絵には沢山の「技法」というものがあります。「技法」とはある規則性のもとに描けば必ずそのようイメージになるという、手順を示した設計図のようなものです。よって誰が描いてもだいたい同じ結果が得られます。そういった「技法」が沢山あり、すべて誰かが作ったものです。よって何かの「技法」に従って描くときは、誰かの指示に従って描くことになります。つまり自分で描いているようで、自分で描いていない、という奇妙な状態で描いていることになる。
自分で描いているようで描いていない。この矛盾した状態は、描くという「運動」(身体)と、誰の描き方かという「主体」(精神)の、二つの区別が曖昧なときに起こります。つまり他人の技法であるのに自分で描いていると考える時、そこには「運動」と「主体」の未分化な状態がある。あるいは、主体性を放棄しようとするとき、人は他人の何かを全面的に採用して運動だけになろうとする。ここに「技法への埋没」という自己逃避の形式が浮き彫りとなります。
何かを始めるときに「技法」が確立されている場合は、それを入り口とすることは有効です。しかしそれに依存すると主体性は消滅してしまう。主体性が消滅すると、以後は他人の技法を採用し続けないと立っていられられなくなる。そのような状態は不安定であり誰も望まないでしょう。これは絵の技法に限らず、既成に存在するあらゆる基準(例えば世間体からネットの一般論まで)に依存すると主体性は消滅する。この危険性を回避するには「『自分の技法』の作り方」を自ら習得する必要があります。これは模倣の次元にはなく、創造の次元にしなかい。そしてこの「創造する能力」は誰もが潜在的にもっているものなのです。
AUTOPOIESIS 208/ illustration and text by : Yasunori Koga
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