生物は環境に規定されている。つまり環境の許す範囲でしか生きられません。水棲の生き物は水という環境を離れては生きられない。逆に陸上の生物は水中では生きられない。もし適正な環境を無視して無理に生きようとすれば、生物としての組織が破壊されて死んでしまいます。これは物理的な環境の話しですが、精神的な環境にも同じことが言えます。
考え方の違う人々が集まる場所で生きようとすると、その人の精神的な組織が破壊されていく。家庭であろうと、会社であろうと、また地域であろと国であろうと、その人の考えと違った社会があるのだとすれば、そこで無理を重ねて生きることは、究極的には死を意味します。そうでなくても精神的に荒廃していく。そう考えると、精神病などはやはり環境を大きく変えることが一つの手だということもできます。
哲学者のバートランド・ラッセルは不幸の原因についていろいろと述べています。もちろん環境についても明確な判断を示しています。「環境が愚かであったり、偏見にみちていたり、残酷である場合は、それと同調しないことこそ美徳のしるしである」(『幸福論』)。この考え方は、日本ではなじみのないものです。日本では世間や空気がたとえ愚かで偏見にみち残酷であっても、それに従うことが暗黙の美徳になっているからです。
そもそもラッセルの意見は「個人」が幸福になる方法としての基本姿勢です。それに対し日本の美徳は、個人がなく「集団」だけを維持するための基本姿勢です。「個人は泣くが集団は生きる」という形態です。この基本姿勢は、親の表情や義務教育の行間、地域のリズム、マスコミの情報選択、広告の強調部分にまで行き渡っています。日本という国全体にわたって「個人を滅し集団を生かせ」という見えない情報の渦が形成されている。
それが最も顕著に現れているのが、若者が年寄りのために利用されているという事実です。政治では、人生経験の浅い若者が、メディアで洗脳されて年寄りに票を入れるという仕組みになっています。これを絵画的に表現するならば「年寄りが若者を喰らい延命欲望を満たしている」という図が浮かびます。それはまさにゴヤが描いた『我が子を食らうサトゥルヌス』のようなおぞましさ。「年寄りのための若者」とい環に個人など認められません。
ラッセルは「若い人が年寄りの希望を尊重するのは望ましいことではない」「問題なのは若い人の生き方であって、年寄りの生き方ではない」ときっぱり表現しています。これは当然のことですが、個人を尊重しない日本ではなぜかこれが転倒してしまう。年寄りが若者を支配したがり、さらに若者も支配されたがっているとすら感じます。アイデンティティを喪失した若者は、どのように振る舞ってよいか分からず、命令されることを常に欲している。そこに欲深い年寄りが漬け込むという構造。
このような環境に依存するか、劣悪だと判断して環境を変えるか。その選択は主体性が確保された個人にだけ許された権利です。もし、個人として主体性を持つことを禁止されているならば、環境を変えることなど許されない。陸上動物が水中で苦しむように、あるいは水棲動物が陸上で干上がるように、人々は既成の環境(権力内)で生きらされる。もしそこが「棄てるべき環境」であることに気づき、離れる(あるいは変える)「意思」が芽生えたとするならば、それがその人にとっての「個人の発見」であり「進化」というものなのでしょう。
AUTOPOIESIS 0033/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』