『共同幻想論』

古賀ヤスノリ イラスト
「国家は幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である」
(吉本隆明)

 人間のあらゆる営みは共同の幻想で成り立っている。その幻想を「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」の三つに分け構造を明らかにする。フロイトの精神分析を軸に、柳田国男の『遠野物語』から「幻想」の位相を取り出す手際がすごい。共同幻想は「禁止」により生み出され、その幻想は共同体の利益のために成立している。しかしどんなに表面的に高度にみえても、「禁止」によって成立する共同性は、未開的な世界であると吉本は言い切る。共同幻想は、現実と妄想の区別がつかない人々へたやすく「禁止」を吸い込ませる。これはまさに現代の社会状況にぴったりと当てはまる。少々難解ではありますが、見えない「社会的抑圧」を無効化する上で欠かすことのできない名著です。

book / 『共同幻想論』吉本隆明: Originally published in 1968
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『Greenn Identity』

『引き裂かれた自己』

古賀ヤスノリ イラスト
「現実において行動せず、空想においてのみ行動する人は、彼自身非現実的となる」
(R.D.レイン)

 統合失調症の心理構造を、精神分析の言葉で「文節化」する手法に異を唱え、実存的な立場から現象学的なアプローチで患者の心理に迫る。それは冷たい専門用語による患者の「対象化」ではなく、いわば気持ちの通った視点による‟包含”と言ってよいものです。各部分を記述するのではなく、全体を包み込む。全体的な統一を欠いた統合失調症の人々にとって、そのような心で包み込むような形式自体が、分離した自己を回復させるものとなる。この本の最大の価値はそこにあると思います。大宅壮一の「一億総白痴化」ならぬ「一億総分裂」の危険性をはらむ現代において、本書はその最も有効な処方となる。この手の本にしては翻訳も圧倒的に読みやすい一冊。

book / 002『引き裂かれた自己』R.D.レイン: Originally published in 1960
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『Greenn Identity』

『不確定性との関係』

古賀ヤスノリ 絵

 パソコン、スマホ、ゲームにアプリ。全てが仮想であり想定外の事が起きない決定論的な世界。まさに便利な世界が実現しています。ゆえに仕事では長時間利用することになり、仕事が終わってもスマホで仮想にアクセスすることになります。そこで仮想世界で当然だったものを、現実においても当然だと思うようになってきます。物事が仮想世界のように思い通りにいかないと納得できないと思うようになる。
本当の世界は「偶然の連続」で成り立っています。そこに意味を見出したときのみ必然となります。もし高度な数学が発見されて、すべてが計算できたとすれば、世界はすべて必然であると言えるかもしれません。しかし今現在、偶然を法則化する力は人間にはありません。ならば「世界は偶然で出来ている」と言ってよいでしょう。
 パソコンやスマホの中に偶然はありません。しかしパソコンを扱う人間や、それを取り巻く環境は「偶然の原理」が支配しています。パソコンの仕事が予定調和で進んでいるにも関わらず、いきなり体調が悪くなる。或いはビルが火事になることだってありえます。しかしパソコンやスマホの中はプログラム以外の事が起きません。だから安心して、自分の思い通りに事を進めることができます。ここに現実と仮想(非現実)の違いがあります。
 思い通りに行くことが普通となれば、思い通りにいかない事を排除しようとするようになります。つまり不確定要素を排除し、すべてが確定的な世界を作ろうとします。そのような世界でなければ住めなくなるのです。その結果、予定調和の中だけで「閉じる」という現象が起こってきます。閉じると内部にパラドクス構造ができ、エントロピーも上がります。そんな所に不確定な要素である「心」など存在できません。仮想時の脳の状態が、現実に戻っても切り替わらない場合、そのような「閉じる」現象が起こるのではないでしょうか。
 不確定要素のない世界。「偶然の原理」が入り込まない世界で安心したい。そのためには偶然の要素を自然から排除しなければなりません。これは一種の抑圧です。思い通りにいかないことを抑圧することで成り立つ世界。その世界を純化するために、あらゆる方法で不都合な情報を捨象し、歪曲していく。つまり仮想世界の成立は、無意識を抑圧して出来る「自我の形成プロセス」と似ているということです。さらに、単純な予定調和に限れば限るほど、その世界は原理主義的な傾向を強めます。そこに仮想世界と宗教との類似点を見出すこともできます。
 仮想と宗教を重ねて見せたのはフィリップ・K・ディックです。現実の一部を疎外した所に現れる、仮想という宗教世界。つまりそこへアクセスするには「不確定要素の排除」が必要となります。いいかえると、情報の遮断による内部の純化です。その遮断する情報の違いが、宗派や組織などの違いとなります。しかし仮想にしても宗教にしても、その枠の外には必ず不確定要素に満ちた「偶然の世界」があります。枠の中だけで存在することなどできないのです。
 ある程度確定的でないと社会は成り立たちません。しかし実際は不確定要素の連続である自然環境からエネルギーを得て初めて人間は生きることができます。よって確定的な世界に閉じこもると、結局は生きられなくなる。不確定要素を排除し始めることは、その枠内が環境から切り離され始めたことを意味します。つまりそれは内部の死を暗示しています。仮想世界に依存する社会の最大の問題点は、「確定世界の独走(純化)」と「現実世界との関係の喪失」だと考えられるのです。

AUTOPOIESIS 0025./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『身ぶりと言葉』

古賀ヤスノリ イラスト

「進化はなによりもまず表現手段の進化である」
(アンドレ・ルロワ=グラーン)

 フランスを代表する文化人類学・先史学者の大書。人間がどのように進化し、道具と言葉、そして身ぶりという表現を使うようになったのか。それらが考古学的な状況証拠から推論されていく。顎を道具のように使っていた動物としての初期段階から、やがて手の使用と同時に、解放された顎は言葉を手にする。身体による身ぶりは言葉を支え、言葉は図示表現(絵)を支えていく。生物進化と表現進化の平衡性。これは3万年続く「絵画と文字の歴史」を推理するスリリングな書物でもあります。表現(芸術)の根本を探求する人にとって、まさに外すことのできない名著です。

book / 001『身ぶりと言葉』アンドレ・ルロワ=グラーン: Originally published in 1964
illustration and text by : Yasunori Koga

古賀ヤスノリHP→『Greenn Identity』

『純粋領域と自己犠牲』

古賀ヤスノリ アクリル画

 自己の純粋さを守る。それは自分のなかにある負の部分を見なくなる恐れがあります。本当は人間としてあらゆる方向への可能性があるにもかかわらず、結果的にその一部を純化する。それは、それ以外の可能性を抑圧(禁止)することで維持される純粋領域です。その純粋領域に囚われた人は、自分としての自由な行動を放棄して、ただ純粋自己的に生きることになります。
 アンドレ・ジイドの『狭き門』はそんな純粋領域に囚われた人間の末路を描いています。主人公の幼馴染である女性は、主人公の男性を結婚にふさわしい相手であると知っていて、彼もまたそれを望んでいる。しかし、自分の持つ信仰的敬虔さ(自己犠牲的精神)によって、その結果を放棄してしまう。自己の自由な選択を上回る純粋さへの欲求。この時主体は何かに従属した部分でしかなくなります。部分に自由など許されていないのです。
 信仰であれ、服従であれ、あるいは真面目であれ、なにかに従属してしまうことは、それに依存することです。個人より大きなもの、理念や教義、家風や世間体など、個人を支配する要素に対して真面目になりすぎると、個人としての自由を放棄する形となります。そうすることで得られなかった自由や結果を正当化するために、おあつらえ向きの物語がねつ造されます。本人は従属の結果ではなく、本気でその物語の結果だと考えるようになります。
 どれほど立派な理念であれ、教義であれ家風であっても、それ自体は実態なき幻像の産物です。しかしそれらの掟が自我形成の過程で刷り込まると、どのような人であれ、そこから生まれる規範(条件付け)を当然のことだと疑いません。いや、それがあることすら認識できないでしょう。その規範が厳しければ厳しいほど、守るべき領域の純度は高まります。しかしそこに関わる人間の自由はなくなる。客観的にみれば、そこに不自由な人間の振る舞いだけがあります。
 この究極状態が戦争ではないでしょうか。お互いに大義があり、そのためには殺戮しても構わないという「自己正当化の物語」が掲げられて行為がなされます。その大義という全体に対する部分でしかない個人に自由はありません。彼らは純粋さを守るために、自己犠牲的に行動します。しかし個人の視点でみれば、ただの不幸な行動です。こう考えると、純粋さへの過剰意識は、程度差はあるものの、やはり戦争の構成要素だと考えられます。
 純粋領域を守る。アンタッチャブルな領域を祀り上げ、守ることが戦争にすら繋がるという考えは突飛だと言う意見もあるでしょう。しかしのホイジンガ(歴史学者)が「遊び」の研究から、祭りや戦争の源流には「遊び」があると指摘しました。「遊び」はルールが純粋領域として守られている間だけ成立します。人々が「純粋領域を守る」という行為に自己犠牲的に参加するのはなぜでしょうか。それはゲーム終了後に帰る場所(主体)がないからかもしれません。
 純粋領域の死守と自己犠牲。現在、人々が仮想のゲームなどに浸るのは、帰るべき主体がなく、暗黙のルールに従うこと(共同圧力)以外を禁止されているからではないでしょうか。もし、ゲームが戦争や殺人に影響があるとするならば、暴力表現の問題ではなく、「純粋領域の死守」の問題だと考えられるのです。

AUTOPOIESIS 0024./ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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