『ダリの絵』

 高校生の時、スペインの画家ダリをモチーフにした作品を作った。構図は右側にダリ、左にはトレードマークの溶けた時計をあしらった単純な絵だった。眼光鋭いダリと、溶けた時計の対比は、いま思えば「形式と内容」というテーマを考えるには格好のモチーフだった。

古賀ヤスノリ イラスト

 ダリは当時、「無意識」に関心を持っていたパリのシュールレアリスト達と親交があった。その意味ではフロイトの影響が強かったと推測できます。ダリの代表作である溶けた時計のタイトルは「記憶の固執」。このタイトルは明らかに精神分析の視点が導入されています。溶けた時計という「時の変容」に「固執」という言葉が使われている所がなんとも面白い。
 もしダリが記憶ではなく「時間そのもの」が変形することを意図したならば、フロイトよりもアインシュタインが暗示されたことになります。実際ダリの作品には物理学的なタイトルを発見することができます。天才ダリと時計の「奇抜さ」を描こうとした当時の私は、実は隠された「知性」に惹かれて絵のモチーフに選んだのかもしれません。この「奇抜さ」と「知性」の融合こそが、芸術家の存在意義なのでしょう。

 

AUTOPOIESIS 0048/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『種類と質』

 もし向日葵がバラにあこがれて、薔薇に成ろうとすれば結果はどうでしょう。もちろん元気のない色あせた向日葵が咲くことになります。向日葵がバラの花を咲かせることは不可能は努力。花を咲かせるための必要条件が違うので、むしろ自らを弱らせる行為です。

古賀ヤスノリ イラスト

 向日葵が薔薇にあこがれるとすれば、それは自分にない花の付き方や棘などに注目するからでしょう。自分と比べてそこがはるかに美しいと。しかし向日葵はバラにはなれません。もしバラの美しさを超える方法があるとすれば、それは立派な向日葵を咲かせることです。 
 立派な向日葵は見る人を圧倒します。その美しさはバラにはないもの。よほど美しいバラを咲かせない限り、立派な向日葵を超えることはできません。つまり、種類の違いに優劣などないのです。あるのは個々の質の違いだけです。種類と質は別のこと。これさえ分かれば、向日葵は立派な花を咲かせるでしょう。

AUTOPOIESIS 0047/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『決まってない世界』

 すべてが決まっている世界。それは偶然が起こらない世界。サイコロを振ったら「1」から「6」のどれかが出るに決まっている。お皿をテーブルから落とせば割れるに決まっている。人間は死ぬに決まっている。

古賀ヤスノリ イラスト

 もしそこに偶然が入り込んで来るとどうでしょうか。サイコロを振ると「7」がでた。お皿は宙に浮かび、人間は永遠に生きる? とんでもなくヘンな世界。面白いけど生活するのは大変そう。
 すべてが決まっていると生活がしやすい。先の予測も簡単だから安心。でも偶然のある世界の方が面白い。そして本当は、世界には偶然がたくさんある。天気予報は外れる。教科書はいつも間違いを修正される。人はつねに思うようにいかない。それって本当は面白いことではないか。決まってない世界は自由なのです。

 

AUTOPOIESIS 0046/ illustration and text by : Yasunori Koga
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『比較すること』

 人間は比べることなしに物事を認識することはできません。例えばイエローという色は、他の色との比較によって初めてどのような色であるかが分かります。もし、全てがイエローの世界に生まれてきたら、それがどのような色かを真に知ることはできません。

古賀ヤスノリ イラスト

 物事を認識する前提には比較がある。大きさ、温度、味、すべてが比較によって立ちあらわれる。よって比べることは悪いことではありません。問題は比較の結果を悲観することです。例えば「周りの家より自分の家は小さい」といって嘆く。これはちょっと問題です。
 周りの家と比較して、自分の家は小さかった。これは客観的な認識です。大きさの比較をした。そして家の価値を大きさだけで判断して嘆く。これが問題でしょう。そもそも、より大きい、より多い、といった価値判断は原始的なものであり、より文化的に高度な価値になればなるほど、数量化できない価値が優勢となります。比較による認識と、対象の価値判断はしっかりと区別すると、お家が小さくても嘆くことは無いのです。

 

AUTOPOIESIS 0045/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『ゲシュタルト的な解決』

 ゲシュタルト心理学のように、絵を「地」(ground)と「図」(figure)に分ける考え方は便利である。例えば「モナリザ」なら、風景が「地」(ground)で人物が「図」(figure)となる。さらに将棋であれば、将棋盤が「地」で駒が「図」となる。人間だと社会が「地」であり、個人が「図」となる。この「地」と「図」は、ある比率になると反転現象を起こす。有名な二つの顔が向かい合う「ルビンの壺」は、人の顔に見えたり壺に見えたりと反転する。
 このゲシュタルト的な反転は、なかなか制御できない。さらにいつ起こるかも突発的でわからない。その意味で人間は、構造に規定されている。個人が社会の上で主体性をもって生きる。しかし段々と社会に従う領域が増えていく。そしてある時点から反転現象が起こり、社会が主体を奪い、個人は従うだけとなる。このようなゲシュタルト的反転は、同一平面上の「比」によって生まれる。

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 もしある個人が社会に主体を奪われて、自由を失っているとすればどうか。その人は生きた心地がしないし、何かに従うだけでヤル気も出ない。結果はすべて奪われるような気がする。「地」と「図」を分けて、社会から一度個人を切り離し、再度個人に主体性を獲得させるにはどうすればよいか。それは信念や根性などではなく、ゲシュタルト的な比を操作することで解決が見えてくる。
 結論からいえば、同一平面上のゲシュタルト的な比が、反転現象を起こすので、同一平面から逃れると反転が起こらなくなる。つまり平面から逃れるためには、高さを設定して立体的に逃れる必要がある。絵で言えば壺を立体的に(影などをつけて)描けば反転は防ぐことができる。立体的に描くとは、壺の「構造を示す」ということ。これを個人に置き換えると、自分自身の心理構造を(自分に)示すとこで、平面社会から立体的に抜け出すことが出来る。逆に社会の構造を示す(正確に認識する)ことでも、社会と個人を分離することができる。この解決法は心理学のようで、実際は物理学の問題だと考えられるのです。

AUTOPOIESIS 0044/ illustration and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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