『希望の恣意性』

 希望とは未来に望みをかけることであり、こうありたいと願うことです。もし希望を失うと、根本的な諦めの状態になります。希望が「未来への期待」であるのに対し、失望は未来に期待が持てない状態です。ここには未来の可能性に対する判断の違いがあります。
 たとえばテニスの試合をするとします。相手が同レベルの選手であれば勝てる可能性がある。アバウトに考えても50%の確立があると判断できるので希望がある。だからヤル気も起こる。もし相手が世界でナンバーワンの選手であれば、一般のレベルの選手が勝つ可能性はありません。よって希望が持てない。未来を期待できない。失望が諦めを作ります。
 未来への可能性。それは、何を、いつまでに、どの程度望むかで変わってきます。そしてその望み方にもいろいろなパターンがあります。もしその人が「絶対に無理なこと」に固執していれば(例えば世間から絶対にはみ出さないように生きようとすれば)どのような方法を取ろうと、未来に希望は持てません。常に失望した状態が続きます。しかし「自分に出来ること」の範囲から望んでいき、少しずつレベルを上げていけば、希望を持ち続けてることが出来ます。さらにいきなりは無理だったことに対しても、可能性が出てくるというものです。つまり希望とは状況が作るのではなく、考え方によって恣意的に作られるということです。

古賀ヤスノリ 風景画

 「状況」と「自分の能力」を無視した高望みは失望を作る原因となります。よって自分の能力を把握している人は、出来る範囲が分かっているので失望しにくいということです。問題は、自分の性質や能力を無視して、ただ外部の指示(例えば世間や会社、親など)に従って目的を遂行しようとする人です。この場合は、自分に合わない結果を「望まされている」ので、失望が繰り返し作り出されます。自分がこうありたいという事と、外部から強いられていることが一致していないからです。
 周囲が望むことをやる。点数稼ぎ、あるいはそのことで自分が安心する。しかしその一連の行為が失望を作り出し、根本的な諦めが全体を支配するようになります。当然ですが希望とは「自分の望み」から生まれるものです。他人の望みを基にして自分の希望が作られることは決してありません。他人に支配された自己喪失状態では希望が生まれないという事です。
 自分が出来ることで、手の届く範囲を目標とすれば、必然的に希望が生まれます。希望の発生は恣意的であり操作可能です。よってもし希望が持てないと言うのであれば、それは希望が持てないように考えている。希望を持ちたくない。あるいは努力したくないという気持ちが、恣意的に失望を延長していると考えられます。しかし、人が自らの人生に満足するためには、希望が必要です。諦めという戦略(癖)から脱出する方法も、希望がもてる思考に切り替えること以外にありません。希望の発生は恣意的であり、どのような状況であっても、自由に作り出すことができるのです。

AUTOPOIESIS 0038/ painting and text by : Yasunori Koga
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