遠いむかし、私はあるデザイン会社に勤めていた。そこで井上さんという弁護士を目指しながら働いている、年上の先輩と仕事をしていた。井上さんはアウトドア好きで、社内でも有名であった。山で暮らしているとか、家の中にテントを張っているとか、スプーンをグーで握って使うとかいった逸話が沢山ある人だった。アウトドア派ではあるが弁護士を目指してもいたので、弁も立ち正しい事に敏感だった。いや、それを通り越して少々頑固すぎる所があった。
ある日のこと、井上さんが提出した仕事の修正が戻ってきた。それは井上さんの上司である岸さんがクライアントからの修正として、井上さんへ持ってきたものである。岸さんは寡黙で温厚、仕事に対する責任感もあり頼れる良い人であった。井上さんは岸さんが持ってきた仕事の修正をみて、「これは修正する必要なんてないですよ。これで合ってます。向こうが悪いんです。」と自己正当化の弁を述べた。それを聞いた岸さんは一瞬無言になり、井上さんの顔を凝視した。そしていきなり近くにあったブリキのゴミ箱を思いっきり蹴り飛ばしたのである。ガン!という大きな音がフロアー内に広がり、皆が驚いて注目した。部署を統括する部長も凝視している。一番驚いたのは井上さんである。普段怒ることのない岸さんが鬼のような形相でごみ箱を蹴り飛ばし自分を凝視しているのである。井上さんは驚きと焦りで硬直して言葉が出てこない。緊張感がフロアー全体を包み込み、見ていた私も押しつぶされるような気持ちになった。硬直状態が続いたあと、岸さんが「ふざねんじゃねえよ! お前なにいってんだよ。舐めるんじゃねえよ!」と爆発した。井上さんは驚いて岸さんを凝視していたが、耐えられなくなり下を向いた。この一件を見ていた部長は、あきれ顔で首を左右に振りながら仕事に目を戻した。爆発した岸さんは、すぐにその場を去ったのでフロアー内は静寂を取り戻した。井上さんの足元には極端に変形したブリキの塊が転がっていた。
井上さんは自身の身の潔白を証明すべく自己弁護した。それが彼の基本姿勢であり、目指すべき職業であり人生の境地であった。しかし会社という小さな世界において、普遍的な正義は通用しなかった。強力な軋轢がブリキを変形させるほどのエネルギーを発生させた。私はその後会社を辞めてしまったので、井上さんが弁護士を諦めたのか、それとも無事に試験に合格したのか分からない。今でも山でテントを張り、スプーンをグーで握る井上さんの姿だけが思い浮かばれるのである。
AUTOPOIESIS 0089/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』