表現には、表面(どのように表現するか)と、実質(何のために表現するか)の二つの重なりがあります。たとえばキリンの写真を見て、そっくりそのまま写真のようなリアリズムで描く。表面的には「絵の表現」です。しかし実質的には「写真表現」を表していることになります。ここに表現の二重性があります。もしキリンを見ながらもその時に「自分が感じたキリン」を描けば、それは実質的にも「絵の表現」です。
そもそも表現とは、内にあるものを(あるいは感じていることを)外へ出す行為です。そして、その行為が内にあるものを出すために適した表現であることが望ましい。そうして出来た表現(例えば絵のスタイル)が、こんどは一人歩きすると、それが模倣されていく。そこに表面と実質の繋がりはもうありません。ただ形式的で内的な実感をともなわない表現だけが模倣されていきます。
表現における表面と実質の一致は、見た目だけでは判断できません。ある絵の表現が見た目はカバのようであっても、キリンを見て描かれた可能性すらあります。しかし表面しか見ないのであれば、そのことを理解することは出来ません。表面的な見方であれば、むしろキリンそっくりであるほうが、表面と内実が一致していると思う。そこから情報を表面的にしか認識できない(例えば比喩や冗談が理解できない)という傾向も生まれます。そうならないためには、表現の表向きに見える情報と内実(真の目的)の二重性を理解することが重要なのです。
AUTOPOIESIS 148/ illustration and text by : Yasunori Koga
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