主体が積極的に関わることで進化の可能性が高まる。逆にいえば機械的な反復といった「受動的な動き」のレベルには進化は発生しない。例えば結果が常に決まっている「ただ従うだけの訓練」(個人に自由のない訓練)には、進化の可能性がないとうことです。型が決まっていると主体は受動的になり、いつの間にか「機械的な反復」というパラドクスに入ります。もし主体的に機械的な訓練を続けれるならば、その反復が無意味であることが直感されるはずです。完全に訓練に対して受動的だとその直感が働きません。
人が主体的に物事に関われば、必ず機械的な反復には耐えられなくなる。なぜなら人間は有機的な存在であり、生物進化という歴史的生産を続けてきたからです。つまり本質的には機械的な「非歴史的生産」=「オリジナルのコピーを目的とする生産」には耐えられない。もしその状態を好むとすれば、それは心理学的な問題です。
人間が自然に何かを作り続ければ、必ず進化していく。考え方も道具も、表現も進化する。しかし、目的が固定され機械的な反復に陥れば、すべてが停滞します。そもそも「オリジナルのコピーを目的とする生産」は産業革命以降に出来た「工場による大量生産」と同じものです。このようなマスプロダクションは利益が目的であり、創造性や進化が目的ではありません。むしろそれらを禁止することで成立する生産形態なのです。
「オリジナルのコピー」を目的とする生産は、それによる「利益」のための生産形式である。この形式は進化や創造性、あるいは自由な発想を抑圧することで可能となる「操作拘束的な形式」です。それに対して「進化と創造性」を目的とする生産は、ある目的のために利用されるのではなく「それ自体に挑戦すること」が目的です。たとえば「描くことに挑戦する」ことが、あるいは「奏でることに挑戦する」ことが目的といった具合に。このようなレベルからすれば、「オリジナルのコピー」を目的とする行為は無意味なものでしょう。
人間は有機的に進化する存在です。自然に生産を行えば、必然的に進化や発展を伴うものになる。機械的な反復は社会的な目的によってのみ生まれるものです。よって進化や創造が目的の場合に、そのような機械的反復を強制することは誤りです。「有機的な創造」と「機械的な生産」の違いを理解することで、前者が新しい「質の連続性」を生み出し、後者がおなじレベルの「数の反復」であることが見えてきます。進化という質は機械的な「数の反復」ではなく、むしろそれらを「有機的に切断する」ことで発生する。質の向上という進化は、有機体が主体的に歴史を作り出すことで生まれてくるものなのです。
AUTOPOIESIS 0088/ illustration and text by : Yasunori Koga
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