『二つの理解』

古賀ヤスノリ 水彩 イラスト
 物事の理解の仕方には二つあります。一つは「受動的な理解」です。たとえば、子供が親から「赤信号は渡ってはいけないよ」と言われ、それを理解するというもの。もう一つは、「能動的な理解」です。子供が赤信号を渡ろうとして人とぶつかり、だから「赤信号は渡ってはいけないのだな」と理解するというもの。前者は親が一般化して言葉という情報に変換したものを、ただ鵜呑みにする理解です。後者は事実から一般法則を自分で導き出し、頭の中で言葉へ変換して得られた理解です。二つの理解は同じ「赤信号は渡ってはいけない」へ行き着きますが、それまでのプロセスや経験が全く違います。
 一般化されたものや情報化されたものを鵜呑みにするのが「受動的な理解」。自分自身で物事の一般法則を感じ取り、情報化しながら理解するのが「能動的な理解」です。前者は機械的な理解であるという意味で、ロボットにも可能です。後者はより複雑な理解なので、AIが超えるべき指標であり、その意味では人間らしい理解の仕方だと言えます。
 二つを「情報の鵜呑み」と「経験的な理解」と言い換えるならば、前者の理解方法は、情報の前提を問うことがないので、騙されやすい人間を作り出します。後者は経験を吟味するプロセスがあるので、騙されにくい。理解の仕方は学習方法の根幹ですが、ただの暗記や詰め込み式の学習法は「情報の鵜呑み」型であり「受動的な理解」のみを発達させる教育だと言えます。「経験的な理解」を育てる学習法は、鵜呑み型よりも複雑で手間がかかる教育システムが必要です。さらに管理する側からすれば、「鵜呑み型の人間」が多数であるほうが具合がいいはずです。
 人間が真の意味で、人間らしい能力を発揮するには「能動的な理解」を発達させる必要がある。これは明らかなことです。「経験的な理解」の蓄積によって、予想外の事態にも対応できる思考が形成されます。しかしこのような「能動的な理解」を発達させる環境が、日々失われてきているのが現状です。現代の理解はネットによる検索で済まされることが多くなっています。つまり誰かが一般化して文字情報にしたものを鵜呑みにする理解が多数を占めている。これらの理解が全体として社会を動かしている。社会は全体として一般化し、社会自体が新しい局面を乗り切る力を失いつつある。
 「情報の鵜呑み」に対する「経験的な理解」には「主体」が必要です。物事に対して「主体的に関わる」ことで、その経験が自分のものとなる。主体的な関わりがないものはすべて「受動的な理解」に留まります。この主体を育てなければ、結局はなにをやっても物事との積極的な関わりが生まれない。その「主体」とは「一般」や「標準」、「平均」といった概念の逆数にあたる観念です。「主体」とは一つであり、それ以外「他」ではないものです。学習や教育は「一般化した情報」や「共有すべき情報」を理解させるという目的があります。しかしその理解の根幹が「一般化できない主体」(個性)によってしか能動的になされないという逆説がある。その逆説をもう一度問い直し、新たに教育や学習の現場に組み込む時期に来ています。情報化社会の負の側面と共に、個性に即した学習や教育の在り方が、いま問われているのです。

AUTOPOIESIS 0069/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『isonomia』
映画エッセイ→『Cinepheno』
ブックナビ→『本と変分』

Scroll to top