『重複なき役割』

古賀ヤスノリ アクリル画

 ある脚本が採用されて登場人物(役割)が決まるとします。そうすると、その脚本内での「役割の重複」が出来なくなります。例えば、誰かがロミオ役になれば他の人はロミオになれない。必然的に別の役になるしかありません。これは脚本内の役割関係の話しですが、普段の生活の中でも役割関係による「重複の禁止」があります。
 例えば先生に対する生徒。これは「教える、教えられる」という関係上、両方が同時に教えることはできません。もちろん教えることが結果的に相手から学ぶことになる事があります。しかしその場合でも、時間的に重なってはいません。役割が転倒するだけです。そもそもこの役割によって結ばれた二つは対立概念です。資本家に対する労働者、親に対する子、正常者に対する異常者といった具合に。この二つは関係によって成立しているので、片方がなくなると、もう片方もなくなってしまいます。
 そもそも関係とは相手なくして成立しないものです。その意味では依存的な構造を持っています。たとえば権力者が権力者でありえるのは、「被権力者による支え」があるからです。逆にいえば被権力者は権力者に依存することで、被権力者に甘んじることができる。この表現はおかしいようですが、実際の構造として存在しています。司馬遼太郎さんは、この被支配者に甘んじる状態を「奴隷の気楽さ」と表現しました。
 単純な対立構造と違って、脚本の世界は役割(登場人物)が多様です。しかし一人として役割の重複はありません。すべての役割が全体にとって重要な構成要素となります。つまり重複していないからこそ、重要な要素なのです。代用がいくらでもあるのであれば、それは重要な要素ではないでしょう。
 人が一つの人生を終えたとき、それは一つの脚本が完成したことに相当します。その時、自分という主人公が、自分以外には出来ない役を演じていたのか、それともみんなと同じことしかやらなかったのかどうか。それによって人生という脚本に対する「自己自身の重要性」が決まります。代用がきく役でしかなかったのであれば、自分の人生であるにも関わらず、重要な役を演じようとしなかったことになります。それは「脚本全体との関係を失った役」だったとも言えます。
 役割は重複できない。なぜなら全体に対して、取り換えの効かない構成要素だからです。もし、取り換えのきく要素なら、全体との関係を持つことができません。取り換えのきく要素へ同化し、全体との関係を喪失した存在は、「不思議の国のアリス」の舞台裏で出番を待つ「トランプの兵隊」のように匿名的です。しかしその安心感は偽物でしょう。なぜなら舞台裏で「トランプの兵隊にまぎれ込む主人公」という脚本がそこにはあるからです。実際はどんな人であれ、一人として同じ人間はいません。どんなに嫌でも「自己脚本の重要な主人公」でしかありえない。これをサルトル流にいえば「人は主人公という刑に処せられている」ということになるのでしょう。

AUTOPOIESIS 0030/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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