所有という概念はよくよく考えると不思議なものです。たとえばボールペンを買う。買った人は自分の物だと考える。しかし、お金を介さずに、海で拾った貝殻を自分のものと考える人もいます。あるいは人のアイデアを拝借して自分のものにする人もいる。そもそも「自分のもの」という感覚は一体何なのでしょうか。
たとえば自分の「身体」は自分のものだと考える。これは当然のように考えられています。ケガをすると痛い。因果関係が実感されるので自分の身体だと判定できる。逆に人の身体は自分のものだとは普通は考えない。しかし、子供を自分のもの(所有物)だと思っている親もいます。もし魔法か何かで自分の足が身体から切り離されたら、その足を自分の足だと思い続けられるでしょうか。それが髪や爪なら所有の概念はそうは続かないでしょう。
心理学の視点で言えば、所有という概念は、自我が投影されたものだと考えることが出来ます。自我はなんにでも投影される。人にも物質にも、あるいは概念にすら投影される。学術的な発見、組織の教義、人間関係、創作した作品、自らが介入した結果に自我が投影され、それらが自分自身となる。だからこそ、それが傷つけられると自分が傷つけられたように感じてしまう。
所有とは「自己投影による支配」ともいえます。よって支配欲の強い人ほど、物質や他者、自分に関係のある概念に自我を投影し、所有しようとする。もし親が子供に対し所有の概念を持っているとすれば、その子供も他者に対し所有の概念でしか関係できなくなる。支配欲や権力欲の問題は、この所有の概念が根本にあると考えられます。
自我の投影により所有概念が生まれるとすれば、「自分の内側に入れる」ことが「所有する」ということになります。映画監督のジャン=リュック・ゴダールは、自分の身体は外部である、と言っています。つまり「自分の身体は自分のものではない」ということです。この区分けはデカルトの心身二元論(精神と物質)の分け方と重なります。心と体の区別をつけるということは、「自分の身体は自分のものではない」と考えるということです。この前提から出発すれば、他者を所有概念で考えることは無いはずです。支配欲を持つことも出来なくなる。自我の外にあるもの(他者)を認めているからです。
所有という概念は、自我の内側に対象を取り込む(自我を投影する)ことで発生します。その内側に取り込めないものは、購入によって所有する。この場合は、「自我投影のプロセス」が「購入手続き」に置き換えられています。よってお金さえあれば、疑似的に自我をどこまでも延長できることになる。言い換えると、自我の外にあるものと出会う機会を失う。我儘や自己中を押し通す状態がこれに当たります。
客観的に言って所有という概念は幻想の領域です。究極的に自分のものと言えるとすれば、それは「自分の経験」だけでしょう。どんなにつまらない経験だったとしても、それだけは疑いなく「自分のもの」です。それ以外のものは、たとえ稼いで高級車を買おうと、自分で家を建設しようと、それ自体は自分のものではない。ただの物質でしかありません。それを自分のものだと考えるのは、そう思いたいからです。もちろんそれでは生きていて楽しくありません。だから私たちは、自分のものという幻想をたくさん持って、楽しみならが生きているということなのでしょう。
AUTOPOIESIS 0028./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』