」ということで「同化されたほうがラクで安心」だと思う人もいるかもしれません。悩みの種である自己も消滅するし…。しかし映画としてその状況を客観的に見る限り、同化を拒むことが人間という存在であり個性であるように感じます。ちょっとしたことで同化やカモフラージュを選択したり、模倣という創造の逆数に身を委ねたりし過ぎると、私たちは物体X(The Thing)になってしまうのです。ちなみに、このジョン・カーペンター監督の映画は1951年の『遊星よりの物体X』というモノクロ映画のリメイクです。

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