『 幻想のなかの幻想』

イラスト こがやすのり

 人は現実的な危機に直面し、それを解決できない場合は、自己の崩壊をおそれてその危機を良いものだと思い込んだりする。一見とてもへんな心理ですが、この防衛機制は精神分析家のメラニークラインという人が指摘しています。これは事実の改ざんですが、この改ざんは物事だけではなく自分自身にもなされます。つまりセルフイメージの美化という形をとることもある。とにかく現実的な危機に対して解決が難しく、心理的な耐性が弱い場合は「幻想的な解決」をやってしまうということです。
 現実的な危機を乗り越えられない場合に、幻想で穴埋めして安定させる。すると当面は進んで行けます。しかし幻想なのでいつかは危機が訪れます。そうしたときに問題を直視し解決すれば、幻想のない現実で進んでいける。しかしその危機に対しさらなる幻想をつくりだし、もう一つ深い幻想世界でバランスをとるようになれば、これはさらに現実へ戻ってこれなくなる。海の浅瀬なら戻りやすいが深海までいくと水面へ出るのが難しくなります。
 クリストファー・ノーラン監督の映画に『インセプション』という他人の夢に入り込む話があります。この映画で主人公は、夢の中で寝ている人の夢に、入れ子式に入っていくこのになります。「夢のなかの夢」は時間の流れが遅くなっている。さらに下の階層の夢にいくと時間は永遠に感じられるが、脱出のが難しくなる。この構造と「幻想のなかの幻想」は同じです。すべてを幻想で満たすともう現実の時間はなく、自分だけで満たされている。いやな事は一切排除された世界。これはすべてが停止していて、しかも本人はそこを現実だとおもっている。映画では主人公が現実から持参したコマを回して、永遠に回り続けるか最後に倒れるかで、夢か現実かを判断します。現実的なマイナス要因が一切ない無変化な世界は「幻想のなかの幻想」なのです。

AUTOPOIESIS 195/ illustration and text by : Yasunori Koga
こがやすのり サイト→『Green Identity』

『セルフイメージ』

イラスト こがやすのり

 「セルフイメージ」とは、自分で自分のことを「自分とはこういう人である」と思っているイメージです。つまり主観的な自分です。それに対して、客観的な「現実としての自分」が一方にあります。そしてこの「セルフイメージ」と「現実としての自分」はズレていることが多い。たとえば自分では人付き合いが苦手だと思っているのに、周囲からは人当りがよくお喋りだと思われている。こういったズレは良くあることです。では一体このズレはどこから発生するのでしょうか。
 人は基本的にセルフイメージに従って行動しようとします。よって表面的には周囲からもセルフイメージに近いイメージを持たれます。しかし、長く付き合っていくと、本質的な部分が分かってきます。付き合った最初とはイメージが違う、ということは良くあることです。これは、相手がもつセルフイメージと現実とのズレが大きいことから起こります。そしてこのズレは現実の自分が受け入れられないことから、その補填として作られるセルフイメージによって発生します。なのでこのイメージが揺らぐ情報や他者は一切回避するようになります。
 ではいったい、このズレを修正するにはどうすればよいでしょうか。それにはまず「現実としての自分」を再発見し、受け入れることが必要になります。たとえば物静かな人が情熱的な絵を描くことがあります。本人も物静かだというセルフイメージをもち、周囲もそう思っている。しかし絵という自己表現に「本当の自分」が現れます。この絵の情熱的な部分は、自分がこれまで抑えてきた側面であり、それを発見し受け入れることで自分の「全体性」が回復します。それとともにセルフイメージと現実とのズレも修正されていく。自己表現を通して「本当の自分」を再発見する。ここに「ありのままの自分」でいられるという、本当の意味での「自由」があるのです。

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『納得をつくる方法』

イラスト こがやすのり
 何かに挑戦する。目的を達成するために、物事を上手く行かせたいと思ってトライする。もちろん上手くいくこともあれば、上手くいかないこともあります。そして上手くいかないと努力が水の泡だと思ったり、もうだめだと諦めたりする。このように、物事は上手くいくことが良しとされ、上手くいかないことはダメなことだと思われています。しかし上手く行かないことのほうが長期的は良い場合も少なくありません。
 例えば最初の挑戦で何かに成功したとします。それは偶然に上手くいっただけかもしれない。しかし上手くいったのでもうそれについては考えない。これがもし何度も失敗したのちの成功だったとしたらどうか。失敗の経験から「修正箇所」という有益な情報を得て、自分なりの法則を発見し、時間をかけて成功に至ったとすれば、その法則が他でも応用できる可能性があるのです。
 こう考えると物事の本質は結果ではなくプロセスにあることが見えてきます。結果はトロフィーのようなもので本質はプロセスにこそある。そうなれば一挙に全てのことが無駄ではなくなります。全ては一本の映画のように本質の構成要素となる。つまり目的や結果はその本質的な要素を作り出すための「方向性」だと考えればよいのです。なので良い映画が出来れば、もしトロフィーが得られなかったとしても問題ありません。ここに成功や失敗を超えた「納得」という「本質に対する満足」があるのです。

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『才能を伸ばす』

イラスト こがやすのり
 植物の種があるとします。何の種であるか、どのように育つかはまだ分からない。その種を土にまき、水と光を与え続ける。すると芽が出て少しずつ枝葉が伸びて植物らしくなってくる。やがて大きく育ち、美しい花が咲いたとします。ここにきて初めてその種がどのような植物で、どのような花が咲くのかが分かります。
 人の才能も同じように、最初はどのような才能があるか分かりません。いろんなことを試してみて、得意なことや不得意なことが分かってくる。そして得意なところへ水と光を与えていく。すると期待以上に大きかったり、立派だったりする。もちろんそれがはっきりするには「根気よく育てる」必要があります。どんな花が咲くか見てみたい、という気持ちが育てる原動力です。
 絵を描くときに、完成イメージが決定している「技法」に従い描くことがあります。これは既にどのような花が咲くか(未来)が分かっていて描くようなものです。その意味では「自分の才能を育てながら描く」こととは違います。つまり技法の習得と才能を育てることは全く別のこと。もっといえば逆のことなのです。よって技法だけを学ぼうとすれば、その人の才能は育たなくなる。これは絵の講師を経験して気付いたことです。よって教室での技法は最小限にとどめ才能(能力)を伸ばすことに時間をあてています。「既にある技法」ではなく、才能を伸ばすことで必然的に生まれる技法こそが大事なのです。

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『文化的な型』

イラスト こがやすのり
 人間は生物であり動物である。しかしキリンやゾウのように自然そのものの生き方はしていません。人類史が示すように、人間も最初は原始的な生き方をしていました。しかし脳が発達して火や道具を使うようになり、やがて文明を築くようになった。それとともに自己を律する術を覚え、原始的な自然状態から文化的な生活ができるようになりました。つまり放っておくと原始的になる自己を律するのが「文化的な型」であるということです。
 たとえば学級崩壊という現象があります。監視が弱まったときに(相手がなにも言わないときに)、自己を律する力のない個人や集団が「原始的な振る舞い」に身をゆだねる。そして無秩序化する。つまり「文化的な型」がないゆえに、好き勝手な利己主義に陥る。このような原始的なレベルを抑制するには、罰を与えて秩序を強制するか、「文化的な型」を獲得させるかのどちらかしかありません。
 原始的なものを抑制するときに、罰(たとえば叱責や体罰など)によって強制すると、これは調教になります。家畜ならまだしも相手が人間であれば、やはり「文化的な型」を獲得してもらうほうがいい。「原始的な欲動」を抑えることで得られるものを知ってもらう。それが好き勝手な振る舞いや、奪い合うことで得られるものよりも、さらに良いものであることを経験的に知ってもらう。抑制によって到達できる文化とコミュニケーションの領域にのみ、犠牲の上に成り立つ世界にはない「ウインウインの関係」(非ゼロ和)が矛盾なく成立するのです。

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