「現実を受け入れる」。これが全てを正常化させる特効薬である。この考えは方はいつの時代でも正しく、ニーチェからゴダールまで、あらゆる巨匠たちが現実に従うことを肯定しています。この「現実を受け入れる」とは一体どういうことなのか。それは「ただ周囲に従う」(状況に流される)こととはどう違うのでしょうか。
「現実を受け入れる」とは「積極的な受け入れ」を主体的に決定しています。「現実を受け入れる」ことで改めて出発することができる。それに対し「状況に流される」とは「消極的な受け入れ」であり主体は抑圧されています。さらに次の発展もなく「諦め」によって周囲に流されるままになっている。
「現実の受け入れ」は「前進のための再認識」であり、それは「積極的な自己修正」です。それに対して、「状況に流される」とは前進を拒むための「服従」であり「消極的な自己正当化」です。つまりこの二つは似ても似つかぬ対局にあるものなのです。しかし似ているがゆえに、しばしば「服従」を主体的な決定と思い、「諦めの肯定」を「前進」と思う。
「現実の受け入れ」があらゆる時代の最善の方法でるならば、その対極にある「現状への服従」が時代を超えて最悪の方法であることは疑いがありません。最悪の方法をとるのは怖れや弱さからであり、そのような自分の現実を「受け入れられない」がゆえに、自らの選択が「現実の受け入れ」であり「前進」であると「自己偽装」する。「自己偽装」とはパラドクス(出口のない構造)であり、容易には現実に出ることが出来ません。
「服従」とは「現実の受け入れ」が困難になる心的状態です。それは親への服従であれ、権力への服従であれ、すべて同じことです。服従者はつねに「自己偽装」によって「自己正当化」を繰り返します。我こそ現実を受け入れて前進するリアリストであると考える。しかしそれこそが、「弱さ」と「諦め」によって生まれた服従者の「自己偽装」なのです。「周囲に流される者=服従者」は権力によって現実(出口)を遮断された「妄想者」と言ってよいでしょう。
「現実の受け入れ」を拒絶する服従者は、「弱さ」と「諦め」によって周囲に流される。その事実を受け入れられないがために、主体的に前進していると「自己偽装」する。ここに「現実の受け入れ」による「自己修正」はなく、「永遠に変化なく一歩も進まない」という事態が起こります。個人であれ組織であれ、「権力と服従」によって成立している構造は、必ずこの「非生産性」を露呈する。この「権力と服従」による「非生産性」を正常化させるには、「現実の受け入れ」による「自己修正」しかありません。究極の現実対峙は「死」であり、人類にとってのそれは、天災、戦争、そしてウイルスによって喚起させられると考えられるのです。
AUTOPOIESIS 0058/ illustration and text by : Yasunori Koga
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