『長いものに巻かれる』

古賀ヤスノリ アクリル画

 「長いものにまかれる」で生き残る。これは日本という島に蔓延した生き方です。しかしこの選択が「消極的な生き方」であることは間違いありません。消極的というのは主体的でないということです。もちろん主体的でなくて構わないという考えもあります。しかし人間が狂う時は、必ず「主体性の喪失」と「自己制御不能」に陥ることが原因です。
 つまり主体性を欠いた生き方を続けていくと、最終的には人間は精神病になるということです。「長いものにまかれる」ことを積極的に選んでいるという人もいるかもしれません。服従を自ら選んだと。しかしこれが「弱さを隠蔽するための自己正当化」でしかないことは明らかです。
 そもそもこの「長いものにまかれる」という言葉は、「倫理を無視して」という前文が省略されているようです。もしそうでなければ、こんな言葉自体が存在しないはずです。つまり「長いものに巻かれる」は「正しさより保身」と言い換えることができます。これを社会がどこかで推奨している。若者は、義務教育の過程で「倫理を大切にせよ」と言われ、社会に出た途端に「長い者にまかれろ」という欺瞞にさらされる。このダブルバインドが原因で、統合失調症になる若者もいるのではないでしょうか。
 もちろん、時と場合により「正しさより保身」でしかあれないこともあるでしょう。しかし、それは「苦肉の策」としての「最終手段」であるほうがいい。基本は保身とのせめぎ合いで倫理をなんとか守る。そうすることで社会は正常に機能していくことになります。エネルギーを正しい方向へ注ぎ、良い構造を安定させていく。「正しさより保身」で安定される構造は、必ず内部のエントロピー(混沌)が上昇します。
 「長いものにまかれろ」あるいは「正しさより保身」という気持ちは、そもそも親との関係でインストールされたプログラムではないかと推測されます。どこまで行っても無自覚に親を投影して怯えながら暮らす。結局「長いもの」とは親のメタファーなのでしょう。
 既成の権力や動かしがたい構造を前にして、本来の自分を押し殺し「セーフモード」で自己防衛をする。選択を迫られた時は付和雷同。その結果がどうなるかを考える「想像力」すら禁止されている。自ら選んだはずのセーフモードは、やがて不可逆的な「アパシー」をつくりだします。そして「何もしないこと=保身」となって無気力になる。
 人間が他の動物と違うところは、文化を持ち得ることです。「低いレベルの欲求」を自ら抑制する自由を持ち、それに代わる「文化」によって人間の種全体を守っていく。個々が自己保身のために足を引っ張り合い、ボス猿に怯えながら暮らす社会は、ただの獣の社会です。私たちが積み上げてきた文化が、新しい次元を示唆しはじめた現代において、「権力」という古い欲望装置だけが、人々を「獣のレベル」にとどめようとします(民衆の家畜化)。「長いものにまかれる」という選択が反文化であり、獣の社会以上のものを生み出せないことは自明です。「長いものにまかれる」という生き方は、結局は「家畜の生き方」なのです。

AUTOPOIESIS 0031/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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