料理は同じレシピでも、調理の手順を変えれば味が変ってしまいます。料理はパソコンの中と違い「A=BはB=A」といった結合法則が成り立たちません。実際の世界は、結果が出たときだけ原因を辿ることができます。しかし「原因と結果」、「目的と手段」といった「過去と未来の結合」を前提とする世界では、「A=BはB=A」という決定論が成り立つことになります。本当は成り立たないのですが、成り立つことにして安心を得る。やるべきこともハッキリする。しかし現実的ではないので実際は問題が起こってきます。
ある人が東大を卒業して幸福に暮らしている。だから私も東大に行けば幸福になれる。あるいは大金持ちになれば幸福である。こういった論理は少し考えると、安易な決めつけであることがすぐに分かります。しかしコップが100回落ちたから「引力」というものがあると考える。これはいまでは万有引力として法則化されています。しかしこれも決定論です。カール・ポパーという哲学者は、次はコップが落ちないかもしれない、という姿勢を解かないことが「本当の科学」であるというような事を述べています。どんなことであれ絶対ということは無いとうことです。
絶対とは人間が安心したい時に作りだす精神安定剤のようなものかもしれません。自分がやっていることに確証がほしいということです。しかし絶対が人間を支配すると、「絶対われわれが正しい、だからなにをやってもよい」などということにもなりかねません。以前アメリカは、大量破壊兵器がイラクにあると「確信」して攻め入りましたが、そんなものはありませんでした。つまり絶対などありえず「そうでないかもしれない」という可能性を残すことが科学的な立場だとうことです。
とてつもなく確率が高いと、人は絶対だと思い込もうとする。多数がそう信じているならそうである、というように。しかし絶対の根拠などないということです。「確率とは蓋然の意味である」と数学者のアンリ・ポアンカレがどこかに書いていましたが、やはりありありと見えていても「無条件に信じない」という立場が科学であり、客観的な理解というものなのでしょう。
もしそうであるならば、「自分がこの世に生きている」ことも絶対でなくなります。「あなたはこの世に生きていますか?」と問われれば、「多分ね」としか言いようがないでしょう。デカルトはどんどん疑ってきいき、最後に「われ思うゆえに我あり」に突き当たりました。しかしそう考えるようにプログラムされているだけかもしれません。映画『ブレードランナー』のアンドロイドのように。絶対などない。確実なものなどない。これは不安を呼ぶ反面、だから「確かなもの」を創出しよう、という動機を作るきっかけにもなります。主体とは「絶対というものに依存しない」ところに生まれるのではないでしょうか。
AUTOPOIESIS 0035/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』