『世界を広げる』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 自分自身の世界観が狭すぎると、何事も決めつけが強くなってしまう。そうなると好奇心も弱くなり未来の可能性も狭まってしまいます。しかしその世界観は不自然なのですぐに現実から修正を迫られることになります。もし修正を拒み、狭い世界を無理に維持しようとすれば、敵や悪者が必要になってきます。敵の侵入や悪者の存在によって自分の世界が脅かされる、という物語で「閉じること(自己防衛)を正当化する」しかなくなるからです。
 決めつけが強すぎると好奇心が働かなくなる。すると未来の可能性は閉じられ現状維持に固執するようになります。そして狭い世界観を正当化するために敵が必要になる。いない場合は無理にでも作り出すことで物語を維持する。これは集団であっても同じです。妄想性の入り口はここで、現実からのフィールドバックを取り込み、自分の世界観を広げることでしか、その入口を閉じることはでしません。
 そもそも世界は常に変化しています。人間の細胞だって一年間で全て入れ替わる。自分を固定できているというのは錯覚で、無変化なものがあるとすればそれは情報化されたものだけです。よって情報に依存しすぎると自我が変化を許容できなくなり、過度に防衛的になる。そうならないためには、リアルな現実を自分で解釈して取り込んでいく。そして自分の世界観を常に修正して広げていく。そうすることで変化のある未来に開かれた自我が形成されるのです。

AUTOPOIESIS 161/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『正のループ』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり
 人がなにかを選択するとき、自分が良いと思う方を選ぶのが普通です。しかし自信がないとなぜかダメな方を選んでしまう。求める方を選んで失敗すると傷つくので、それを恐れ回避しようとするからです。つまり自ら失敗を選ぶほうがまだ傷が浅いということです。しかしこの傾向はあまり幸福な状態ではありません。
 自信がないとはつまり、自分を信用していないということです。だから失敗して傷つくことを過度に恐れている。そこで傷つくよりも自ら失敗を選ぶ。転ぶよりも自ら倒れるほうが傷は浅いから。そうして本当は求めていない方を選んでいく。これは一種の自己防衛の心理です。
 この傾向を正常化させるためには自信が必要です。しかし自信をつけるには、自分の選択による結果が良いものになる必要があります。よって、本当に求めるものを避けている間は自信がつかない。この負のループから解放されるためには、ただ一つ、勇気を出して欲する方向を選択すること。そうすればもし失敗したとしても、勇気を出せたという事実が、新しい展開に繋がっていく。ここに正のループが生まれるのです。

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『現実を読む』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 分からないことがあればなんでも検索する。ネットは便利なもので、誰かが必ずと言って良いほど情報をアップしてくれています。それを読めば知りたいことが分かる。もちろんその情報が正しいかどうかの問題はありますが、とにかく検索すれば知ることができる。ほとんどの情報を知ることができりので、検索しても出てこないものはこの世にないものとして扱われる。少し大袈裟ですが、検索して出てこないものは分からないので、無いと判定しがちなことは事実です。
 例えばネットの地図にない道はないものと考える。カーナビの情報とは違う大きな道が現れたら驚いてしまう。しかし本当は驚く方がおかしい。なぜなら、ネットの情報は現実の一部を情報化したに過ぎず、まだ情報化されていないものも沢山あるからです。さらに現実は変化するので、それに応じで情報をアップデートしなければならない。しかし修正せずに放置されたままの情報もたくさんあります。
 人は大事なものはあまり人目に晒さない性質をもっています。よって大事な事や重要な発見などはいまだネットに情報化されていない場合が多い。それらはネットではなく現実の方にある。この意味ではネットに情報化されたものは既に終わったものであり、古くなり修正を待つものも多いと言えます。もっとも新鮮で価値があるのは現実の情報です。私たちはネットの情報を読むように、「現実を読む」ことではじめて古い情報の蓄積による「思考の形骸化」を回避することができるのです。

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「精神的な自由」

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 自由とは拘束をうけずに自分の思うままに振る舞えることです。例えば手足を使うことを制限されていたら自由に振る舞えない。これは「物理的な自由」の問題です。しかし自由とは「精神的な自由」もあります。ものの考え方が他に拘束されずに自由であること。例えば人目を気にし過ぎたり、親や世間体といった価値観だけを採用していると「精神的な自由」は阻害されます。このように自由には「物理的な自由」と「精神的な自由」の二つがあります。
 自由の問題でよくあるのは、なんでもありは自由にあらず、ということです。ただ好き勝手に振る舞い他人を傷つけたりすることは自由ではありません。なぜならそれは相手の自由を阻害していることになり、その世界を許容すれば自分もまた自由を阻害されるからです。さらに精神的な面でも、自分自身への禁止が多ければ、他人へもそれを強要して相手の自由を阻害してしまう。つまり自由とは自己と他者の両方を拘束しない状態だといえます。
 自由の根本は自分が他に依存せず精神が自由であることです。そのことによって判断の自由や行動の自由といった「物理的な自由」が生まれる。そうなれば相手の自由を阻害せずに尊重することも自然になされます。自己と他者の自由を同時に確保するためにも、自分を自ら拘束せず「精神的な自由」を保つ。そうすることで相手の精神が自由であることも自然に受け入れられるのです。

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『一般化できないもの』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 個性という言葉は人びとの間で一般化しています。誰もが個性という言葉を共通に理解している。しかし、個性とは一般からはずれた部分を意味している。つまり「みんなと同じ」以外の部分に個性が現れます。つまり一般化できない所を個性と呼ぶ。
 一般化できない性質である個性が、自分と他人を区別する指標であり、それは他人がどう頑張っても得られないものです。例えば真似するのが得意な人でも、完全にそれを真似しつくせない性質のものが個性です。よって個性というものを本人が捨て去ろうとしても、そんなことはできない。なぜなら個性こそが自分そのものだからです。
 その人固有にある性質である個性は捨てることができない。また他人が完全に真似ることもできない。そんな個性を無視して一般化しようとしても無理があります。上手くいかないし、むしろ失敗の連続になってしまう。一般化が難しい性質は、受け入れてその個性に従うことで、本来の自分らしさや自由が生まれる。つまり一般化できないことを受け入れた時に、真の自分が現れるということなのです。

AUTOPOIESIS 157/ illustration and text by : Yasunori Koga
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