『クラスチェンジの方法論』

イラスト こがやすのり

 クラスチェンジとはゲームなどであるキャラクターが成長し切って別のキャラクターへ変化(昇華)することをいう。たとえは戦士として戦って実績(レベル)をあげていき、あるレベルまできたときに魔法使いに変化する。ゲームによっては転職といったりもします。ここで特筆すべきはクラスチェンジが行われると、それまで上げたレベルは始めの1へ戻るということです。それまでの実績や肩書きが全て消えてしまう。
 クラスチェンジとともに全てを失ってしまう。しかしそれと引き換えに今までとは比べ物にならないハイレベルな存在となることができます。まさにこれは芋虫が蝶になるかのごとくです。クラスチェンジ前のレベルでは必ず飽和状態に達します。鉢植えの植物が最後には根詰まりを起こすように、内容の成長に見合った器(クラス)に替える必要がある。もしかたくなにこれまで世界観に(所有したものや地位、あるいは自分自身)にしがみついているとクラスチェンジは見込めません。
 人生においてもクラスチェンジはある。そのタイミングは個々の個性によって大きく違いがあります。ゲームとはちがうので教則本などはありません。しかし適切なタイミングが必ずある。それらは操作できないので偶然のきっかけが大きく影響してきます。ダーウィンの進化論が「突然変異」を軸に論じられることと同じです。そのキッカケをキャッチするために必用なものは、常にレベルを上げ続けるために「前進する」(戦う)ことと、新たな流れへの「柔軟な精神」を用意しておくことです。「天使は準備しておいた者の元へ舞い降りる」というわけなのです。

「幸運は用意された心のみに宿る」 
        ルイ・パスツール

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『健全な人間関係』

イラスト こがやすのり

 家族や友人は良きもの。しかし時にそうでない場合もがあるらしい。精神科医であるフロイトは臨床において、患者の治療の邪魔をする家族や友人がいると苦言を呈しています。そういった人たちと付き合っている(依存している)人を治すことはできないとも述べています。つまり治療可能な重度の患者よりも、悪い影響を与える家族や友人に依存している人のほうが、正常化の見込みがないということです。この視点はまだ一般化しておらず、心の病などは本人にだけ問題があるという考えが一般的です。しかし周辺の人々にも原因がある。もちろん問題のある人間関係に依存している本人の問題でもあります。
 フロイトが匙を投げる「悪性の人間関係」は、依存関係であり一人に病理を押し付けた構造(最小は二人の関係)でもあります。よく家族の中に一人だけ問題児がいるという構造を耳にします。しかし精神科医の中井久夫さんによれば、家族のなかの一番まともだと思われている人物が、家族の中の問題児を作る原因である場合が多いと書かれています。つまり家族の病理が一人に背負わされており、その主導者が家族の中にいるというこです。これは原因と結果が目に見える形で繋がっていないので厄介です。
 家族の中の問題児(病理)の原因が、最もまともだと思われている人である。つまりこれはバレないための偽装とも考えられます。家族だけに限らず、相手に悪性の影響を与える者は、社会的にまともであるという肩書(あるいは振る舞い)で偽装しており、一見めんどう見も良い。そのことにより患者は依存度が高くなり、フロイトが警戒するような「悪性の人間関係」が出来上がる。本来「健全な人間関係」とは、社会的な地位や立場による優劣などなく、本質的に公平かつ平等なはずです。相手がどんなに酷い状況に置かれていたとしても、コミュニケーションは平行になされる。人がどんな状況からでも復活可能であるためには、普段から「健全な人間関係」を築いておく必要があります。そのためには依存関係や支配関係のような上下の関係(優劣の関係)ではなく、公平かつ平等な「お互いが自立した関係」を保つことが大切なのです。

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『日本の美と混沌』

イラスト こがやすのり

 何事も正確さが求められる社会では、曖昧で不正確なものは排除される。たとえば曖昧さが入り込むとロケットは月へ到達しない。機械的な結果が求められる社会では、不規則なものはすべて迷惑なものになります。しかし、人間は機械ではないので、あまりに曖昧さや不正確さを排除しすぎると心の病へと傾きます。いまや人間の無意識が未整理で混沌とした状態であることは誰もが知ることです。そして西洋の合理主義が一つの限界にきているのはそのためだとも言われています。
 高度経済成長と共に、西洋を模倣し追い越そうとしてきた日本も、合理主義による「曖昧さの排除」が社会を覆っています。しかし日本は古来より曖昧さを重視してきました。「情緒」や「もののあわれ」といった感覚は西洋の明確な美とは異なる曖昧さを含んだものです。音楽でも意図的に偶然や雑音を取り入れ、合理性とは別次元の豊かさや深みを出してきました。これらの美意識の根底にあるのは「複雑な自然の美」です。
 たとえば地面を覆う落葉の美しさは、整理された美とは対極にある混沌とした美です。日本人は自然を数理的、デザイン的に把握する(無駄の排除)よりも、全体(混沌)を直感的に捉えることを好んだ。つまり観察と整理により曖昧さを排除するのではなく、瞬間的に全体と一体化することに長けていた。この曖昧さを排除しない直感的な一体化が、日本人が古来より大事にしてきた認識方法の一つです。不正確でもいい、ノイズがはいってもいい。それらを含めたより大きな美と調和を目指す。日本人独自の心の安定も、不規則で曖昧なものを排除せずに享受し、たのしむことによって得られます。曖昧さやノイズが排除されたデジタル時代だからこそ、逆説的に曖昧さを含んだ「全体の美」を受け入れることが大切なのです。

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『欲求の階段』

イラスト こがやすのり

 人間には欲求がある。食欲や性欲といった低次の欲求から、それらを抑えて他者を助けたり、自己実現のために芸術やその他の活動をやりたいという高次の欲求もあります。このような欲求を段階に分けたマズローの五段階欲求という分かりやすい分類もあります。とにかく低次の欲求は食欲や性欲といった「生存欲求」で、原始的で損得が優先される世界観です。そこから高次へ行くほど低次の欲求を抑えこみ、より他律的で精神的な充実を求めるようになる。
 一般的には低次の欲求が満たされないと高次の欲求へ向かえないと言われています。しかし低次の欲求が満たされても、さらに満たすよう強いられると高次へ上がれなくなります。資本主義が形骸化した現代は、経済優位社会であり、産業と広告(マスメディア)が人々を永遠の消費(パラドクス)に閉じ込めています。次々に低次の欲求を刺激され、それを無批判に受け入れた人たちは、高次の欲求へ向かうことが困難になります。
 低次欲求への「過剰な刺激」と呼べるマスメディアの宣伝広告を、主体的に退けるには「安定した自我」が必要です。その「安定した自我」は、まずは「親からの愛情」により基盤が作られます。しかし、もしその親がすでに宣伝広告による過剰な刺激に侵されていたらどうでしょう。子供の個性(適正)よりも損得を優先し、結果的に低次の損得世界(成果や世間体)を追求させるでしょう。そうなると安定した自我は育ちにくくなります。このような理屈(構造)を把握することで、負の流れを断ち切ることが出来るようになる。フロイトは低次の欲求に固着させる情報を除去して、自我がスムーズに高次欲求へと成熟していくプロセスを、精神的な回復もしくは「文化」と読んでいるのです。

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『争いのない次元』

イラスト こがやすのり

 競い合う、あるいは競争。これは相手があって初めて成り立つ概念です。完全に独立(自立)して、他は意に介さずであれば競う方向へは至らない。ゆえに競う(張り合う)ことへの欲求は「他者依存」という深層心理学的な分類に押し込まれる状態ともいえます。たとえばパン屋さんが近くに数件あったとして、同じ種類の商品を売り出すと競争になる。これはわざわざ他のパン屋さんに近づくという依存した手法です。しかし結果的に競争にならない状態もありえます。それはパン屋さんの内容(商品の種類)が重なっていない状態です。
 それぞれの個性がはっきりしていて、重なっていなければ、同じカテゴリーでも競争にはならない。「同化傾向」の逆数へ向かえば資本主義経済すら一挙に止揚されることになる。その状態は高次のレベルにあるがゆえに、現在の競争社会がいくら最先端のテクノロジーで動いていたとしても原始的な状態であることは明らかです。原始的な状態は共依存を続ける状態。これが高次の関係(社会)になると、お互いが独立した「協力関係」が生まれます。お互いの弱点を補い助け合って、競争は極限まで回避されていく。
 競い張り合うことへの欲求は、自分の発想では立ち行かないがゆえの「真似(擬態)への欲求」とみることができます。競争心の根底にあるのが真似や擬態への欲求であり、その原因を分析するとマザーコンプレックスに行き着きます。争いという勇ましいイメージとは裏腹に、究極の心的依存状態がパラサイト的な心理を発症させる。この傾向は社会が高次へ向かう流れを邪魔していることは明らかです。これからは、他とは重ならず、お互いの固有性を尊重できる(同化を好まない)人々が、無意味な競争から解放された「自由な社会」を作っていくことになるでしょう。

AUTOPOIESIS 222/ illustration and text by : Yasunori Koga
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