『不確定性との関係』

古賀ヤスノリ 絵

 パソコン、スマホ、ゲームにアプリ。全てが仮想であり想定外の事が起きない決定論的な世界。まさに便利な世界が実現しています。ゆえに仕事では長時間利用することになり、仕事が終わってもスマホで仮想にアクセスすることになります。そこで仮想世界で当然だったものを、現実においても当然だと思うようになってきます。物事が仮想世界のように思い通りにいかないと納得できないと思うようになる。
本当の世界は「偶然の連続」で成り立っています。そこに意味を見出したときのみ必然となります。もし高度な数学が発見されて、すべてが計算できたとすれば、世界はすべて必然であると言えるかもしれません。しかし今現在、偶然を法則化する力は人間にはありません。ならば「世界は偶然で出来ている」と言ってよいでしょう。
 パソコンやスマホの中に偶然はありません。しかしパソコンを扱う人間や、それを取り巻く環境は「偶然の原理」が支配しています。パソコンの仕事が予定調和で進んでいるにも関わらず、いきなり体調が悪くなる。或いはビルが火事になることだってありえます。しかしパソコンやスマホの中はプログラム以外の事が起きません。だから安心して、自分の思い通りに事を進めることができます。ここに現実と仮想(非現実)の違いがあります。
 思い通りに行くことが普通となれば、思い通りにいかない事を排除しようとするようになります。つまり不確定要素を排除し、すべてが確定的な世界を作ろうとします。そのような世界でなければ住めなくなるのです。その結果、予定調和の中だけで「閉じる」という現象が起こってきます。閉じると内部にパラドクス構造ができ、エントロピーも上がります。そんな所に不確定な要素である「心」など存在できません。仮想時の脳の状態が、現実に戻っても切り替わらない場合、そのような「閉じる」現象が起こるのではないでしょうか。
 不確定要素のない世界。「偶然の原理」が入り込まない世界で安心したい。そのためには偶然の要素を自然から排除しなければなりません。これは一種の抑圧です。思い通りにいかないことを抑圧することで成り立つ世界。その世界を純化するために、あらゆる方法で不都合な情報を捨象し、歪曲していく。つまり仮想世界の成立は、無意識を抑圧して出来る「自我の形成プロセス」と似ているということです。さらに、単純な予定調和に限れば限るほど、その世界は原理主義的な傾向を強めます。そこに仮想世界と宗教との類似点を見出すこともできます。
 仮想と宗教を重ねて見せたのはフィリップ・K・ディックです。現実の一部を疎外した所に現れる、仮想という宗教世界。つまりそこへアクセスするには「不確定要素の排除」が必要となります。いいかえると、情報の遮断による内部の純化です。その遮断する情報の違いが、宗派や組織などの違いとなります。しかし仮想にしても宗教にしても、その枠の外には必ず不確定要素に満ちた「偶然の世界」があります。枠の中だけで存在することなどできないのです。
 ある程度確定的でないと社会は成り立たちません。しかし実際は不確定要素の連続である自然環境からエネルギーを得て初めて人間は生きることができます。よって確定的な世界に閉じこもると、結局は生きられなくなる。不確定要素を排除し始めることは、その枠内が環境から切り離され始めたことを意味します。つまりそれは内部の死を暗示しています。仮想世界に依存する社会の最大の問題点は、「確定世界の独走(純化)」と「現実世界との関係の喪失」だと考えられるのです。

AUTOPOIESIS 0025./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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