予見とは先を見越すこと。予知ともいいますがこちらのほうは未来予知や予知夢などサイエンスフィクションの雰囲気があります。どちらにしろ今現在で未来を予測してそれを当てるということです。そんなことあり得ないとおもう。しかし万有引力の法則を知る私たちは、テーブルから皿が落ちたあと、床に落ちると予見できます。しかし落ちた後に割れるかどうかの予見は、その皿に対する経験的な情報に依存します。カフェで働くひとが毎日数多く手にしているなら「割れる!」と予見できるかもしれなせん。それが初めてきたお客さんなら難しいでしょう。
万有引力のような知識と経験則によりある程度の未来予見が可能です。しかし時間軸を伸ばすと予見は難しくなる。皿が割れた後みんながどのような反応を示すのか、さらの小さな破片がどこかに残ったままになるのかわからない。もしかするとその皿はテーブルの足に刺さったまま、店をたたむまで生きのびるかもしれません。こういったことは予測可能な短いスケールをつなげていってもわからない(例えば微分方程式など)。もしそれを「そうなるかも」という蓋然性の枠内にいれるとするならば、直感的なイメージで把握するしかありません。
理屈は部分の積み重ねにより全体(未来)を,把握していくものです。それに対して直感は一度に全体(未来)を把握するものです。よってそこに至ったプロセスはありません。あるのかもしれないが把握されません。ある映画をみて、別のある映画のイメージがパッと出たときは、推理ではなく直感的な把握です。あるいはこの道は何となく通りたくないなといった「虫の知らせ」も直感判断です。こういった判断は膨大な知識と経験則が無意識の中で超高速で演算され導き出されるものです。よって意識的、理屈的(たとえばネットで条件を吟味するような方法)である限りは直感は開かれず予見は発動しない。予見は日ごろから無意識や直感を使うことで、自然に出てくる「通常の能力」なのです。
AUTOPOIESIS 244/ illustration and text by : Yasunori Koga
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