『失望の先へ』

古賀ヤスノリ アクリル画
 アンドレイ・タルコフスキー監督の『ストーカー』という映画で、その部屋に行けば願い事が叶うという場所が出てきます。そして以前その部屋に入った人間が大金持ちになり、その後すぐに自殺したというエピソードが語られます。彼はその部屋に入る直前に弟を亡くすのですが、願い事によって弟が復活することなく、自分が大金持ちになってしまった。その事実に耐えられなくなって自殺したわけです。
 どんな願い事でも叶う部屋は、意識的なレベルを無視して、人間の奥深くにある「本音としての願望」を具現化した。ここに通俗的な心理学では捉えきれない無意識の水準を見て取ることができます。自殺した彼は、まさか自分が弟の復活よりも金持ちになることを望んでいるとは夢にも思っていなかった。だからこそ、「本当の自分」を知って自殺してしまった。我々が無意識と簡単に呼んでいるものは、人が自殺に追い込まれるほどの破壊力をもつものだということです。
 タルコフスキーは、なにも皮肉を表現したかったのではなく、人間が持つ欺瞞性を伝えようとしたと言えるでしょう。弟を思う気持ちに偽りはない。しかしそれを越えた欲望が深層にあるという事実を、本人が自覚していなかった。もし自分自身が本質的にどのような人間であるかを、良くも悪くも自覚していたならば、逆説的に弟が復活した可能性があります。人間の欺瞞性(自分を見ないこと)によって大切なものが失われ、結果的に自身も消滅してしまうという構造が、意識を超えて存在している。
 日本には「本音と建前」という言葉があります。しかしタルコフスキーに言わせれば、その「本音」すらうわべに過ぎないということです。本当の意味での本音とは、むしろ自分が絶対に死んでも認めたくないような深層にある欲望のことでしょう。どんなに「できた人」であっても、願いが叶う部屋からの審判が下されれば、自分自身に失望を感じるはずです。
 人間の失望は、人間が動物であるという「宿命」から生まれるものかもしれません。そのことを意識が隠蔽し、別の原理で行動しているように思わせている。この意識と深層のズレがある限り、世界から不幸は無くならないでしょう。人間が持つ「本音としての欲望」を直視し、そこから起こる問題を回避するために発動させるのが倫理であり文化です。つまり文化とは、自分への失望の先に生まれてくるものなのでしょう。

AUTOPOIESIS 0027./ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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