「人間は生物である」。その意味では、アメーバーなどの単細胞生物と変わりません。「人間は動物である」。その意味では、犬や猫と変わらない。「人間は高度な知能をもった動物である」。程度差はあれど、その意味で人間は、サルやチンパンジーと変わらない存在です。「人間は自我を持った存在である」。これは今もって並ぶものがありません。
人は自我を持つがゆえに、他の動物との違いが明確になる。この自我とは何か。簡単に言えば「自分が『自分』と思っているもの」でしょう。言い換えると、「他と自分を“区別”している機能」、とでも言えばよいでしょうか。よって「みんなと一緒」になろうとすると、自我は喪失へと向かいます。
もし「みんなと一緒」へ向かうことが、自我喪失の原因だとすると、それは「自我をもたない動物へ降格する」ことではないか。こう言うと、「人は社会的な動物なので“みんなと一緒”でなければ人間ではない」という人もいるかもしれません。しかし群れになる動物は「みんなと一緒」ですが、自我は持ち合わせていません。かれらは「本能」によって群れを成しているだけです。
人間が集まって、「みんなと一緒」という気持ちになった時、自我はなくなります。硬い言い方をすると「責任」がなくなる。だから集まりたいと無意識で思っている人もいるでしょう。つまりここに「集団になると自我は消滅する」という定理が現れます。多数への帰属意識は、自我からの逃走である、というわけです。
集団になることで自我を失う。それが「群れ化した動物たち」であるとするならば、多数への帰属意識に支配された集団は「羊の群れ」なのかもしれません。そして多数決の原理である「民主主義」の社会も、「羊の群れ」の社会であるかもしれない。「民主主義」を推し進めることで、人々は自我を喪失し「羊の群れ」となる。これが「民主主義」の矛盾であり限界にある問題です。
もし人々に「集団になれない状態」が発生すれば、個々の自我は守られます。つまり「羊の群れ」にはなれない。言い換えると責任は自分で背負うしかない。これまで「羊の群れ」で安心してきた人々にとっては、幾分か辛い状況かもしれません。しかし「自我喪失の病」と「集団への帰属」の関係を考えたとき、その「安心」こそが病理の入り口であることを、理解する必要があります。
私たちが良かれと思い進めてきた「民主主義」が、逆に人々を「羊の群れ」に退化させてしまう。どのようなシステムであれ、時と共に形骸化していきます。自我という高度な機能を持った人間が、その機能を退化させるような「多数への帰属意識」をどう回避していくのか。これから必要となる社会の形態は、「民主主義」と「集団心理」を揚棄した場所に構築されるのです。
AUTOPOIESIS 0062/ illustration and text by : Yasunori Koga
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