『ナルキッソス②』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 水面に映る自分にみとれて湖に沈んだナルキッソス。彼は世界が自分だけで満たされてしまい現実を見失ったのでした。それは理性や客観性が損なわれた状態、ゆえに主観的には絶対的な高揚感に満たされていた。自分に関わることはすべて過大評価され、それ以外のものはすべて過小評価される。当然ながら自分を批判する意見は、それが正当であったとしても受け入れられない。それらは全て自分への攻撃と感じられ腹を立ててしまう。
 ナルシシズムに支配された人が正当な批判にたいして、過剰に反発するのはなぜか。それは自己肥大化が「恐れから逃れる方法」であり、肥大化した自己に対する批判はその方法を脅かすものだからです。つまり正当な意見や自分の失敗を受け入れることが、最も自分が恐れるものへ繋がっている。ゆえに誤った舵取りを修正することができない。このパラドクスの構造は危機的です。
 自分自身だけを強く見続けようとすることは、恐れから逃れるための最終手段です。恐れを抱けば抱くほど自分を肥大化させ続けることになる。そしてそういった行為に対する意見は全てはねのける。すると恐れから(一時的に)逃れられる。しかしその代償として現実との接点を失ってしまう。現実的に自分自身をチェックする状態が損なわれると、あとは行き着くところまで行ってしまいます。
 ナルシシズムには良性と悪性とがある。この二つを分類したエーリッヒ・フロムは、ナルシスティックではあるが創造的な人間がいることを指摘し、その条件として「自己チェック」が可能であることを挙げています。現実において「自分が創り出したもの」に関心を持つこと。このセルフチェックによって良性のナルシシズムが発動する。悪性のナルシシズムの場合は自分に見とれるだけで、作り出すものにまったく関心がなく、セルフチェックもないのです。
 もし水面に映る自分に見とれていたナルキッソスが、水面の自分から目をそらし、現実の世界で何かを作ってみたとすれば、あるいは自分自身にはっと気づくことが出来たのかもしれないのです。

AUTOPOIESIS 123/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『ナルキッソス①』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 数あるギリシャ神話のなかでもナルキッソスの話しは特に有名です。結末としては水面に映る自分の姿に見とれて溺れ死ぬというもの。この物語をもとにしてフロイトが名づけた「ナルシシズム」という言葉は、今では「ナルシスト」として一般化しています。フロイトが発見した心の病の根源でもある「自己愛」という状態に「ナルシシズム」という言葉をあてたことろはさすがとしか言いようがなく、その構造と結末を見事に表しています。
 フロイトが言うナルシシズムの状態は、幼児期の状態であり、それは絶対的な自己満足の状態です。その究極の状態が、子宮のなかの胎児であり、そこでは絶対的ナルシシズムの状態にある。人間はそこから一歩踏み出し、変化する外的な世界を許容するとともに、ナルシシズムの状態はうち破られていく。そして自己に向いていた心的エネルギーを「外部の興味」へと向ける。これが健全な発達過程とナルシシズムの減退です。
 しかし不安や恐れなどの原因によって、外部へと向けられるはずの心的エネルギーが自分自身へ向かえば、そのエネルギーは外へ出て行かずに自己肥大化を起こす。胎児的な絶対的ナルシシズムの状態は、外部がない状態であり、だからこそ外の不安や恐れから身を守るために自己を肥大化させる。世界が自分なら不安も恐れもないわけです。しかしナルキッソスは最後には溺れてしまう。なぜなら現実が見えなくなっていたからです。
 不安や恐れのために自己を肥大化させ、自分を現実の替わりにする。そういった自分だけの世界では、自分に関わることだけが過大に評価され、それ以外のものはすべて劣等となります。さらに自分の失敗や外部からの正当な批判を受け入れることができなくなる。そのことが自己修正を不可能なものにしています。このような構造が出来上がってしまった後に、状況を改善することは可能なのか。我に見とれて沈みゆくナルキッソスを救う方法はあるのでしょうか。

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『バイオフィリア』

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 生きものに対する興味、あるいは草花に対する愛情。そういった「生を愛する傾向性」を、社会心理学者のエーリッヒ・フロムは「バイオフィリア」と呼びました。「バイオフィリア」は生命を守り死とたたかう性質であり、この方向性にあるものは、物理的にも精神的にも生き生きとして豊かなものになっていく。
 「バイオフィリア」に対して、その逆にある傾向性を「ネクロフィリア」と呼び、フロムは「死を愛する傾向性」と定義しています。これは生きたものを停止させ、支配(所有)する。そして全てを枯れたものへ変えてしまう。「バイオフィリア」とは完全に逆ですが、本人はその傾向に気づいていない場合が多いといいます。
 この「バイオフィリア」と「ネクロフィリア」の二つの傾向は、誰もがもっているもので、人格としてどちらかが優位にある。とうぜん「バイオフィリア」を優位に保つ必要があります。「バイオフィリア」は生きたものへの関心だけでなく、現状維持よりも冒険を、部分だけでなく全体を、概要だけでなく構造を見る。そして自らの創造により、周囲に影響を与えていく。これが「バイオフィリア」の特徴です。
 この「バイオフィリア」の特徴を読んで気づいたことがあります。それは私が絵の教室でポイントにしている事とすべて一致しているということです。絵の教室なので絵が上手くなることが目的ですが、描くことでその人の人生が豊かになっていかないと勿体ない。そう思い考えた「描き方の原則」とフロムの「バイオフィリア」の定義が一致していたので、深く共感しました。
 「バイオフィリア」という生を愛する傾向は、生きているものにとって必要不可欠な要素で本来特別なことではありません。しかしフロムが指摘するところでは、社会が数量化と機械化、そして官僚化することで、人々が「ネクロフィリア」へと傾斜していく。昨今の異常な事件や人々の社会(あるいは他者)への無関心などはその一端です。つまり死の傾向性が多数を覆ってきている。よって相対的に「バイオフィリア」が育ちにくい環境になりつつありるのです。
 フロムは「バイオフィリア」の発生をうながす条件を、創造する自由、挑戦する自由、そしてそれらの自由のために責任をもつこと、としています。それらの要素は成果主義や官僚主義的な社会では許容されていません。しかし個人の芸術活動ならそれが可能です。自由な創造行為によって成長を続けることが、「ネクロフィリア」をおさえ、生を愛する「バイオフィリア」を優位に保つ最善の方法なのです。

AUTOPOIESIS 121/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『線でえがく』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 日本の国宝にウサギやカエルが擬人化された絵巻物『鳥獣戯画』があります。その作者は謎ですが、鳥羽僧正(覚猷)ではないかとう意見が一般的です。たいへん偉いお坊さんで絵も上手かった。言い伝えによると、鳥羽僧正が死に際に、寺の後継者を誰にするかと聞かれて、腕相撲で決めたらいいなどと言ったといいます。位の高いひとにしてはかなりユーモアがあったようです。そんなユーモアのセンスと絵の技術の持ち主ということで『鳥獣戯画』の作者と目されていた。
 他にも弟子の絵を今でいうリアリズムの視点で批判したら逆に、見たままではなく伝えたいものを誇張しないと本質は伝わらないと言いかえされて、ぐうの音もでなかったという話があります。これはその時代にすでに見たまま写実するよりも、ある種の変形を許容するほうが本質が伝わりやすいと考えていた、ということを示しています。リアリズムを基本とするヨーロッパの画家たちも、そういった日本美術を驚きとともに受け入れ、印象派以降の画家たちが影響を受けている。このことを考えると、内容を象徴的に表現することの重要性は人間にとって普遍的な価値があるのかもしれません。
 日本人はひらがなを発明したように、古来より線描を好んで発展させてきました。『鳥獣戯画』のように形をアウトラインで描いて表現するスタイルです。このスタイルは現在、漫画に受け継がれていることを考えると、日本人が世界的にみても漫画が得意であることは必然的なのかもしれません。しかし西洋美術に見られる影による立体描写と線描は相反する表現てあり、とくに西洋型のデッサンでは輪郭線はタブーです。つまり科学的な認識における客観的な造形に輪郭線はないということです。ですがそれも一つの認識にすぎず、線による認識もまた対象の認識であることには変わりありません。
 日本人は西洋型の影による認識表現よりも、線による認識表現が適している民族です。そのように美術も発展してきたし、いまでも海外から最も評価されているのは漫画やアニメなど線描を基礎とする表現です。しかし戦後日本は西洋型の美術教育を取り入れて、線描はカルチャーからサブカルチャーへ追いやられてしまいました。しかし本来の日本人の能力を引き出すには線描を再評価し、西洋美術へのコンプレックスを克服しなけらばならない。
 鳥羽僧正は弟子からの指摘に反論できなかった。いや弟子が正しかったので反論しなかったのでしょう。このように表面的なことだけでなく、より深い本質が理解できる偉い人が昔の日本にはいたという事実は無視できません。もし今もそのような人たちがいたら、ただの欧米追随型の文化形態にはなっていなかったはずです。もちろん敗戦の影響でそうならざるをえなかったわけですが。
 敗戦の影響が日本人の絵による世界の認識方法にまでおよんでいる。おおげさなようで、やはり無いとは考えにくいようです。日本人の無意識の倫理観をまとめた新渡戸稲造の『武士道』ですら、戦後民主化の一環として規制の対象になったのですから。しかしそろそろ我々も、本来もってる日本人が最も得意とする線描を見直していいのではないか。もともと日本人が得意とする表現方法が、サブカルチャーである漫画やアニメとして世界で評価されるのは必然ではないか。線を長らく愛してきた民族であるがゆえに、線を再び取り戻すことは自分自身を取り戻すことなのかもしれません。

AUTOPOIESIS 120/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『ダイダロスの助言』

古賀ヤスノリ イラスト こがやすのり

 前回のアリアドネの糸は、英雄テセウスを助けるためにアリアドネが考え出した、と言いたいところですがそうではありません。実はミノタウロスを閉じ込めるための迷宮を設計した、天才発明家ダイダロスから聞き出した知恵でした。迷宮から見事に脱出したテセウスはアリアドネと駆け落ちする。それを知って憤慨したミノス王は、アリアドネに知恵を与えたものを探す。そしてすぐにダイダロスであることがばれてしまう。
 ダイダロスは罰として息子イカロスと共に自ら設計した迷宮に閉じ込められてしまう。ダイダロスは迷宮の設計図を燃やしてしまっていて記憶も定かでない。絶望するイカロス。しかしダイダロスは天才の知恵を活かし、空飛ぶ翼を設計し2人で脱出を図る。だだし脱出の条件として、あまり高く飛んでもいけないし、あまり低く飛んでもいけないとダイダロスは助言する。しかしイカロスは脱出したことを喜び高く舞い上がり過ぎて、太陽の熱で接着剤が溶けて墜落してしまう。そしてダイダロスだけが中間を飛びつづけて脱出に成功する。
 中間を飛ぶことは難しい。どちらか一方だけに従うほうがラクである。なぜなら自分で舵取りしなくて済むから。片方に従ってさえいればそれでいい。しかしイカロスが一方向に心を奪われたように、両極のバランスを失うと上手く飛べなくなる。たとえば外的なものに従い過ぎて自分を見失う。あるいは逆に内的なものに従いすぎて社会と折り合いがつかなくなる。ダイダロスの助言は両極があって、そのバランスを取ることが「安定」であることを意味しています。
 この世に存在するものはすべて、両極のバランスにより成り立っています。光と影、強弱や大小、暑い寒いなど、すべては逆の概念によって支えられている。もし片方だけに従えば、その世界はやがて消滅してしまう。ダイダロスが迷宮から脱出した方法は、まさに「世界の消滅」の“逆方向への力”を示しています。消滅へと向かう世界を救う方法は、両極を見きわめ二つのバランスを取り続けることなのです。

AUTOPOIESIS 119/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリ のHP→『Green Identity』

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