『名前と虚構』

 これはリンゴである。川である。或いは人間である。ものには名前が付けられています。そうでなければ他人と共通に会話が出来ません。しかし、目の前にある「赤くて丸い物体」は「リンゴ」などというものではなく、「見たまま」の物質です。あるいは「あるがまま」の存在と言ってもよいでしょう。
 人によって「見え方」は違います。微妙な赤をオレンジと感じる人もいる。形にしても人それぞれ印象が違います。つまり、それぞれが感じている「まるくて赤い物体」に便宜的に「リンゴ」と名付けて、会話が成立するようにしている。名前がなければ、みなバラバラで、会話が成立しません。

古賀ヤスノリ イラスト
 ここで妙なことに気づきます。みなそれぞれに「見え方」が違うのなら、それらを「共通に認識する基準」をどのように発見たのかということです。もし「見え方」がバラバラなら、共通項を抜き出すことは不可能です。しかし「リンゴ」にはリンゴに共通する“何か”がある。だからみなリンゴを思い浮かべることができる。
 みなそれぞれに認識しているリンゴは別々のリンゴです。会話でリンゴの話しをしていても、まったく同じリンゴのイメージを持つことはあり得ないでしょう。しかしリンゴの「リンゴたる所以」は、みな同じイメージとして持っている。つまりリンゴの「定義」をイメージとして理解しているということです。

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 このイメージによる「定義」さえ共通であれば、あとは少し欠けたリンゴであろうが、赤くないリンゴであろうが、共通に会話が成り立ちます。この定義は言葉による定義ではありません。むしろ言葉に出来ない定義であるからこそ、無限の差異を統一できる。ここに「言語の終焉」というテーマも発生してきます。
 「言語の終焉」の話しは別の機会に譲るとして、リンゴの共通項であるイメージ定義を、紀元前にすでに発見した人がいます。古代ギリシャの哲学者プラトンです。彼が発見した概念で一番有名な「イデア」がそれにあたります。プラトンはイヌならイヌの、シカならシカの、イスならイスのイデアがあると言います。それぞれの違いを超えて共通にあるもの。そのイデアは言語的な差異ではなく「直観されるもの」です。
 丸くて赤い果物に「リンゴ」と名付けたときから、人々は目の前の「あるがまま」を見なくなる。個別的な差異は見なくなります。そうして私たちは、「言葉だけの世界」に入り込み、そこから出られなくなる。名前とは本来イデアに付けられたものであり、本物は一つとして同じものはありません。しかし言葉に支配されると、名前が実質となる。このような形骸化が「人を虚構に住まわせる」のです。

AUTOPOIESIS 0061/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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