生物多様性なることばをよく見かけます。それとともに「多様性」という言葉が、様々な場面で使われるようになっています。そもそも多様性とは「違いの共存」とでも呼べる状態を示しています。自然界はまさにそのような状態であり、それらの違いが影響し合い、一つの生態系をかたち作っている。つまり個々の違い(差異)は、自然にとって不可欠なものです。
生態系にとってなくてはならない「多様性」は、自然発生的に生まれる差異です。それはエコシステムにとっての重要な要素。もし個々の差異がなくなり、すべてが一様となれば、エコシステムは停止する。つまり「個々の違いが全体(エコシステム)を機能させる」という意味においてのみ、「多様性」が重要だとうことです。
しかしこの「多様性」という言葉が、いま自己正当化の方便として使われています。自分(或いは所属する組織)を、周囲が認めないのは多様性に反する、といった具合に。しかしこの論理を突き詰めると、泥棒の多様性を認めよ、暴力をふるう多様性も認めよ、ということにもなります。彼らには「多様性」がエコシステム維持のための「分散機能」であることが理解できていません。ただ言葉の意味が悪用されているだけです。「多様性」を自己正当化と思い違いをすると、逆に人間にとっての生態系である「社会」が腐敗していくことになります。
社会的なエコシステムが機能するための「多様性」を、どのようにつくりだすか。これが今後の人類のテーマです。生物多様性にできるだけ近い形で、「社会的な多様性」を実現させていく。そのためにはやはり、自然界の多様性を手本にする必要があります。自然界の多様性は、たとえ暴力的に見える捕食者であっても、そのすべての行動と結果が生態系維持のための重要な要素になっています。それに対して社会的な暴力は、ただ社会を破壊するだけです。
これまでの社会は、自然環境を人工的に整備(制御)することで成立してきました。自然と共存していた先史時代の社会とは違い、現代の社会は自然を制御し利用するだけで、基本的には自然と断絶しています。自然から隔離された環境内(現代社会)での暴力や破壊は、社会の無秩序化と、環境破壊へ向かいます。自然のエコシステムによる再生産機能が、今の社会には存在しないからです。よって「多様性」と自己正当化を混同することは危険なことなのです。
今後、自然がもつエコシステムを社会が獲得するためには、真の意味での「社会的な多様性」の成立が必要不可欠です。それは個々が「なすがまま」を正当化するのではなく、エコシステムにとっての「多様性」を理解することから始まります。その意味でも、「自然との共存」を高次元で回復した「環境主義的な社会」をイメージすることが大切です。自然を制御するのではなく、環境の変化に対応しながら変化していく社会。「自然との同期」と「社会的な多様性」の確保は、これから同時に行われるのて行くだろうと予想されるのです。
AUTOPOIESIS 0059/ illustration and text by : Yasunori Koga
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