カボチャが二つあるとします。どちらが重いか。それは量りにのせれば比較できます。どちらが大きいか。これも物差しで測ればいい。数字にすれば比較可能です。ならばどちらが美味しいか。これは個人の主観に頼らざるをえないので、明確な基準はありません。世界には比較できるものと、出来ないものがあります。
例えばケーキなら美味しいほうが売れる。どちらが美味しいかは主観で変わる。しかし評判で間接的に測ることが出来る。でも評判が外れることもある。これは自分の主観が評判とずれているときです。世間とずれていても美味しくないものは美味しくない。それが主観です。
ケーキの味を主観で比較することは可能です。ではカボチャとケーキの味の比較はどうか。そもそも種類が違うものを比較できるのかどうか。別種のものを比較するには共通の物差しが必要です。しかしなにもかも量化して数字にできるわけではありません。そこで値段をつけることで、比較できなものを比較してしまうことになる。
値段がついているものは、種類が違っていても比較が可能となっています。つまり高いほうが高価である、ということです。しかし、実際の内容と値段が正確に伴っていることは、そう多くはありません。適当に値段をつけられているものだってあります。確かなことは、値段によって金額が決まっているということだけです。
ものの値段が本質的な価値を表していないとするならば、その価値を知るには「自分で判断する」しかありません。これまでの経験や知識、さらには感性や直観なども総合して、本質的な価値を判断します。そうすることで値段ほどのものではない、と見切ることもできる。もしそのような「自分の判断」がなければ、値段に従うしかありません。
自分で判断する力がなければ、必然的にお金による判断に頼るしかありません。あるいは世間の評判に頼るしかない。値段、ブランド、モード、世間の評判、これらに従うのは、自分で判断する力がないからでしょう。つまり「比較できない価値」を認識できない。なぜなら、「自分」(自我)という「比較できない価値」を見失っているからです。「自分」が他人と比較できない存在であることを、実感していれば、自分の感性は発動し、「比較できない価値」を自分で判断できるようになるのです。
AUTOPOIESIS 0063/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』