『選択の恣意性』

古賀ヤスノリ イラスト

 世界にある途方もない情報の数々。そのなかから私たちは生活に必要な情報を集め、意味づけし、そこに法則を見出ながら生きています。これはネットや印刷物、テレビなどの情報に限らず、人々の身振りや行動、集団の方向や事件の起きかたに至るまで、すべてを情報として利用しています。
世界の情報は無限と思えるほどにある。よって、すべてを捉えることは出来ません。自分に必要なものだけを拾い、それ以外を無視することで、ようやく情報を自由に扱えるようになります。つまり人は情報を何気に拾っているようで、実際は目的にそって拾っている、あるいはそれ以外を捨てている。これを「選択の恣意性」と呼ぶ事にします。
 この「選択の恣意性」は、その人の目的によって決まる。たとえば、帽子屋で「赤い」帽子が欲しいから「探す」。これが一般的な「目的と選択」の関係です。しかし、ここでいう「選択の恣意性」とは、見ていないようで見ている街路樹や人の身振り、事件が起きたときにそれを解釈する視点、といったほとんど無意識と呼べる情報選択のことです。これらは「無意識に設定されている目的」によって条件づけられています。
「選択の恣意性」は「無意識の目的」によって条件づけられている。もしそうであるならば、人は自分の情報選択の癖を知らない、ということになります。いったん集めた情報をどのように解釈し、目的に合わせて利用するかを意識することは出来る。そこは現代人の得意分野です。しかし、前提となる情報の選択の仕方が、どのような目的によってなされているかを知らない。ここに一つの限界と突破口があります。
 例えば、もし無意識の目的が「自己防衛」に設定されているとすれば、「自己防衛」に必要な情報だけを無意識に拾うことになります。しかし意識では「積極的でありたい」あるいは「攻めていきたい」と考えているとします。すると集めた情報が保守的で消極的な情報ばかりなので、思うような結果が出せなくなります。なぜか物事が上手く行かない時は、このような現象が起こっているときだと考えられます。
 この「選択の恣意性」という考え方は、「無意識の目的」という前提を浮き彫りにします。つまり「無意識の目的(気持ち)を正当化するよう情報を拾う」、あるいは「無意識の感情にそぐわない情報は遮断する」ということです。こうなるとその設定から一歩も出ることができない。自分の中の「うかがい知れぬ何者か」が選んだ世界に住み続けるしかない。その中での選択を自由といい、行為を努力と呼ぶことになる。「自らの檻」という比喩はまさに「無意識の檻」のこと。この「檻」さえ認識できればあとは突破するだけでしょう。

AUTOPOIESIS 0022./ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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