『光と影』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 絵を描く。最初はまっ白い紙から始まります。つまり綺麗な「白の領域」を汚すことでしか、そこに新しい世界は生まれない。これはだれでも知っています。絵はつねに純度100%を破壊しながら描き進める。ある意味で矛盾そのものです。創造行為は矛盾である。いや矛盾を超えるからこそ創造である。
 まずは白い紙に線を引く。すると形が現れる。丸、三角、四角、線によって構造を描くことができる。立体だって線で表せます。透視図法で奥行のある空間も描ける。この線はとても重要で、描かれたものを見ると、だれでも三角形の構造がわかる。これは線だけの構造だからであって、もし赤いリンゴだと同じ赤を見ているかどうか分からない。オレンジに見える人もいるでしょう。
 線によって表された三角形は三つの角がある。誰もが同じ認識にいたる。これは凄いことです。そこへ今度は影を付ける。すると立体構造はさらに重みと存在感が増す。これは白い紙を汚していくことで世界が現れることと似ています。加えることで増していくものがある。
 何もないところに線や影を加えると存在感が増す。構造(線)に影を付けることで、光と影が表れる。つまり影によって光が表現される。二つは相対的な関係にある。よって影をなくしていけば光も無くなる。これは重力を排除すれば歩いている感触が乏しくなる原理と同じです。
 寒さによって暖かさが支えられている。あるいは空腹だからこそ食事に満足を覚える。すべては背反する概念に支えられたものです。逆の概念が不足すると、逆もまた不足するとう原理がある。絵に描いた影が小さければ、光も小さくしか感じない。この究極は生と死の関係かもしれません。
 絵を描く時には、だれでも無意識に反対概念のバランスをとっています。むしろ反対概念は無意識でやったほうがうまくいく。光を表現するときは、無意識で影のバランスを取っている。カラフルにしたい時はモノクロームとのバランスを取っている。もし光を表現したいからと影をどんどん排除していくと、光もなくなってしまう。悲しいことですが、逆のものでしか支えられないのです。
 光を表現するには影が必要です。影を許容できて初めて光が表現できる。これは「光」という言葉上の意味からすれば矛盾かもしれない。しかし真実は両極を統合する場所にしかありません。言葉に支配されると現実からずれていく。その点で絵は健全な世界です。
 影の部分にはなにもないのか。影の部分には存在の暗示があります。つまり影にはメタファーがある。色彩を使う絵であれば、影の部分に色面が入り、そこが鮮やかなメタファーとなる。秘すれば花。多くの物語が故郷の出発から始まるように、白い領域から物語をスタートさせる。新し構造と影、色彩を許容することによって、自分の物語が作り出される。白との別れ。その郷愁に見合う世界を、創造によって作り出していくのです。

AUTOPOIESIS 106/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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