『コロナ以後の世界』

 現在、新型コロナウイルスの感染防止により、人々は切り離され、独立した「個」として振る舞うことを強いられています。これまで当然だった集まりや近いコミュニケーションが出来ない状態です。このような日常とは違う状態を「非日常」と考え、早く前の状態にも戻らないかなと考える。
 しかし、もし今回の新型コロナウイルスが、10年単位で世界中に留まるとするならば、ある程度は人と人との「距離」を保つことは、日常になるかもしれません。そうした姿勢で「新しい社会構造」を作る方が、もし新たなウイルスが発生したときには安全です。さらにお互いを変に拘束しあうような関係も、正常化されていくはずです。

古賀ヤスノリ イラスト

 ウイルスの全容が把握されていない現在、これまでのような確率論で未来予測することは難しくなっています。今のところ、「これまでの生活」に成れている私たちは、以前の生活へ戻るだろうと無意識に感じ、また願ってもいます。しかし、世界史的に見れば、大きな疫病が蔓延した後には、必ず秩序体系の「刷新」が起こります。今回のウイルスの規模から推察すると、そうなる可能性が十分にあります。つまり元へは戻れない。以前大事だった価値観は、使えないどころか、逆に不利益を生むかもしれません。少なくともそう考えておくことで、次にくる「新しい世界」への有効な備えとなるはずです。

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『信頼』

 大工さんが建物を建てる。二階部分は届かないので、周りに足場を組む。その足場で二階部分の作業をします。もし、大工さんが足場を組んだ人の技術を信頼していなかったら、作業をしても落ち着きません。仕事が手につかないということになります。イライラしてストレスがたまってしまう。
 人は自分が信用できる足場でしか、落ち着いて作業ができません。信頼できる地盤でしか通常の能力が発揮できない。信頼とは何か。それは自分を預けても大丈夫だという感情のようなものでしょう。あるいは、存在の基盤を支える実存的な確証。世界に対する信頼がないと、そこで生活する人々は不安定になります。

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 では自分の足場となる世界を信じるにはどうすればよいのでしょうか。人は「壊れたつり橋」を渡る時、足で強度を確認しながら進みます。「ここは大丈夫だ」といった感じで。少しずつ信頼できる足場が広がる。広がった足場から新しい風景が見える。信頼とは「表面的なこと」ではなく「本質的なこと」(事実)です。本質に目を向けて、信頼できる足場を広げることで自分の実力が自然に顔を出す。自分の思いがスムーズに表現できる状態がここにあります。

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『社会的な価値』

 社会的な価値観というものがあります。「人々が共通に考えている」と思われている常識のことです。この常識は時代によって変化します。さらに一時的な社会状況によっても左右されます。社会を水槽に例えるならば、水槽の中の熱帯魚は水槽という社会環境を常識としている。もし水槽が傾いたり揺れたりすると、その変化を社会的な価値として熱帯魚は常に受け入れて生きます。
 もし水槽内が良い状態にあれば、その中の常識も魚たちに良い影響をあたえます。しかし水槽が不自然に振動したり、ろ過されていない水や有害な物質が入ってきたらどうか。もし熱帯魚たちがそれに気づかなければ、いつも通りの常識を受け入れて生活することになる。もちろん熱帯魚たちは悪い影響をじわじわと受けていく。

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 社会的な価値という「見えない環境」は、クリーンであるか汚染されているかが分かりにくい。中にどっぷり浸かっていては分からない。それらを適切に判断するには「外から見る」しかありません。それは、社会的な価値(常識)が「常に正しく無条件に従うべきもの」という考えを一度捨てることでもあります。そうして「見えない環境」の汚染に気づいたときには、人々の手によって、適切な状態へと戻す必要があるのです。

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『風がふくまま』 

 巨匠アッバス・キアロスタミ監督の『風がふくまま』を観る。
 ある特殊な葬儀を取材するため地方の村を訪れた主人公。彼は死の間際にある老婆の葬儀を待つ。仕事のために人の死を望む自分にうしろめたさを感じつつも、仕事を全うしようと努める。しかし予定に反して老婆は死なず、時間切れとなり企画も打ち切りとなる。それまでの使命から解放された主人公は、死を望んでいたはずの老婆のもとへ医者を案内する。

 人は目的に支配されると、他人の死を望むほど墜落する。その究極状態が戦争でしょう。映画の主人公は、ある支配から解放された瞬間から人間らしさを取り戻します。本来従うべきことが見えなくなる状態を、成果主義という病が作り出す。戦争を回避するヒントすら、この映画には隠されているのではないでしょうか。

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『カバ』

 カバは水よりも比重が大きい。だから水中を歩くことが出来る。しかもカバは、肺に空気を貯めて浮かびながら自由に泳ぐこともできる。人間なら浮力が邪魔をしてそうはいかない。カバは水中で自由に生きる反面、陸上では長く歩くことが苦手らしい。
 水よりも重いカバには自由が許されている。水より軽い人間には自由が許されていない。ここでいう水よりも重いとは「質量」が重いということ。物理学でいう「質量」とは「重さの度合い」であり「動かし難さ」の度合いでもある。つまり水中における「動かし難さ」が自由の条件となっている。

『カバ』

 人間の世界も周囲に流されない「動かし難さ」が自由の条件だといえる。「世間の質量」より「個人の質量」が高ければ、動きだけではなく考え方も自由になる。では、世間や個人の「質量」とはいったい何なのか。それさえ発見できれば、私たちはカバのように自由に歩くことが出来るのです。

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『アリクイ』

 アリクイという動物がいます。蟻を主食として生きる動物です。蟻塚の中の蟻を食べるために、口が細長く特化した形状をしています。そうなると他の物はとても食べづらい。完全にターゲットを蟻に絞った専門性。このように生き残りをかけた専門特化は、メリットとデメリットがハッキリと現れます。
 人間もその道を極めると専門家になります。そうして専門特化すればするほど、メリットとデメリットはハッキリします。しかしプロフェッショナルとはそういうものでしょう。逆に言うと、デメリットがハッキリしていない状態は、中途半端だということです。

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 メリットとデメリットは表裏一体。もしデメリットを避けることに集中すれば、メリットも得られない。失敗しないために何もしない、ということになります。「専門特化すると環境の変化に適応できない」という意見もあります。しかし、その道の専門家たれば必ず「普遍的な原理」を理解しているはずです。よって他領域への応用も可能でしょう。アリクイは「専門特化の原理」を知るがゆえに、蟻が絶滅してもまた、新しい専門特化を見せるに違いありません。

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『意味のかさなり』

 意味とはなにか。意味を知りたければ辞書で調べる。するといろんな物事についての意味が書いてある。これは誰にでも同じ意味として了解できる、いわば「客観的な意味」です。それに対して「主観的な意味」というものがある。つまり「自分にとっての~」というものです。

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 たとえば「学校の校舎が老朽化で取り壊された」というニュースを読む。多少のイメージは湧くも、額面どうりに受け取るだけです。しかしもし、その校舎が自分の母校だと知れば、そのニュースの意味が変わります。一挙に「主観的な意味」が発生する。「自分にとっての校舎」は他人には分からない。
 人々に共通に理解される意味は「客観的な意味」。そこに自分の経験によって感じる「主観的な意味」が重なる。社会は前者の意味で回っている。しかし人間は後者の意味で生きている。このような意味の二重性は、人間に自我があるからこそ生まれた構造です。「客観的な意味」は今や瞬時に引き出せる。つまり「自分のとっての意味」に集中してよい時代なのです。

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『納得の原理』

 現実の世界は「物理的な因果」に従う。リンゴは樹から落ちる。振り子は左右に振れて最後には止まる。人々はそれに従う。しかし人間の心はどうか。愛する人が死んだとして、「心肺停止」で了解というわけにはいかない。つまり人間の心は「物理的な因果」には従わない。

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 ならば心はどのような因果に従うのか。人間の心は「意味的な因果」に従う。愛する人が心肺停止だけで納得できないのは、自分とその人の間に意味があるからです。自分にとっての「意味的な了解」がないと納得には行きつかない。
 「意味的な了解」に至るには時間がかかることもある。理屈だけでは解決しない。「物理的な因果」と「意味的な因果」。この二つの世界を混同すると問題が長引く。二つをハッキリと分けて「意味的な因果」を大切にすることで、人々は納得を得ていくはずです。

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『ダリの絵』

 高校生の時、スペインの画家ダリをモチーフにした作品を作った。構図は右側にダリ、左にはトレードマークの溶けた時計をあしらった単純な絵だった。眼光鋭いダリと、溶けた時計の対比は、いま思えば「形式と内容」というテーマを考えるには格好のモチーフだった。

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 ダリは当時、「無意識」に関心を持っていたパリのシュールレアリスト達と親交があった。その意味ではフロイトの影響が強かったと推測できます。ダリの代表作である溶けた時計のタイトルは「記憶の固執」。このタイトルは明らかに精神分析の視点が導入されています。溶けた時計という「時の変容」に「固執」という言葉が使われている所がなんとも面白い。
 もしダリが記憶ではなく「時間そのもの」が変形することを意図したならば、フロイトよりもアインシュタインが暗示されたことになります。実際ダリの作品には物理学的なタイトルを発見することができます。天才ダリと時計の「奇抜さ」を描こうとした当時の私は、実は隠された「知性」に惹かれて絵のモチーフに選んだのかもしれません。この「奇抜さ」と「知性」の融合こそが、芸術家の存在意義なのでしょう。

 

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『種類と質』

 もし向日葵がバラにあこがれて、薔薇に成ろうとすれば結果はどうでしょう。もちろん元気のない色あせた向日葵が咲くことになります。向日葵がバラの花を咲かせることは不可能は努力。花を咲かせるための必要条件が違うので、むしろ自らを弱らせる行為です。

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 向日葵が薔薇にあこがれるとすれば、それは自分にない花の付き方や棘などに注目するからでしょう。自分と比べてそこがはるかに美しいと。しかし向日葵はバラにはなれません。もしバラの美しさを超える方法があるとすれば、それは立派な向日葵を咲かせることです。 
 立派な向日葵は見る人を圧倒します。その美しさはバラにはないもの。よほど美しいバラを咲かせない限り、立派な向日葵を超えることはできません。つまり、種類の違いに優劣などないのです。あるのは個々の質の違いだけです。種類と質は別のこと。これさえ分かれば、向日葵は立派な花を咲かせるでしょう。

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