『アイデンティティとは』

 自分がない。どうしてよいかわからない。或いは、なにが好きかわかない。こういった感覚を「アイデンティティの喪失」と表現することがあります。自分の中に「中心軸」がなく、一貫した基準をもてない状況です。そもそも「identity」とは発達心理学者のエリクソンが言い出した言葉です。自己同一性という意味ですが、これはもともと論理学のことばです。
 論理学でいう「identity」とは同一律、つまりどのような状況下においても「AはAである」ということです。外部に影響を受けて変化することがない。このように論理上の自己同一は外部環境にたいして決して「動かない」ものです。
 しかし現実の世界は常に変化しています。宇宙誕生から銀河が形成され、惑星が誕生し現在にいたるまで、世界は変化し続けている。物理的な現実世界において動かないものはありません。人間も常に(生理的に)動いている。止まれば死です。このような波打つ現実世界の上で一貫性を保つには、「基本軸への補正」(舵取り)を繰り返す「装置」が必要です。実はこれこそが自己同一性、「アイデンティティ」です。一般に考えられている自己とは、変化を拒み自分を頑なに守ることです。これは実際の自己同一性とは真逆と言っていい認識です。

古賀ヤスノリ イラスト

 波の上に船が浮かんでいる。目的地へと舵をとる。大きな波がくれば舵を修正する。外からのフィードバックを取り入れ、舵取りの修正を繰り返す機構は、「サイバネティックスシステム」と呼ばれるものです。自動運転のドローンなどはこの「サイバネティックスシステム」で動いています。もしドローンが頑なに自己を閉じれば、強風に流されて墜落するでしょう。つまり自己を閉じて頑なに防衛すると、人間の精神も墜落し、心は難破するということです。
 船は波とうまく同期することで舵取りが可能となる。ドローンは風と同期することで目的地へと到達する。どちらも外部環境との「接点」を持つことで、適切な行動がとれます。この接点をもち情報を咀嚼する装置が、自己でありアイデンティティです。よってもし、アイデンティティを喪失しているのだとすれば、それは何かが欠損しているのではなく、「外部との接点を失っている」ということです。「どうしてよいかわからない」のは目的地の喪失ではなく「地図の喪失」なのです。この場合地図とは、現実あるいは客観性と言い換えてもよいものです。
 「アイデンティティの喪失」とは、現実との接点の喪失であり、地図の喪失です。論理的な「AはAである」を物理的な現実世界で成立させるためには、「環境変化」という変数を内部で処理しなければなりません。その機構は「外部との接点」を持つことによって自然に「発生」しだす。人間は自然物であり機械ではありません。植物が種と環境の適切な接点において「発芽」するように、人間の自我も「外部との接点」をもつことで「発芽」する。この意味においてアイデンティティは「化学的な契機」によって生まれると考えられます。それは、これまでの心理学が「機械論的な機構」と考えていたものを大地へと戻す視点です。当然だと信じられている学問ですら、形骸化すると環境との接点を失うのです。

AUTOPOIESIS 0043/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『主客構造論』

 よく主観と客観という言い方をします。前者は心的な世界であり、後者は物理的な事実といったニュアンスで使われます。どちらにしろ対象となる世界は一つであり、その世界の見方の違いを区別したものです。この二つを区別することで文明は発展して今日に至っています。この二つの区別をしなかった時代、主客未分化な状態にある人々は、現代とは全く違う世界観に生きていたと考えられます。
 例えば、雷がなる理由を「神の怒り」に結びつけた。あるいは雨が降ったのは「雨乞い」の結果だと信じた。つまり結果と原因を非科学的な物語で連結していた。現代では結果と原因を科学で連結します。しかし「結果と原因」を結び付ける、という意味においては、原始的社会と現代社会は同じ理屈で生きていることになります。二つの社会の違いは「科学による接続」なのか、もしくは「物語による接続」なかの違いだけです。
 結果と原因を接続する。「~の原因があったのでこの結果になったのだ」という接続は、結果の正当化でもあります。結果が科学や物語で正当化されることで、人々は安心する。その結果がなぜ起こったのかが、まったく分からないままであれば、人々は不安なままでしょう。たとえばUFOが飛来し、人魂が見え隠れする世界が続けば、人々はその原因を無理にでも作り出すはずです。
 結果と原因の間が未確定な場合、人は原因を無理にでも作り出そうとする。人々が安心できるレベルまで、原因を明らかにしようとします。しかし、その原因は常に「人々が安心するレベル」にとどまる。日常の原因究明を「電子顕微鏡」のレベルまで作り出そうとはしない。その意味では現代社会であろうと、未開社会であろうと、原因の究明は「集団的な安心」のために作り出されるということです。言い換えると、「原因は集団の安定のために作り出される」と言えるでしょう。

古賀ヤスノリ 風景画

 これを逆側から言うと、集団はその世界観を正当化するための原因(理屈)を必要とする、ということです。原始的な社会では、雷が「神の怒り」ではなく、科学的な原因の結果だと言い始めたら、それまで集団で共有していた世界観は破堤します。彼らにとっては、物語こそが客観性であり、それ以外の視点は主観に過ぎない。科学を持ち出す人は、心的に狂っていて現実との区別がつかなくなっていると判断されてしまいます。もちろん現代では逆のことが起こっています。火を見て神の仕業だと叫べば病院送りです。しかし、どちらにしても同じ「集団的な原理」に過ぎないという認識が、真の意味での客観性だといえます。
 結果に原因を与える。そのレベルは集団を安定されるレベルと符合する。さらに主観と客観の概念も、その集団という分母に規定されている。このことから分かることは、妄想症だと判断されている人は、その人が帰属する集団(家族や家系)と現実社会(一般)の価値観にズレがあるがゆえに、「結果と原因の結び付け方」が病的だと判断されているということです。その人が帰属する集団(家族や家系)を正当化するために、その人は妄想を強いられている。つまり問題は妄想を抱く個人ではなく、妄想を個人に強いている集団にある。この視点を持たないかぎり、いくら精神病理学を適用しても時間を浪費するばかりです。主観と客観の問題は、個人の問題ではなく集団の問題だと考えられるのです。

AUTOPOIESIS 0042/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『時空へひらく』

「書物はそれを開かない限り書物ではない」。これは作家ボルヘスの言葉です。書物はいくらそこに内容が詰まっていたとしても、その内容が外へと出ていかなければ、存在も知られないし影響を与えることもできない。さらにボルヘスはこう言っています。「書物はひもとくたびに変化する」と。これはどういう事でしょうか。本の中にあるのは文字情報です。その情報をいつ開いても同じ内容であることは間違いありません。しかしひもとくたびに変化する。つまり読むたびに「自分にとって」内容の意味が変化するということです。
 ボルヘスの言葉は書物だけでなく人間にも当てはまります。「人間はそれを開かない限り人間ではない」。つまり自分自身を開かないかぎり人間ではないということです。開くとは「心を開く」といったところです。過度に防衛的で心を閉ざしている(怖れに屈している)限り、人間としての存在はなく、外へ影響を与えることもない。逆に心を開いて出ていけば、そのたびに自分と世界が変化していくということです。変化とは過去との別れですから、この場合は進化すると言ってよいと思います。

古賀ヤスノリ 風景が

 内容物があるだけではこの世に存在したことにはならない。いくら主観であれこれ考えても、それを外へ表現しなければ無いも同然です。外へ出すにはそれなりに勇気が必要です。私的空間やウェブ上であれば大胆になれるも、現実の世界や公の空間、面と向かった相手には何も言えないという事もある。しかし真に「この世に存在している」という実感を得るには、自分を開き(仮面をはずし)、その内容を外へ表現しなければならない。人間が世界を認識する基盤である「物理的空間」に表現する必要があります。モノローグやSNSの表現だけでは、存在が実感されるまでには至らない。不足部分が不安となって残ります。
 自分の心が実感していることを、物理的空間に表現していく。時間的、空間的な場所にだしていく。そのことで「現実のフィードバック」を取り入れることになる。その新しい情報が自己内に取り入れられ、新しい考えを作り出す。そしてそれがまた外へと表現されていく。「書物はひもとくたびに変化する」とは、書物も読み手も変化するということです。自己を時空へと表現し変化してゆくことが、本来の意味での「人間が生きている」ということなのです。

AUTOPOIESIS 0041/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『ローマ』

古賀ヤスノリ イラスト

 フェリーニの記憶とともに甦る“フェリーニのローマ“。それはイマジネーションの噴出の記録である。カエサルが渡ったルビコン川。そしてローマ行きの列車へ思いをはせるフェリーニ少年。彼はいつしかその列車にのってローマへと旅立つこととなる。

フェリーニの自伝的内容を、少年期・青年期・現代の三部構成で描いた記憶のカットアップ。フェリーニを巨匠にまで育てあげた街ローマ。その圧倒的なイメージの連続は、自伝的内容をこえてまさにファンタジー。自伝が幻想化していくような映画は、タルコフスキーやパラジャーノフの映画にもある。しかしその中にあってこのフェリーニのローマは特にエネルギッジュで心を熱くさせる。映画の中盤で自ら登場するフェリーニが、若者たちに語りかける言葉にこの映画の本質がよく表れている。「映画は理論ではない!」。映画が芸術であることを証明してくれる、映画史に残る傑作。

vol. 003 「ローマ」 1972年 イタリア120分 監督:フェデリコ・フェリーニ
illustration and text by : Yasunori Koga

★古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

『文明の逆走』

 人間は文明を築き、科学を発達させながら今日に至っています。その間、大きな戦争や原発事故など、お世辞にも文化的な動物とは呼べない事態が定期的に起こっています。これは文化の発展を阻害する要因であることは間違いありません。よく戦争によって医学や工学が発達したと言い、戦争を肯定する人がいます。しかしそれは悪い結果に足場を組んだ「悪質な考え」であって、戦争を回避できる知性があれば、戦争で必要となるレベルをはるかに超える「人類に役に立つ発明」がなされていたに違いありません。  
 文明に対する逆走。逆走が危険なことは道路を想像するだけでも明らかです。逆走の代償はとてつもなく大きい。なぜなら逆走しないことを前提に物事が動いているからです。生物の進化とて基本的に逆走はない。しかし人間は歴史的に逆走を繰り返しています。当然その代償は大きく、歴史的な事件として現れます。このような逆走はなぜ起こるのでしょうか。
 たとえばこれを、個人の問題として考えてみます。ある人が、希望をもって計画を立て、実行していく。計画では(たとえば一年で)今の状況を脱出し、目的の場所へ到達する。順調に進むにつてれ目標地点が近づいて来る。しかしある地点まで来たところで、急に向きを反転させてしまう。たとえば「やっぱり今のままがいいや」とか「次の場所で失敗するかもしれない」といった理由を作り出して。そして今来た道を逆走し始める。これが個人の逆走プロセスです。  ここで問題となるのが、逆走した本人は、逆走しているとは思っていないということです。向きを変えただけで、今まで通り「進んでいる」(直進している)と思っている。向きを変えたポイントだけが強く正当化(隠ぺい)されている。人間は正当化したところが盲点となります。途中でUターンして出発点に戻る。矢印が最初に連結されると一つの環ができます。そして永遠にループすることになる。

古賀ヤスノリ 人物画

 この「繰り返しの環」は蛇が尻尾をくわえたウロボロスの構造です。つまり自己言及的な「パラドクス構造」です。ある地点で超えなければならない壁があり、それを超えられずに踵を返し逆走するとウロボロスの構造が出来ます。この構造内に出口はありません。さらに問題なのは、自己言及的な構造内のエントロピーは増大するということです。簡単に言えば「内部は崩壊する」。歴史的に言えば、科学技術の急激な発達に、人間の「精神的な成熟」が追い付かない時、新しい目的地が暗示されるが壁を恐れて逆走してしまう。戦争も巨大な事故も「未熟な精神」が「次元の壁を越えられない」ことから起こると考えられます。
 「文明の逆走」が起こらないようにするには、科学技術の急激な発達に対し「人間の精神」を成熟させなければなりません。その前提となるのが「科学の発達に人間の精神が追い付いていない」という正しい認識です。その前提なくして、「文明の逆走」を回避するための「精神的成熟」を手に入れることは出来ません。
 現在はウェブ革命によって、グーテンベルク以来、最大の情報革命が起こっています。いまのところ急激な情報技術革命に「精神の成熟度」が追い付いていない状態です。操作しているようで実際は翻弄されている。そして世界的にみても、政治から経済にいたるまで「文明の逆走」が始まっています。このUターンがウロボロスを形成すると、下手をすると戦争にすらなりかねない。私たちは本物の知性を獲得し、この「文明の逆走」を何とか食い止めなければなりません。それは政治でも宗教でも経済でもない「個人の意思」から始まるものなのです。

AUTOPOIESIS 0040/ painting and text by : Yasunori Koga
古賀ヤスノリのHP→『Green Identity』

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