『フィクション押し付け』

古賀ヤスノリ アクリル画

 哲学者プラトンは『国家』のなかで、国の守護者にふさわしい素質につてい述べています。そこでプラトンは、国にとっての適切な守護者とは、強いられたり、たぶらかされたりすることで、考えを変えてしまわない人だと言っています。「強いられる」とは、痛い目にあったり、苦しい目にあうことで考えを変えさせられること。「たぶらかされる」とは、快楽に魅せられたり、恐怖におびえたりすることによって、考えを変えさせられることだとしています。平たくいえば、恫喝や数による圧力に屈することなく、国のために信念を貫ける者。また、あらゆる欲望を刺激する賄賂などに影響を受けない自立した者、ということです。
 プラトンの視点でいえば、派閥優先であったり裏で利権構造を作ったりしている者は、数に怯え快楽に支配されているので、国の守護者にはふさわしくない事になります。恐怖と欲望によって作られた国家は、やはり恐怖と欲望を基盤とした世界以上のものが出来ません。国を構成する民衆も、同じ心理構造でしかあれなくなります。怖れと原始的な欲求によって操作されてしまう。恐怖と欲望によって「考えかたを変えさせられる」ことがあるのだとすれば、それは不適切な方向へ変えさせられるということです。つまり非現実的な方へ強制されていく。
 外からの圧力によって「強いられ」、「たぶらかされる」ことによって作られる非現実的な世界。それは圧力をかける側にとってのみ都合の良い世界です。これは現実的な視点からみると妄想でしかありません。しかし現実(あるいは人間性)から見ると妄想でしかないものでも、大きな力で強制すれば、独裁国家のように民衆を恐怖で支配することすら出来ます。しかしそれが人間性にとっての妄想(気違いじみた発想)であることは間違いありません。つまりいつも既成化した事実が正しいわけではないのです。むしろ正しくない事のほうが、強制的に事実化されやすい。これを一種の「フィクション(妄想)の押し付け」と考えることができます。
 「妄想の押し付け」という視点を獲得したときに見えてくる構造があります。それを上手く表現しているのがフロイトです。フロイトは『文化への不満』という論考のなかで、宗教を分析してこう述べています。「人々を心的な幼児性に固着させ、集団妄想に引きずり込む」「人生の価値を貶めて、現実の世界のイメージを妄想によって歪めるというものである」。負の国家が使う「妄想の押し付け」と、フロイトが宗教の手法を分析して得られた視点は驚くほど類似しています。フロイトはこれらの手法を反知性としています。フロイトの精神分析の基礎的な考え方を、単純化を恐れず言えば、精神病とは幼児性への固着(原始的な固着)であり、知性的進化の座礁であるというものです。
 プラトンの視点から見える国家の守護者像。それに値しない歪んだ守護者と負の国家は、フロイトの視点からは病的であると診断されます。その内訳は「怖れと欲望の支配」、その結果としての「幼児的固着と反知性」です。未来からすると決して賞賛される時代ではなくとも、放っておくと何百年も続いてしまう。そんな時代を「美しい国」などと言い換えても、その正当化自体が「恥ずかしい時代」だったということになるのでしょう。しかし妄想であることに気づいた瞬間から、わたしたちは真っ当な現実に戻ることができるのです。

AUTOPOIESIS 0032/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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