『出口のない迷路から脱出する方法』⑤

古賀ヤスノリ イラスト

  相関し合わないものが言葉によって相関してしまう。それは細部の「違い」を無視して「類似部分」だけで物事を括ることで強固となる。さらにその括り方や共通項の選択は恣意的である。ちょっと複雑な見方ですが、ようは物事の共通部分に注目したもの同士が相関するということです。逆にそれぞれの「違い」に注目すると物事は相関性から免れる。
 相関性から免れるということは、他とは影響せずに独立であるということです。魚の種類分けを細かく行うことで、それぞれは独立していく。それらを一括りとするのは「魚」という言葉である。しかし言葉よりももっと強力な括りがあります。それが「数」です。数はすべてを同列のレベルに還元してしまう。魚も鳥も全て数字に置き換えてしまえば、どんなに違うものでも相関してしまうのです。
 魚と鳥が相関すればそこから奪い合いも起こる。本来は相関せずに争いも起こらないはずの事象が混乱していく。数字は便利である反面、世界に争いをもたらす原因ともなっています。言葉にしても数字にしても、社会を円滑に機能させるためには無くてはらなない概念です。その意味では社会を成立させる条件である「記号化」が、争いの原因であるというパラドクスがここにあります。
 数量化によって成立した社会がそこに「貨幣」という発明を利用することで、現在の資本主義は成立しています。現代ではお金こそが全てを等質な価値に還元してしまう魔法の尺度です。本来は相関するはずのないものたちが、あらゆるものと相関「させられている」という状態です。人々は奪い合い、争い合う。そこから得た利益がさらなる資本主義の原動力として投じられていくのです。

AUTOPOIESIS 0081/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『出口のない迷路から脱出する方法』④ 

古賀ヤスノリ イラスト

 「負の相関性」を阻止するには物事を「適切な階層へ分ける」必要があります。しかしそれを邪魔する者がいます。それは言葉です。例えばサバやイワシという種類が「魚」という上位概念でしか認識されなければ、この二つは「同じもの」として扱われます。つまり「魚」という言葉の括りによってサバとイワシは同じ世界に並列されてしまいます。エレベーターで言えば1階2階という「階層の“違い”」が「フロア」という上位概念で認識されることで、階層の違いは同じものとして扱われ、そこにパラドクスが発生することになります。
 言葉は世界を文節化して対象化し、名前をラベル貼りして出来たものです。海に住む生物のある特徴のものを「魚」や「fish」と名付ける。そして共通了解へと至る。この言葉が、細部の違いがある「実体」より先行すると、物事の階層分けの邪魔をすることになる。サバとイワシは同じ魚ですが、より詳しく見ると種類が違います。逆により大きな括りでみると同じものになる。魚であり、生物であり、食料になるものであり、お金になるもの、などです。
 細部の違いがある「実体」を無視して、大きな括りだけで捉えると、別々の階層にあるものが、同じレイヤーへと結合されてしまう。そうすると相関しないはずのものが相関することになってしまう。逆に、相関しているものたちの違いを発見し、分類することで相関を回避することができる。つまり「同じ所」に注目すると相関し、「違う所」に注目すると相関を回避できるということです。より平易に言えば、「仲間の条件」で括れば相関し、「仲間ではない条件」で括れば相関しないのです。
 ここで重要な問題は、それぞれの関係を「仲間の条件」で括ることも「仲間でない条件」で括ることもできるということです。つまりそれぞれの関係を相関させるか相関させないかは、恣意的な次元にあるということ。どちらが正しいとか、決まっているとかいったことはないのです。もちろん物理的な世界の物質は「押せば動く」という相関性がみられ、物理法則として決まっている。恣意的ではありません。しかしそれも物質の「位置」という視点で括っている時の相関性であり、「重さ」の視点ではお互い無関係です。その意味で、相関性は予め決まっていないと考える「相関の恣意性」は、視点や条件、括り方が恣意的(自由)であり、それらは主体的に決定することが出来る、ということなのです。

AUTOPOIESIS 0080/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

Scroll to top