『絵を長く続ける方法②』

イラスト こがやすのり

 たとえば絵を習うとします。毎回4時間かけて作品を仕上げる訓練を続ける。そうして描けるようになる。つまり絵の技術を習得したことになります。しかしいきなり10分でしかも道具を変えて描けといわれたら、どう描いてよいか分からなくなる。これはまだ技術がメタに達していない状態です。料理だと知らないレシピのものは作れない、という応用のきかない技術レベルです。状況に応じた「加減の自由」がない状態ということもできます。
 「メタ技術」は思考と技術の結びつきによって生まれます。技術の一つ上の次元にある技術です。10分で絵を描く必要があるとき、どう描くかを思考し(慣れると無意識で)完成へ持っていく。同じ道具で4時間ないと描けないので間に合わなかった、とはならないのです。ただの技術と「メタ技術」にはこのような違いがあります。そして切り替えや加減のない技術をいくら訓練しても「メタ技術」に到達することはありません。
 なぜ「メタ技術」による加減や技法の切り替えが必要なのか。そしてそれが継続とどのような関係があるのでしょうか。もし4時間もかけて絵を描きたくないとき、あるいは絵具を使いたくないとき、さらにはデッサンのいらない技法で描いてみたいとき、「メタ技術」を獲得していればすぐに対応できます。それができなければストレスになることもある。これはヤル気にも関わることです。そういったロスはできるだけ回避するのが望ましい。つまり「創造の経済性」を維持するためには「メタ技術」が必要なのです。次回はこの「創造の経済性」について考えてみたいと思います。

AUTOPOIESIS 231/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『絵を長く続ける方法①』

イラスト こがやすのり

 「継続は力なり」と言います。もちろん無理に続ける必要はありませんが、継続によるメリットは大きい。続けていくことで物事は成熟してゆき、のちに大きな花を咲かせる。あるいは果実が実り収穫の時期を迎える。また結果や成果だけではなく、継続が「安定」をつくると同時に、ムダを切り捨ててゆく「洗練」にもつながる。こう考えると、物事を継続できるかどうかで、大きな違いがあることがわかります。
 人それぞれ継続しているものは違います。たとえば私は子供のころから絵を描いています。専門として意識してからでも30年継続している。なので「絵を長く続ける方法」は経験的に理解しています。しかしその方法を一言でいい表すのは難しく、技術はもちろんのこと、考え方や人間関係も大きな要因だと感じています。
 絵を描くには技術が必要です。しかし技術と継続にはそれほど大きな関係はないと思われます。むしろ技術をどのように扱うかという「メタ技術」に継続のポイントが潜んでいます。「メタ技術」とは持っている技術を「どのように加減するか」という立ち位置のことです。料理人が料理に塩を加えるように、また車が狭い道ではスピードを落とすように、技術を加減していく。次回は絵の継続に必用不可欠な「メタ技術」について掘り下げてみたいと思います。

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『無価値な表現』

イラスト こがやすのり

 人間には無意識がある。この無意識を人類が発見したのは19世紀後半で、フロイトが臨床例のもとに無意識があると仮定しないと辻褄が合わないと考えた。無意識とは「意識できない領域の総体」で、つまり「知らない自分」のこと。心の病はこの「知らない自分」に問題があると考え、そこを発見し治療していく。なのでますば「知らない自分」がいるということを認めることから始まります。つまり自分のことは全部知っているというスタンスは、のちに問題が発生するとも言えます。
 無意識は見えないので数量化できません。よって操作もできない。そこでフロイトは「夢」(夢は無意識が作り出す作品)に着目して「夢」に現れたメッセージを「象徴的に解読」していきました。今では箱庭を作りそれを解読することなども臨床の現場では盛んに行われています。この無意識の把握は、数量化による把握と操作で動いている現代社会が最も苦手とするところ。いわば盲点です。
 もし社会を一つの人格と考えるならば、盲点は抑圧の結果できるものです。パソコンやスマホにとっての抑圧部分は数量化できないもの。つまり無意識は全て抑圧されています。ゆえにそのようなコミュニケーションだけに依存すると心の病になりやすい。もし日頃から無意識を含めた表現を行なっていれば、抑圧に支配されて暴走をまねく確率は減ってきます。この「無意識の表現」は、数量化できないいわば社会的に「無価値な表現」といえます。しかしその「無価値な表現」こそが人々の精神を救っている。この逆説に気付き、注目すべき時代に入っているのです。

AUTOPOIESIS 229/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『ビギナーズラック』

イラスト こがやすのり

 初心者がプロよりも良い結果を出すことが往々にしてある、という意味のビギナーズラックという言葉があります。この言葉は運が味方をしているというニュアンスがありますが、実際はどうなのでしょうか。熟練のプロに初心者が勝ってしまうということは、知識や技術といった経験則を越えた「直感的な振る舞い」がダイレクトに出た結果と言えそうです。
 直感は技術や知識に勝る。このことはあらゆるジャンルに言えることです。たとえば数学者は証明に何年もかかる定理を直感で発見するといいます。もし本当にそうであるならば、物事は知識や技術以上に、直感を鍛えることこそがすべての土台(基礎)と言えるのかもしれません。しかし知識や技術に比べて直感は明示化できないので、鍛える方法が一般化されていないのが現状です。
 熟練の知識や技術を越えるような直感を身に着ける。そのことによってビギナーズラックが生まれる確率を高いレベルで維持する。しかしそれは運ではなく直感を利用した実力だと言えます。たとえば子供が描く絵は、大人の知識を技術を越えた美しさがあります。しかも偶然ではなく連続して描ける。これはビギナーズラックが基礎としてある証拠だと言えます。大人はその能力をむしろ知識と技術を獲得することで失っている。子供は最初は絶対音感をもっているという説も同じでしょう。ドレミをやっているうちに消えてしまう。こう考えると、大人が失ったものは「子供ごころ」だけでなく、ビギナーズラックを生む直感能力も失っている。知識や技術を一旦カッコにいれて直感を鍛えることで、その能力が回復する可能性はまだ十分にあるのです。

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『日常のこと』

イラスト こがやすのり

 自ら「絵描き」と名乗っているくらいなので日々絵を描きます。絵具を使わない日はコピー用紙に1,2枚ほど線画や落書きを描く。この絵を描くこととは別に習慣になっているものがあります。一つは「ものを考える」ために書いて考えるということです。これもコピー用紙に文字を連ねていく。途中でイメージが湧いたらラフや図を入れたりもします。そしてもう一つは本を読むことです。このインプットがないとなかなか考えは発展していかない。また自分の考えが独善的かどうかの比較もできなので本を読むことは大事です。
 読む本のジャンルは考えを助けてくれる哲学書や学術書が中心です。しかし息抜きに小説を読んだりもします。ヘルマン・ヘッセやカフカ、ドストエフスキーといった有名どころからSFやミステリーも好きで読む。この息抜きに読む本が、かえって哲学的なヒントをくれることもあります。たとえば、最近読んだSF小説で、人類の最も人類らしい所は、誰かが死にかけていたら、大勢の手を借り出してでも助けようとする所で、一人に対して大勢という非対称な行為もいとわない。これが他の動物と違う所だという内容のことが書かれていました。これを読んでなるどなと思い、逆に他人を押しのけ、他人を利用して自分だけが利益を得ようとする行為は、先の行為の真逆であり、それは「まだ人間ではない」のだなという考えに至ったのでした。
 このように「考えるための本」ではないものに考えさせられる、といったことが良く起こります。逆に哲学書に文学的な面白みを感じることもあるし、人生を生き抜くためのハウツー本のように読めることもあります。こう考えるとカテゴリーを越えてキャッチできる情報こそが、名著である証なのかもしれません。これはつまり、他のジャンルへ応用できる考え方(あるいは方法論)であればあるほど、それは普遍性の高い考え方だということです。そしてこの普遍性は多様なジャンルを重ねた時に、特に重なりの大きいところに潜んでいる。その凝縮した領域を発見していくことが、大げさにいえば「人類の使命」なのかもしれないと、コピー用紙にこの文章を書きながら思ったのでした。

AUTOPOIESIS 227/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

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