組織やグループという枠で人々が閉じられた時、そこには「排他性の原理」が働きます。枠の構成員の条件を満たさない存在を排除する力があり、その力が働いている限りにおいて、その枠は存在できます。「内部」という概念は、「外部」との関係があって初めて存在できる概念です。よって「内部」を安定させるためにこそ、「外部」が必要となります。よって、もし「外部」がなんらかの影響で消滅(不足)すれば、「内部」の一部を外部化することで「内部」を安定させることになります。このスケープゴートは、家庭や会社、地域や国家にいたるまで、共通に見られるものです。
そもそも「内部」として‟閉じているからこそ“「外部」による支えが必要となります。もしその集団なり組織の枠が閉じることなく柔軟であれば、「内部」と「外部」の交換が流動的に行われ、生きた組織としての活動が可能となります。これは生物の基本的な在り方(オートポイエーシス)であり、閉じることでしか存在し得ないものは、硬化したもの(死んだもの)に他ならなりません。エネルギーの視点から言っても閉じた内部は高エントロピーになり、生物は死に絶えます。この避けられない消滅への流れを阻止するために、内部の一部を外部化するという延命が行われるのです。
このような「排他性の原理」をもった社会を、一般には保守化とか右傾化と呼んでいます。つまり同一傾向で集まり、異質を排除することで安定するという状態です。保守化や右傾化の原因は「怖れ」であり、それがつまり「外部への過剰意識」ということになります。よって内部の結束を固めたいときは、外敵を意識させるという方法が取られます。しかしその外敵は必ずインフレーションを起こす。それと共に外敵を失った内部は、内部に外敵(外部)を作り出すことになります。そして作り出した「外部」を放出し安定する。しかし安定は続きません。なぜなら枠(内部)というもの自体が幻想だからです。そもそも「枠」は現実を直視できない妄想の産物なのです。
しかし『排他性の原理』に支配された社会では、つねに枠と共に外敵が措定され、「内部」に「外部」がねつ造されます。「外部」に認定された者は、相対的に悪者となる。しかしより大きな視点でみれば、立場は逆転します。「内部」の多数派こそが、純粋な「枠の維持」という幻想に支配され、外と内に外敵をねつ造し続ける病的傾向にあるのです。その事実を直視できないがゆえに、さらに敵を見出して「偽りの安定」を得ようとする。
フロイトは、病的傾向の人間が集まって集団を形成すると、その「内部」では個人の病的傾向が消失すると指摘しています。しかし、その集団自体が病的になるということです。つまり全体として病的に振る舞うことで「内部」が安定する。この傾向が現れた内部は、すでに全体的な死が始まっていると見ることが出来ます。もし「内部」で生き残れるものがいるとすれば、それは「外部」というレッテルを貼られた者でしょう。それは外部へ脱出できる権利を持つことを意味しているのです。
『排他性の原理』とは関係の原理であり、「恐れるものを必要とする」というパラドクスの原理です。パラドクスに支配された者はそこから抜け出すことはできない。出口を封鎖した「内部」で出来ることは、「内部」に疑似的な「外部」を妄想することだけです。幻想の出口への逃走として、外敵のねつ造が続けられる。これは集団的な「死に至る病」なのかもしれません。
AUTOPOIESIS 0023./ illustration and text by : Yasunori Koga
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